あの夜のことは、今でも夢か現か分からない。
記憶の端がぐずぐずと濁っていて、自分の中で線引きができない。生と死、現実と幻、そのすべてが滲み合って、あたしの輪郭をぼやけさせてしまった。
あたしは確かに、いちど死にかけた。正確に言えば、殺されかけた。誰に? 人間にあらざるものに。けれど、その根は生きた人間にある。そう、生き霊。あれは――旦那の前の女だった。
当時のあたしは、日ごとに気分が沈み、心は穴が開いたように乾ききっていた。食べ物の味もしない。鏡の中の自分が見知らぬ他人に見えた。何度か無意識に包丁を握った記憶もある。
二週間、ほとんど眠っていなかったらしい。いや、眠っていたのかもしれない。だけど、起きているときと眠っているときの境が消えていて、時間の感覚もおかしくなっていた。
「お前、昨日、信号に飛び込もうとしたの、覚えてる?」
夫が恐る恐る言ったことがあった。あたしは首を振った。まったく記憶になかった。自分の体が、自分の意志で動いていなかった。そうとしか言えなかった。
ある晩、大学時代の友人から突然電話がかかってきた。彼女の声はいつになく焦っていた。
「今、知り合った子の母親が……あんたにすぐ来てって。すごく急ぎなんだけど」
その言葉に、無性に嫌な気配を感じた。見ず知らずの女に会いたくなんてない。そう言って断ったのに、数分後には友人が車で迎えに来て、無理やり連れて行かれた。
その家の玄関をくぐった瞬間、空気がねっとりと皮膚にまとわりついた。冷房でもない、真冬の寒さでもない。魂が冷えるような感覚。
リビングにいたのは、細い体の中年の女。瞳が、まるで溺れかけの人間のように潤んでいた。あたしを見るなり、彼女はすぐに立ち上がり、ぎゅっと抱きしめてきた。
「しんどかったね……よく頑張ったね……」
あたしは訳も分からず、その腕の中で声を漏らすこともできなかった。
その人――Aさんと名乗った女性は、静かに語り始めた。
「あなたのお母さんが、わたしのところに来たのよ」
死んだ母の名を出されたとき、あたしの背骨は痺れた。母は、数年前に自ら命を絶っていた。誰にも看取られず、暗い風呂場で。
「『娘が殺される。助けて』って、必死に頼んできたの。……でもね、お母さん、成仏できてないの。だから、あなたを護りたくても護れないのよ」
あたしは泣いていたのかもしれない。鼻の奥がひりついて、喉が詰まって、目の前が滲んだ。Aさんはゆっくりと、まるで誰かの通訳をするように語り続けた。
「今、あなたのそばにいる。ひざまずいて、ごめんね、ごめんねって、ずっと謝ってる……」
そのとき、なにかがふっと軽くなった気がした。あたしの両肩に乗っていた、重たい何かが剥がれ落ちるような。けれど、それと同時に部屋の空気が、今度はどす黒く染まった。
「まだいるわね……ひどい念。こんなに歪んだ生き霊、初めて見たわ」
Aさんの瞳が鋭くなり、何もない空間をじっと睨んでいた。
「人間じゃない……もう妖怪よ。顔は崩れて、手足が獣みたいに伸びて……これ、あなたの旦那さんの前の奥さんね」
あたしは思わず息を呑んだ。元妻の顔が、胸の裏側からずるずると這い出してくるような錯覚に襲われた。
「女狐ってこういうのを言うのね。旦那さん、よく十年も耐えたわね。……でも、もう大丈夫」
そう言ってAさんは、何かを払うような仕草をした。風もないのに、カーテンが揺れた。
それから何日か、あたしの体はどこか宙に浮いたような感覚だった。眠ることができ、起きて、食べて、笑うことができる。それがどれほど奇跡的かを、思い知った。
後日、再びAさんの家を訪れたとき、彼女は厳しい顔をしていた。
「……もう少し遅れてたら、あなた、死んでたわ」
「え……」
「来たとき、体の半分、透けてたのよ。魂がもう、半分あっちに行ってたの。お母さんが、ギリギリで繋ぎ止めたのよ」
あたしはその場で膝から崩れた。畳の上に爪を立て、涙をこらえた。
「……お母さん……」
「そうね、感謝しないと。一緒に、お母さんを成仏させてあげましょう」
あれから半年、Aさんのもとに母が現れたそうだ。
「もう大丈夫。娘をお願いできてよかった」
そう言って、やっと笑っていたと、Aさんは言っていた。
あたしの母は死んでもなお、あたしを護った。その想いが、死者をも超えて、時空を裂いて、あたしの命を奪おうとする存在から引き剥がしてくれた。
愛とは時に恐ろしい。ひとを生かすだけでなく、あらゆる理をねじ曲げる。
母の愛は、そういうものだった。
[出典:424 :名無しさん@自治スレにてローカルルール議論中:2009/01/11(日) 18:39:10]