祖母が亡くなったのは、十年以上前のことだ。
私は大学の課題に追われ、コンビニでカップ麺を選んでいた。帰り道、母からの電話に出た瞬間、言葉より先に異様な静けさが耳に残った。声が震えていたのではない。向こう側が、やけに遠かった。
葬儀が終わって三日目の夜、母は私に言った。
「おばあちゃん、あなたの本当の祖母じゃないの」
育ててくれた祖母と、母に血のつながりはなかった。母を産んだ女性は、若くして未婚のまま出産し、三歳になるころ病に倒れ、遠縁の夫婦に子を預けた。その夫婦が、私の知る祖父母だ。
「一時的に」のはずだった預かりは、そのままになった。実母は亡くなり、葬儀もひっそりと終わったという。
祖母は母を手放さなかった。親族の反対を押し切り、自分の娘として育てた。
そこまでは、よくある話に聞こえる。
母が少し間を置いて、続けた。
「でもね、あの人、迎えに来たことがあるんだって」
まだ母が幼く、祖母と同じ布団で眠っていた夜のことだという。祖母がふと目を開けると、布団の縁に女が座っていた。
白い、としか言いようのない輪郭。顔は曖昧で、目だけがこちらを見ている。
祖母はすぐに悟ったらしい。この子の母親だ、と。
声は出なかった。ただ心の中で繰り返したという。
「この子は、私が育てます。私たちが、ちゃんと育てます」
女は何も言わず、立ち上がり、音もなく消えた。
母はその話を中学生のときに聞かされた。少し荒れていた時期だったらしい。
「ぐれたら連れて行かれるって思って、怖かった」
母はそう言って笑ったが、その目は笑っていなかった。
私はその話を、美談として受け取ることができなかった。迎えに来た、という言葉だけが妙に残った。
祖母の遺品を整理していたとき、小さな木箱の底から紙切れが一枚出てきた。黄ばんだ和紙に、震える文字でこう書かれていた。
――この子を、どうかよろしくお願いします。
筆跡は知らないものだった。少なくとも、祖母の字ではない。母の字にも似ていない。
けれど、奇妙なことに、その紙の裏にうっすらと別の筆圧が残っていた。透かして見ると、かすれた跡がある。
――返してください。
光の加減でしか読めない、押しつけたような痕跡。墨ではなく、紙そのものが凹んでいる。
祖母は、その紙をなぜ持っていたのか。誰から渡されたのか。どうして裏の跡に気づかなかったのか。
祖父は認知症が進み、何も覚えていない。母の実母の墓も所在不明だ。
祖母の死後、しばらくしてから、母が言い出した。
「夜になると、誰かが座ってる気がするの」
私は反射的に、あの話を思い出した。
「白い人?」
そう聞くと、母は首を振った。
「白くはないの。黒い。輪郭が、影みたいに濃い」
祖母が見たという女と、色が逆だ。
母は続けた。
「顔は見えない。でもね、手だけははっきりしてるの。皺があって、小さいの」
それは、祖母の手だ。
その夜、私は母の部屋の前に立った。扉の下から、明かりは漏れていない。静まり返っている。
ふと、気づいた。
廊下の壁に、二つ影がある。
一つは、私のもの。
もう一つは、扉の前に立つ誰かのものだ。
横向きで、腰をかがめている。まるで、布団の縁に腰かけるような姿勢で。
振り向いても、廊下には私しかいない。
影だけが、扉に寄り添っている。
その影の手が、ゆっくりと持ち上がった。
私は、扉を開けられない。
あのとき祖母が訴えた相手は、本当に「迎えに来た母親」だったのか。
それとも。
今夜も、母の部屋の向こうで、何かが座っている。
そして、廊下の影は、少しずつ私の足元に近づいている。
私は、どちらの側に立っているのか、もうわからない。
[出典:348 :可愛い奥様:2007/11/05(月) 22:41:02 ID:pRuKNY4d0]