三年前のことだ。誰にも話していない。いや、話そうとしても通じない。
だからこれまで黙っていた。誰かに話せば、自分の頭がおかしいと思われるだけだとわかっていた。
だけど、どうしても吐き出したい。あれは夢でも幻でもない。俺の妄想じゃない。確かに、あの人は存在していた。……俺の世界には。
同じ職場の女性。仮にAさんと呼ぼう。
三十代後半の、明るくて気配りができる人だった。中途入社で入ってきて、すぐに部署に馴染んだ。男も女も癖の強い連中ばかりの職場で、いない人の悪口を言うようなやつも少なくなかったのに、Aさんのことを悪く言う人はいなかった。
初めのうちは特に話す機会もなかった。でも、仕事で組むようになってからは自然と会話が増えた。
既婚者で子供はいなかったが、年上のその人に、俺は惹かれていた。好きだった。口に出すことはなかったし、向こうもまったくそんな素振りを見せなかったけど、心のどこかで期待していた部分もあったのかもしれない。
ある週末、仕事が押してしまって遅くまで残業になった。俺は珍しくやる気満々で、片づけられるところまで終わらせようと思っていた。
帰り道、駐車場まで一緒に歩いた。誰もいないオフィス街の夜。自分の足音と彼女のヒールの音だけが、アスファルトに響いていた。
軽い気持ちで訊いた。
「土日は何するんですか?」
下心がなかったと言えば嘘になる。「予定ない」とか返されたら、飯でも誘ってみようかなんて――冗談半分、本気半分。
だけど彼女は、目を輝かせてこう言った。
「久しぶりに旦那と出かけるの。紅葉が綺麗だから!」
ああ、そうか。そうだよな、と思った。笑ってごまかした俺に、Aさんは「○○くんは予定あるの?」と訊いてきた。
「ゲームとか車いじりくらいですかね」
「彼女と出かけたりしないの?」
「居ませんよー」
「イケメンだし性格もいいのに、もったいないなー」
……そんな他愛もない会話だった。寒空の下で、しばらく立ち話をして、それから「じゃあ、また月曜に」と別れた。
――月曜日。俺はいつも通り出社した。
だが、いつもなら既に席についているはずのAさんの姿がなかった。
始業のチャイムが鳴っても来ない。休みかと思ったけど、朝礼でも彼女の名前は呼ばれなかった。誰も彼女のことを話題にしない。
違和感があった。嫌な汗がじんわり背中を伝っていく。
一番仲の良かったBさんに訊いてみた。
「Aさん、今日はお休みですかね?」
Bさんは、怪訝な顔をした。
「Aさん?……誰?」
「誰って、Aさんですよ。同じチームで働いてたじゃないですか」
「……違う部署の人?」
冗談かと思った。でも、顔が本気だった。わからない、知らないと、本当に思っている目だった。
焦った。係長にも訊いた。
「係長、Aさん、今日どうしたんですか?」
「え?……誰のこと?」
頭の中が、ぐるぐるとかき混ぜられたみたいになった。悪い夢の中にいるような感覚。何かがおかしい。確実におかしい。
急いで彼女の席へ向かった。引き出しを開けた。すべて空っぽだった。
机の上には何もなかった。そういう人だったのかもしれない。でも、何もなさすぎた。消えたのではなく、「存在していなかった」みたいに、痕跡そのものがない。
メールを開いた。社内のグループメールからも、彼女の名前は消えていた。俺の送信履歴にも受信履歴にも、彼女の名前はなかった。フォルダを全部探しても、バックアップを見ても、どこにも彼女は存在しなかった。
ふと、背中がぞわっとした。職場で、俺以外の全員がグルになってるんじゃないかって、そんなバカみたいな妄想さえ浮かんだ。
だけど違った。取引先に連絡してみても、Aさんの名前を出すと、みんな「?」という反応だった。
その人が担当してたはずのプロジェクトも、俺一人の担当として記録されていた。
それからしばらくは、仕事が手につかなかった。無理もない。いたはずの人間が、いなかったことにされていたのだから。
でも――俺の手元には一枚だけ、彼女がいた証拠がある。
小さなメモ。俺宛ての業務連絡。黒いボールペンの筆跡。「○○、よろしくお願いします。A」
何度も見返した。手触りを確かめた。裏表を光に透かしてみた。……確かに、そこにある。消せない証拠が。
そのメモは、会社には持っていっていない。誰にも見せていない。今も自宅の引き出しの奥にしまってある。
Aさんが消えて、三年が経った。
未だに答えは出ていない。彼女がこの世に存在しなかったのか、俺だけが何かを見ていたのか、それすらわからない。ただ、あの冬の夜の、彼女の笑い声や仕草は、はっきりと記憶に焼き付いている。
もしかすると、俺もいずれ、誰かの記憶から消えるのかもしれない。
そう考えると、今もゾッとするんだ。
[出典:606 :本当にあった怖い名無し:2021/10/16(土) 22:17:02.44 ID:ogfMIv+V0.net]