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404号室 r+2,621

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今でもあの四階の匂いを思い出すと、喉がひりつく。

消毒液ともカビともつかない、湿った金属の匂いだった。

その日、黒いコートの男が事務所に来た。真夏の午後で、窓ガラスが白く曇るほど熱かった。
「四〇四号室を借りたいのだが……」
声は紙をこするようなかすれ声だった。喉の奥で何かが詰まっている。

「申し訳ありません。その部屋は存在しないんです。見取り図をご覧ください。四〇三号室と四〇五号室の間には――」
私は何度も繰り返した台詞をまた口にした。だが男は静かに首を振った。
「知っている。だが借りるのだ」

コートの袖口から覗いた手は、指の節まで煤けていた。

所長が出てきて、いつもの調子で「お話を伺いましょう」と言った。
私はしぶしぶ席を外した。
二人の声は次第に低くなり、やがて何も聞こえなくなった。
三十分ほどして、所長が私を呼んだ。
「このお客様に四〇四号室をお貸しする」
所長の目は濡れたように光っていた。

契約書を作ると、男は黒い指でサインした。
『NYARU HOTEP』
見慣れない文字が、インクの中でゆらゆら動いていた。


一週間後、私は明渡しの立会いでそのビルに行った。
気まぐれで四階へ上がると、そこにあった。
四〇四号室。
金属のプレートが新しく光っている。
見取り図には存在しない部屋だ。
ドアを叩くと、あの黒ずくめが出てきた。
「見ての通り、四〇四号室だ。何かおかしなことでも?」
冷たい風が足元をすり抜けていった。

階の端から端まで数えると、ドアは五つあった。
あり得ない。
手のひらに汗が滲んだ。

他の住人に聞いて回ったが、誰も驚かない。
「最初からあったでしょ?」
「前の人、挨拶してくれたよ」
彼らの声がどこか遠くから聞こえる。口が動いているのに、言葉が遅れて届く。
廊下の空気が水のように重かった。

管理人までが言う。
「お国の相談所らしいよ。お客さんが多くてねえ」
そのとき、私は思った。あの部屋は“客を呼ぶ”場所なんじゃないか。


何度もベルを鳴らし、やがて無理やりドアを押した。
だが手のひらが、見えない壁にぶつかった。
熱い。まるで皮膚のような温度がある。
「部屋は、用のないものを拒む」
男が言った。
エレベータの音がして、荷物を運ぶ業者が通り抜けた。
私を押しのけ、その“壁”を何の抵抗もなくすり抜けて。

私はその夜から、眠れなくなった。
まぶたの裏で、あの五つ目のドアが開いたり閉じたりしている。


一ヶ月後、所長が言った。
「退去されるそうだ。立会いを頼む」
ついに、堂々と部屋に入れる日が来た。

ドアを押すと、抵抗なく開いた。
中は拍子抜けするほど普通の部屋だ。
冷蔵庫もテレビもある。
床には薄い埃が積もっている。
「確認は終わりか」
「どうやって一部屋増やしたんだ」
「契約だ。契約が続くかぎり部屋は在る」

男は黒い鞄を手に去った。
私は残り、最後の点検を続けた。
どこを調べても仕掛けはない。
だが窓の外は、昼なのに夕暮れの色をしていた。

ドアを開けようとしたが、開かない。
鍵を回しても音がしない。
窓も動かない。
外の景色が暗くなり、空気が柔らかく沈んでいく。
時計の針が三時で止まったままだ。

床の上を歩くと、足跡が少し沈んだ。
呼吸をするたび、壁がかすかに鳴る。
冷蔵庫を開けると、朝に見たときと同じ量の食料が詰まっている。
水道の水はぬるい。
電灯の明かりはいつまでも切れない。

半年が過ぎた。
私はここで生きている。
だが、ここから出る方法を思い出せない。

壁の向こうで、誰かがベルを鳴らしている。
あれはきっと、次の契約者だ。

(了)

解説

この作品は、「存在しない部屋を借りたい」という一点の狂気から始まり、空間そのものが現実の法則を裏切っていく過程を淡々と描いている。
テーマは、「契約」と「存在」。人間が“紙の上で合意すれば”世界がそれを追認してしまうという、現代的な恐怖が核にある。

主人公は、制度の末端にいる管理会社の職員だ。彼の仕事は、書類を作り、現実を「帳簿」に合わせること。だからこそ、「404号室」という空白が出現したとき、彼は世界の綻びの中心に立たされる。つまり、「存在しないものを管理する者」という立場に追い込まれていく。

物語の構造は三幕。
前半は滑稽なやり取りの中に、微妙な違和感が芽を出す。男の手の黒さ、声のかすれ、真夏のコート――どれも説明できないが、どこか“物理ではない”気配を帯びている。

中盤では、周囲の人間たちが次々に「最初からあった」と証言する。ここで重要なのは、“語り手だけが現実を正しく覚えている”という孤立の描写だ。狂っていくのは彼か、それとも世界か。

終盤、彼は部屋に入り、閉じ込められる。ここで空間と契約が融合し、部屋が一つの生命体のように振る舞い始める。「部屋は私を死なせたくないようだ」という一文は、表層的には恐怖だが、裏では“人間の存在を記録する空間の欲望”を示している。

404という番号には、インターネット文化の影もある。「Not Found」――存在が認識されないというメッセージ。だがこの物語では逆に、「認識されないものが、存在を獲得する」側へ転倒している。
つまり、“見つからないもの”が“見つける側”になる反転。語り手は最後に「次の契約者のベルを聞く」。その瞬間、彼自身が404号室そのものになっている。

文体面では、古典怪談の口調をベースにしており、近代的なテーマを古風な語りの器に封じ込めた構成が効果的だ。説明を極力省き、匂いや音、湿度で不安を積み上げる手法は成熟している。
特に、「壁がかすかに鳴る」「足跡が沈む」といった描写は、読者の身体に直接触れる感覚的恐怖を喚起する。

本作の真髄は、「怪異は“存在しない部屋”ではなく、“存在しないことを許さない世界”の側にある」という点にある。
つまり、恐ろしいのは黒い男でも部屋でもなく、書類一枚で現実が書き換わってしまう社会の仕組みなのだ。
静かな諷刺と、言葉の余白が、作品全体を“現代の幽霊譚”として成立させている。

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