放課後の図書室に、最後まで残ってはいけない理由があると聞いたのは、小学四年のときだった。
最初はただの噂だった。「聞いたら後悔する話がある」と誰かが言い出し、その“誰か”が毎回違っていた。六年生から聞いたという者もいれば、転校していった子が置いていった話だと言う者もいた。共通していたのは、今の担任が詳しいらしい、という一点だけだった。
私は怪談が好きだった。怖い話を集めては、夜に一人で読み返すのが習慣だった。だから、その話を聞いたときも、怖さより先に好奇心が立った。
職員室で担任に尋ねると、先生は一瞬だけ目を伏せた。
「図書室のことは、あまり面白半分で触れないほうがいい」
それだけ言って、書類に視線を落とした。だが、私が食い下がると、先生は小さく息をついた。
「昔、図書室の鍵は外からしかかけられなかった。今は内側からも開けられる。……それだけ覚えておきなさい」
理由は教えてくれなかった。ただ、その日以降、先生が放課後に教室へ残らなくなったことだけは事実だった。
卒業して数年後、同窓会で再会した友人が、あの話の続きだと前置きして語った。
夏休み前のある日、一人の女子生徒が図書室に残っていたという。読書感想文のため、最後まで本を読み切ろうとしていたらしい。閉館時間が過ぎ、警備員が見回りに来た。机の下や棚の間を確認したが、誰もいなかった。窓も施錠され、異常はなかった。だからそのまま、扉を閉め、鍵をかけた。
だが、少女は柱の影にいた。声をかけられても気づかなかったのか、あるいは返事をしなかったのかは分からない。彼女が扉の異変に気づいたときには、もう夕暮れだった。
夏休みのあいだ、図書室は誰も使わない。少女は家に帰らなかった。両親は捜索願を出した。だが、学校は夏季閉鎖中で、図書室が最後に確認されたのは“無人”という記録だけだった。
休み明け、扉が開けられたとき、少女は床に倒れていたという。
そこまでは、ありふれた事故だ。
だが、友人はそこで声を落とした。
「問題は、その本だ」
少女が読んでいた本は、貸出記録に残っていなかった。蔵書印もなかった。だが、棚には確かに戻されていた。警察は証拠として持ち出したが、数日後、なぜか学校へ返却されたという。
本の余白には、鉛筆の文字がびっしりと書かれていた。
閉じ込められたと気づいた瞬間から、意識が途切れるまでの出来事。助けを求める声。喉の渇き。窓の外の色の変化。空腹より先に襲ってきた眠気。夢と現実の境界。呼吸が浅くなる感覚。
それらが、ページの隅、行間、欄外にまで埋め尽くされていた。
だが、不思議なのは、最後の一文だった。
そこには、「犯人を恨む」とも「助けてほしい」とも書かれていなかった。
ただ、こうあったという。
《あなたは、どこで気づきましたか》
友人は、そこまで話してから、私を見た。
「この話、聞いたことあるだろ」
「初めてだ」
そう答えたが、胸の奥がざわついた。私は本当に初めてだったか。担任の目を伏せた瞬間、何かを連想していなかったか。図書室の柱の影を、妙に具体的に思い描けていないか。
「その本、まだあるのか?」
私が問うと、友人は肩をすくめた。
「さあな。噂じゃ、今も棚に戻ってるらしい。でもな、読んだやつはいない。ページを開くと、余白が増えてる気がするって」
「増えてる?」
「最初は数行だったらしい。でも、見るたびに文字が増えてる。閉じ込められた時間が、まだ続いてるみたいに」
私は笑い飛ばそうとした。だが、喉が鳴らなかった。
「お前、読んだのか」
友人は首を振った。
「読んでない。ただ、聞いただけだ」
そのとき、私はようやく理解した。
あの話は、本を読んだ者を呪うのではない。
図書室に誰もいないと“確認した”者でもない。
ただ、「確認した」と信じた者の中に入り込む。
少女を閉じ込めたのは、扉を閉めた警備員かもしれない。だが、本当に閉じ込めたのは、机の下を見て「いない」と判断した誰かだ。
そして、その判断は、今も繰り返されている。
空の教室。無人の部屋。返事のない声。
確認したつもりで、見落とした影。
私は帰宅してから、本棚の前に立った。古い文庫本を手に取り、何気なくページをめくった。余白に、かすれた鉛筆の跡があるような気がした。
もちろん、何も書かれてはいなかった。
だが、ページを閉じる直前、ふと疑問が浮かんだ。
私は、本当に“見た”のか。
それとも、見ていないと決めただけなのか。
この話をここまで読んだあなたは、図書室の棚を思い浮かべたはずだ。
柱の影も。
扉の重さも。
もし、今夜どこかで、誰もいないはずの場所を確認する機会があれば、もう一度だけ考えてほしい。
あなたは、本当に気づいているのか。
それとも――まだ、気づいていないだけなのか。
[出典:269 名前: 本当にあった怖い名無し 2006/08/12(土) 23:52:33 ID:EzfVqt9c0]