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中編 師匠シリーズ

師匠シリーズ 053話 エレベーター(1) (2)

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053 師匠シリーズ「エレベーター1」

大学一回生の秋だった。

午後の気だるい講義が終わって、ざわつく音のなかノートを鞄に収めていると、同級生である友人が声を掛けてきた。

「なあ、お前って、なんか怪談とか得意だったよな」

いきなりだったので驚いたが、条件反射的に頷いてしまった。

「いや違う、そうじゃなくて、怪談話をするのが得意とかじゃなくて、あ~、なんつったらいいかな」

友人は冗談じみた笑いを浮かべようとして失敗したような、強張った表情をしていた。

「……怖いのとか、平気なんだろ?」

ようやくなにが言いたいのかわかった。彼の周囲で何か変なことがあったらしい。

だが頷かなかった。平気なわけはない。

「外で聞く」

まだ人の残った教室ではあまりしたくない話だ。

俺はその頃はまだ、できるだけ普通の学生であろうとしていた。

夕暮れの駐輪場で、自転車にもたれかかるようにして経緯を聞く。

彼は郊外のマンションに一人で住んでいるのだと言った。

エレベーター完備の十階建てで、見通しの良い立地場所なのだとか。

親が弁護士で、仕送りには不自由していないのだそうだ。

口ぶりから自慢げな雰囲気を嗅ぎ取った俺が、「帰っていい?」と言うと、ようやく、そのマンションで気味の悪いことが起こっている、という本題に入った。

「エレベーターで一階に降りようとしたらさ、箱の現在地の表示ランプが、上の方の階から下がってくるわけよ。それで、自分トコの階まで来たら開くと思うじゃない?それが、なんでかそのまま通過するんだよ。ちゃんと下向き矢印のボタン押してるのに」

それが頻繁に起こったので、彼は管理人に電話したのだそうだ。故障しているのではないかと。

しかし数日後。「業者に見てもらったが正常に作動中」だとの返答。

他の住民に、「最近、エレベーターの調子悪くないですか」と聞いてもみたが、「さあ」と返されただけだった。

「箱の現在地が下の方の階にある時だって、同じことが起こるんだ。ボタン押して待ってても、開かずに通り過ぎるんだよ。それでランプ見てると、上の方の階で停止してるだろ。上の階の人が先にボタン押して箱を呼んでても、途中の階で後からボタン押したらちゃんと止まるよなあ。デパートとかだと。まあでも設定が違うのかもと思ってさあ、イライラしながら待ってたらやっとランプが降りてきて、自分トコの階で止まるわけよ。それでドアがスーッと開いたら……」

彼はそこで言葉を切って、微かに震える声で言った。

「誰もいないわけよ」

ちょっとゾクッとした。

確かになにか変だ。

自分の階をスルーして、上の階で止まったはなんなのだ。

誰かが乗ろうとして、エレベーターを呼んだのではないのか。

「そんなことが続いてさあ。もうなんか、気味悪くて」

俺の部屋、四階なんだ………

それがさも因縁めいているかのように彼は言う。

「しかも、5号室。てことは、ひぃふぅみぃよぉの、四つ目の部屋なんだ……」

最悪だよ。そう言って溜息をついた。

彼はそういう数字的なものを気にするタイプらしい。

サッカー部に属している彼に快活なイメージを持っていた俺は、そのうなだれる姿を意外に思った。

俺は腕時計を見た。見たところで、今日はもうなんの予定もないことに気づく。

「今からそこに行ってもいいか?」

友人も俺に習ってか、儀式的に腕時計を見た後、「いいよ」と言った。

俺が行ったところで問題が解決するとは思えないが、少なくともなにか怖い目には遭えるかも知れない。

友人がこの話を俺にしたのも案外解決という目的ではなく、漠然とした“共有”のためかも知れないじゃないか。

好奇心猫を殺す。

思わずそんな呟きが自嘲気味にこぼれ出た。

昨日の夜。漫画を読んでいてそんな言葉が出て来たのが、まだ頭にこびりついていたらしい。

俺にぴったりの格言だと思う。

けれどその頃の俺は、手に届く距離にあるオカルトじみた話を、無視できる心理状態になかったのは確かだ。

「克己心じゃなかったっけ」という、友人の間の抜けた声が聞こえた。

夕暮れが深まる中を自転車で駆けた。

密集した住宅街から少し離れた郊外に、友人のマンションはあった。

上空から見たとすれば、それは大きなLの字のような構造をしているようだ。

駐車場に自転車を止め、夕日に巨大な影を伸ばすその威容を見上げる。とうてい学生向けの物件には見えない。

実際、敷地内には、小さなブランコや昆虫の形をした遊具が散見できた。

ここには小さな子どものいる、多くの家族が住んでいるのだろう。

「いいとこ住んでんなあ」と漏らしながら、友人の後をついて玄関へ向かった。

一階のフロアに入ると、すぐ正面にエレベーターが現れる。L字のちょうど折れているあたりだ。

右手側と振り返る背後に、各部屋のドアが並んでいる。

「階段もあるけど、あっちの端なんだ」と、友人は背後のL字の短い方の端を指差した。

「ちょっと不便な感じ」

そう言いながら、友人は思ったよりあっさりとエレベーターの上向き矢印ボタンを押した。

現在の階数表示では五階のランプが点灯している。

あまり待つことなくすぐにランプが降りてきて、一階のそれが一瞬点灯するかしないかのうちに扉が開いた。

「なんか、前振りあった分、緊張するな」

そんなことを言って、友人は中に乗り込んだ。俺も後に続く。

『4』のボタンを押してから『閉』のボタンを押す。扉が閉まる。

閉まる瞬間、正面の灰色の壁に、顔のような模様が見えた気がしてドキッとする。

音も無くエレベーターは上昇する。息が詰まる。

「今も、目に見えない誰かが乗ってたりすんのかな」

友人は軽い口調でそう言う。かすかに語尾が震えている。

何ごとも無くエレベーターの箱は四階についた。扉が開き俺たちは外に出る。

友人は軽く肩を竦めて、両方の手の平を返した。

「昇る時は大丈夫なんだよ」

夕焼けが立ち並ぶ部屋のドアを、フロアの端まで赤く染めている。

友人はその一つを指さして、「俺んちだけど、よってくか」と言う。

微かな起動音とともに背後のエレベーターが下に呼ばれ、ランプが一つ、二つ、と降りていく。

二人とも、なんとはなしにそちらから目を逸らす。

外から子どものはしゃぐ声と走り回る足音が響いて来た。

脇の高さの塀から顔を出して下を覗いてみると、数人の小学生くらいの子どもが、おもちゃの剣らしいものを振り回しながら、敷地内の舗装レンガの道を行ったり来たりしている。

しばらくそれを眺めたあとで、「情報収集してみよう」と言って俺は視線を戻し、人差し指を下に向けた。

「オッケー。でも先に荷物置いてくる」

友人はドアの鍵を開けると、二人分のバッグを玄関先に放り込んで戻ってきた。

そして、エレベーターの前に再び立つ。箱の現在位置は八階に変わっている。

今度はなかなか矢印ボタンを押さない。少し緊張しているようだ。

横目で言う。

「その、変なことが起こる確率はどのくらい?」

「あー、ご……五回に一回くらいかな。いや、十回に一回かも。……わかんねえや」

俺は質問を変えた。

「昨日と今日は?」

「……あった。昨日の夜、酒買いに降りようとしたらよ……」

そこまで言ったところで、「ちょっとごめんなさーい」という声とともに、四十代くらいの主婦と思しき年恰好の人が、俺たちの立ち位置に割り込んできた。

まるで、エレベーターの前で立ち話をしている俺たちを邪魔だと言わんばかりに。

後ずさりして場所を空けた俺たちの目の前で、主婦は下向き矢印を素早く押し、エレベーター上部の階数表示ランプを見上げた。

7、6、5とランプが下がって来て、4の表示が光ろうかという時、俺たちは顔を見合わせて、このおばさんと一緒に降りるべきかとわずかに思案した。

が、次の瞬間、驚くことが起こった。

4の数字が光るタイミングが来てもエレベーターの扉は開く気配も見せず、表示ランプはそのまま4、3と下がっていったのだった。

あっけにとられた俺の前で、主婦は「チッ」とあまり上品でない舌打ちをしたかと思うと、 踵を返してさっさと階段の方へ去って行ってしまった。

取り残された俺たちは、再び人気のなくなった空間にたたずんで顔を見合わせた。

「これか」

俺の言葉に友人は神妙に頷く。

ぞわっと背筋が寒くなった気がした。

けれど冷静に考えると、やはりただの故障のような気がしてくる。

口を開きかけた時、友人が思惑外のことを言い始めた。

「あのおばさん、なんかニガテなんだよ。たぶん九階に住んでるんだけど、四階に友だちがいるみたいで、時々すれ違ったりすんだよ。最初に会った時、なんていうか、挨拶するタイミングみたいなのってあるじゃん。それがなんか、どっちも噛み合わなかったっていうのか、まあシカトみたいになっちゃって。それから、こないだ挨拶しなかったのに今回はするって変な感じがして、結局毎回シカトみたいになってて。いや、そういうのあるだろ。わかるよな」

確かにわかる。俺も近所づきあいとか苦手なほうだ。

「こないだなんか、一階からエレベーター乗ったらよ。先にあのおばさんが乗ってて、オレの顔見るなりチッって舌打ちしたんだぜ。こっちには聞こえてないつもりだったかも知んないけど、感じ悪いわぁ」

友人は首を捻って悪態をついた。

エレベーターの表示は一階で止まったまま動かない。

この四階を素通りしたあと、誰かが箱を降りたのだろうか。

乗るために箱を呼んでいたのなら、一階から再び上ってきているはずだから。

ということは、さっき俺たちの前を素通りしていった箱には、誰かが乗っていたことになる。いったい誰が……

今からダッシュで階段を降りても、きっと立ち去ったあとだろう。

オレは、顔の部分が黒く塗りつぶされた人物が、このマンションを徘徊しているイメージを頭に浮かべ、少し薄気味が悪くなった。

扉の透明なタイプのエレベーターなら、このもやもやも解消されたかも知れないのに。

「どうする、階段にするか」

「いや、エレベーターにしよう」

俺はもう一度下向き矢印のボタンを押そうとして、ハタと手を止めた。

矢印のボタンは、ランプがついたままだった。

「やっぱり故障じゃないか」

“この階に来て扉を開け”という命令を示すランプが点灯しているのに、箱が一階に止まったままなのだから。

俺は矢印ボタンを連打した。たぶん機械が古くなって、本体の反応が悪くなっているのだろう。

俺の連打が効いたのか、ようやく箱の現在位置は動き始め、俺たちの前で扉が開いた。

中には誰も乗っていない。

友人を促して乗り込む。

操作盤の一階のボタンを押してから『閉』のボタンを押す。すぅっと扉は閉まり、落ちていく感覚が始まる。

箱の中にわずかに残る香水のような匂いを鼻腔が感知する。不快だ。

顔が黒く塗りつぶされた人物のシルエットが、俺の中でおばさんパーマに変わる。

一階についた。

すんなり開いた扉を出て、無人のエレベーターの中を振り返る。

ほんとうにただの故障だろうか。

夕日が射す中を、扉は影を作りながら閉じていく。完全に扉は閉まり、箱の中は見えなくなった。

ふと、思う。

今この場でもう一度ボタンを押してこの扉を開いたとして、中に誰かがいたらどうしよう……

嫌な空想だ。自分で勝手に恐怖を作ろうとしている。我ながら悪癖だと思う。

けれど、以前ある人が言っていたことを思い出す。

 

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053 師匠シリーズ「エレベーター2」

「想像って、自発的なものとは限らないだろう。ババ抜きの最後の2択で、片方だけ取り易いように少し出っ張ってたら、そっちがババじゃないかって想像するよな。なにかに誘発される想像もあるってことだ。もし目に見えないジョーカーを、視覚以外のなにかで知覚したなら、それは想像の皮を被って現れるかも知れない」

もって回った表現だが、俺はそれを彼なりの警告と捉えている。

つまり、感じた恐怖を疎かにするなということなのだろう。けれど、あまり真剣には受け取っていない。

そんな想像をこそ妄想というのだろうから。

「で、どうする」

チッチッという音がして、石ころが舗装レンガの上を滑っていく。何人かの子どもがそのあとを駆け抜ける。

マンションの壁に遮られてその姿が見えなくなっても、長く伸びた影だけが、何かの戯画のように蠢いて地面をのたうっている。

俺はそちらにゆっくりと歩いていき、声をかけた。

「このマンションの子?」

ギョッとした表情で全員の動きが止まる。6,七人いただだろうか。

小学校高学年と思しき一人が、疑り深そうな目で「なんですか」と言った。

「ちょっとききたいんだけど」と間を置かずに切り出して、「このマンションのエレベーターで、何かおかしなことはないか」と訊いた。

一瞬顔を見合わせる気配があったが、おずおずと一人が代表して「知りません」と答える。

「エレベーターじゃなくてもいいけど、オバケが出るとかいう噂がないか」

重ねてきいていると、すでに後ろの方にいた何人かが、石ころを再び蹴飛ばして走り始めた。

代表の男の子もそちらに気を引かれてもじもじしている。

「何か変なものを見たとか、そういうこと聞いたことないかな」

男の子は気味の悪そうな顔をして、「ナイデス」と小さな声で何度か繰り返し、すぐ後ろにいた子に、「おい、行こうぜ」とつつかれてから、クルリと背を向けて走り去っていった。

「あ~あ」

友人がため息をついた。

「子どもはこういう話、好きそうなのに」と呟く。

「大人にも聞く?」と問う俺に、「う~ん」と気乗りしない返事をして、彼は傍らのブランコに足をかけた。

「苦手なんだよな。ここの人たち」

「どうして」

俺ももう一つのブランコに腰をかける。

キイキイと鎖を軋ませながら友人は、「オレの実家は田舎でさあ」と話し始めた。

隣近所はすべて顔見知りだったこと。

近所づきあいは得意な方ではなかったが、道で会えば挨拶はするし、食事に呼ばれることもあったし、いたずらがばれて叱られたりもした。

良くも悪くも、そこでは人間関係が濃密だった。

けれど大学に入り、ここで一人暮らしを始めてから、隣近所の人との交流がまったく無くなっていること。

「最初は挨拶してたんだけど、反応がさ、薄いんだよね。シーンとしてる狭い通路ですれ違っても、こう、会釈するだけ。立ち話なんてしないし、隣の家の子どもが、二人なのか三人なのか知らないんだぜ、オレ」

友人の言いたいことは俺にも分かった。

俺自身、今のアパートに越してから、同じアパートの住人とほとんど会話を交わしていない。

学生向きの物件ということもあったが、生活時間もみんな違うし、隣の人の顔も知らない。

知りたいとも思わない。すれ違っても妙な気まずさがあるだけだ。

「無関心なんだよな」

友人はぼそりと言った。

そうとも。そして俺たちもそれに染まりつつある。

こんな風に密集して生きていると、みんなこうなっていくのだろうか。

ふと、高校の頃に習ったバッタの群生相の話を思い出した。

「知らない住人とさ、エレベーターに乗り合わせたら凄く息が詰まるよ。

デパートのエレベーターならそれほどでもないのに」

顔を上げると、日が落ちて薄闇が降りてきたマンションの中へ、顔も見えない誰かの後ろ姿が吸い込まれていくところだった。

キイキイという音だけが響く。

匿名だ。何もかもが匿名だ。匿名のままこの巨大な構造物の中を、無数の人々が影のように蠢いている。

そうして小一時間、無為にブランコを漕いでいた俺たちだったが、あたりがすっかり暗くなり小腹も空いてきたので、もう帰ろうと腰を浮かしかけた時だった。

PHSに着信があり出てみると、俺にくだんの『目に見えないジョーカー』の忠告をした人からだった。

俺のオカルト道の師匠だ。

明後日行く予定の心霊スポットについての確認の電話だったが、俺はついでとばかり、今居る場所とそのマンションのエレベーターについての噂を知らないかと聞いてみた。

『知らない』

そんなに期待した訳ではないが、地元民でもないのにやたらとこういう話を仕入れている彼ならばひょっとして、と思ったのだ。

やっぱりね、というニュアンスの言葉で切ろうとしたのが気に障ったのか、詳しく話せという。

そこで俺は、友人の体験したいくつかの例や、今日あったことなどを手短に告げた。

師匠は少しの間押し黙ったあと、『そのエレベーターのところで待ってて』と言って、電話を一方的に切ってしまった。

何か分かったのだろうか?

電灯に照らされたマンションの入り口へ歩く。

「何?誰?」と訊く友人に、「サークルの先輩」とだけ説明してかわす。

彼が何者かなんて、俺だって知りたいのだ。

コツンと靴の音が響く。

エレベーターの前に立つと不思議な感じがした。マンションという匿名の箱の中のさらに匿名の空間。

今閉じているこの扉の向こうに誰がいるのか俺は知らない。

階数表示の光だけが流れ、人の動きを想像する。

そこには本当に人がいるのか俺には分からない。いや、分からなくなった。

顔の無い幻影が彷徨うイメージが一人歩きしはじめた。

PHSの着信音に我に返る。等間隔に伸びる天井の電灯が通路を照らしている。

『お待たせ。色々書いてある表示盤は外にある?なかったら中に入って』

言われるまま友人を促してエレベーターの中に入る。

『操作盤の中か近くに、なんか色々書いてるシールかプレートがあるだろう。メーカー名はなんて書いてある?』

閉じそうになった扉を手でガードして、『開』ボタンを友人に押していてもらう。

「えーと、外国製っぽいです。どれがメーカー名だろ……」

どうやらこれらしいという文字を見つけて読み上げる。

師匠は電話口で笑いを堪えているような音を立てた。

『OK。じゃあ、もう一人の友だちに三階に行ってもらって』

師匠はいくつか指示を飛ばしてから、電話を切った。

俺たちは何が起こるんだろうという不安な気持ちで、それでも言うとおりにする。

一階に俺。三階に友人という布陣で、それぞれエレベーターの前の立った。

そして一階からエレベーターの中に乗り込んだ俺は、指示された通り、中の操作盤で、五階と『閉』のボタンを二本の指で同時に押した。

それから、通話中にしていたPHSで、友人に「押した。そっちも押して」と言う。

打ち合わせ通り、友人も三階で下向き矢印のボタンを押したはずだ。

ほどなくして扉が閉まり始める。向こうの壁の模様が、やっぱり何かの顔に見えた。

シミュラクラ現象、シミュラクラ現象と、最近知ったばかりの心理学用語をお経のように頭の中で唱える。

ゆったりと箱が上昇する感覚があり、すぐに三階で停止するはずと身構える。

しかし、箱は三階では止まらず、五階のランプがついたところで静止し、扉が開いた。

夜風が侵入してくる。外には誰もいなかった。足を踏み出し、呆けたままの俺の残して背後で扉が閉じた。

階段を駆け上ってきた友人が、軽く息を切らせて通路の端から飛び出てくる。

「何だ今の。なんで通り過ぎるんだ」

「そっちこそ、ちゃんと三階でボタン押した?」

「押した。矢印のランプの点灯してたし」

まるきり友人が体験してきた怪現象の再現だ。

師匠から着信。

「ナンですかコレ」

声が上ずる俺に、師匠はバカバカしい、というような口調で『急行モード』と言った。

『外国製のエレベーターの中にはあるんだよ。こういう裏コマンドが』

このメーカーの物は、『閉』ボタンと目的階ボタンを同時押しすることで、その後どこの階で呼び出しボタンが押されても、すべてキャンセルされるのだそうだ。

現在の階数表示を見上げると五階のままだ。この扉の向こうにまだ箱はある。

友人が三階で押した呼び出しボタンは無視されているのだ。

「ということは……」

『そう、そのマンションの連中は、それを知ってて普段から使ってるってこと』

そう言ってから最後に、『明後日遅れんなよ』と付け加えて師匠は電話を切った。

俺は今日あったことを思い浮かべる。

荷物を友人の部屋に置いて四階から下に降りようとした時、上の方の階から箱が下りてきたのに、四階を素通りして一階まで行って止まった。

あの時、一緒にいた主婦は舌打ちをしていた。あれは急行モードを使った誰かに舌打ちをしていたのだ。

友人が先日、その主婦と乗り合わせた時、その時も彼女は舌打ちをしたという。

それは、他人が一緒に乗ったことで、急行モードが使えなかったことに対するイラ立ちだったのだろうか。

友人が体験したことを一つ一つ検証しても、すべてこの急行モードの存在で説明がつくようだ。

あっけなく解決してしまった怪現象の正体に、俺たちは拍子抜けして立ち尽くしていた。

目に見えない扉の向こうに怯えていたのが馬鹿らしくなってくる。

あの子どもたちも知っていたのだろうか。道理で話に乗ってこないはずだ。

きっと親から秘密にするように言われているに違いない。これ以上急行モードを知る人が増えないように。

そうだ。自分だけ知っていればいいんだ。他人が使う急行モードは迷惑なだけなのだから。

「オレ、やっぱり怖いよ」

友人がぽつりと言った。

他人を待たせても自分が便利ならそれでいいと思うその心理に、俺も背筋が寒くなる思いがした。

きっとそれは匿名だから。エレベーターの前で待ちぼうけを食わされる人が匿名だからだ。

誰だか知らない人を待たせる悪意。誰だが知らない人に苛立つ悪意。

そんなささやかな悪意がこのマンションに充満して、それが俺たちの心をどうしようもなく暗く沈ませるのだった。

友人は二回生にあがる時、そのマンションから二階建てのアパートに引っ越した。

それまでの間、彼は階段しか使わなかったそうだ。

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