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長編 r+ 都市伝説

回廊の底 rw+29,532-0104

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第一章:回廊に澱む熱と影

去年の四月に大学を卒業し、就職を機に東京都内でも少し外れた場所にあるマンションへ居を移した。

その建物は、上空から見下ろせば「回」の字を三つ並べたような奇妙な連結構造をしていた。
中央には厚いコンクリートの壁に囲まれた中庭が存在するのだが、そこには草木の一本もなく、ただ灰色の沈黙が溜まっているだけだった。
私の部屋はその左端の棟にあり、唯一、その中庭へと直接出入りできる重い鉄の扉が備わっていた。

六階建ての重厚な外観とは裏腹に、建物の内側は風の通りが悪く、常に湿った埃の匂いが鼻腔の奥にへばりついて離れない。
特に五月を過ぎ、日差しが強くなり始めると、中庭のコンクリートは熱を蓄え、陽炎のように空気が揺らぎ始める。
その場所には、出口がなかった。
マンション全体の玄関は右側の棟に集約されており、中庭から外の世界へ直接抜ける道は存在しない。
ただの四角い空を見上げるための、巨大な空洞。
そんな無意味な空間が、私の部屋のすぐ隣に口を開けていたのである。

初めてその「違和感」に触れたのは、初夏の湿り気が増したある日の午後だった。
部屋の隅に小さな羽虫が湧いているのを見つけ、殺虫剤を手に取って中庭へと足を踏み出したのだ。
扉を開けた瞬間、それまで室内に満ちていた冷蔵庫の微かな唸り声が消え、完全な無音が鼓膜を圧迫した。
足元から這い上がってくるのは、焼けた石の乾いた臭い。
そして、光の配置がどこか歪んでいるように感じられた。
直射日光が当たっているはずの壁が、妙に暗く沈んで見えたのである。

殺虫剤の霧を撒き散らしながら中庭の中央へと歩みを進めると、突如として三半規管が激しく揺さぶられた。
地面が波打ち、自分の身体の重心がどこにあるのかが分からなくなる。
それは立ちくらみというよりも、世界そのものが軸を失って回転し始めたかのような感覚だった。
慌てて壁に手を突こうとしたが、コンクリートの表面は想像以上に熱く、手のひらがじりじりと焼ける。
私は命からがら部屋へと転がり込み、背後で扉を強く閉めた。

扉一枚を隔てただけで、あの不快な回転は嘘のように収まった。
心臓の鼓動が耳元でうるさく鳴り響き、冷や汗が背筋を伝って落ちていく。
やはり殺虫剤の成分を吸い込み過ぎたのだろうか、あるいは熱中症の初期症状か。
そう自分に言い聞かせ、その日は深入りするのをやめた。
しかし、あの時感じた「世界が自分を拒絶している」ような冷ややかな感覚だけは、意識の片隅に棘のように刺さったままだった。

六月になり、梅雨の晴れ間に溜まった埃を掃除しようと、私は再び中庭へ出た。
ほうきとちり取りを握る手は、無意識のうちに汗で湿っていた。
一歩、コンクリートの平原に足を踏み出す。
途端、あの不気味な平衡感覚の喪失が私を襲った。
今度は先月よりも鮮明で、激しい。
視界の端がぐにゃりと歪み、直線の四角い空が楕円形に変形していく。

休み休み掃除を進めるが、一分と持たない。
中庭の中心に近づくほど、頭痛に似た圧迫感が強まり、吐き気が込み上げてくる。
不思議なのは、部屋に戻れば瞬時に回復することだった。
「この場所には、何らかの有害なガスでも溜まっているのではないか」
そう考えた私は、意を決して管理会社へ連絡を入れた。
しかし、やってきた担当者の態度は極めて事務的で、私の訴えをどこか他人事のように受け流していた。

「以前の入居者様からは、そのようなお話は一切伺っておりませんが……」
そう言いながら、彼は私と共に中庭の排水溝や壁面を調査した。
だが、彼は全く気分が悪くなる様子もなく、平然とコンクリートの上を歩き回っている。
私だけが、壁に寄りかかりながら激しい眩暈と戦っていた。
「異常なしですね」
彼は首を傾げながら帰っていった。
一人残された私は、自分の感覚が狂ってしまったのか、あるいはこの空間自体が「私だけ」を標的にしているのかという、底冷えのする恐怖に囚われた。

第二章:反転する青と理解不能の断片

十月のある日、私は意を決して再び中庭の清掃に臨んだ。
気温は穏やかで、体調も万全だったはずだ。
しかし、中庭への扉を閉めた瞬間、それまでとは比較にならないほどの激動が全身を貫いた。
上下の概念が消失し、私はコンクリートの床に叩きつけられた。
視界が赤黒い粘液のような色に染まり、肺から空気がすべて押し出される。
地面をのたうち回りながら、必死に酸素を求めて喘ぐ。

その時、一瞬だけ意識が断絶した。
瞬きをした刹那、それまで視界を覆っていた赤黒い霧が、寒々しいほどの明瞭さを持って晴れた。
吐き気も、眩暈も、跡形もなく消え去っている。
私は不思議な充足感に包まれながら、予定していた掃除を呆気なく終わらせた。
部屋に戻り、酷く喉が渇いていることに気づいてキッチンへ向かう。
ふと窓の外に目を向けると、そこには見たこともないほど「濃い」青空が広がっていた。

その青は、まるでインクを煮詰めたかのように重厚で、どこまでも高い。
水を一杯飲み干し、気分転換にコンビニへ行こうと部屋を出た。
廊下を歩く足取りは軽かったが、空気の匂いが明らかに変わっていることに気づいた。
それは嫌な臭いではない。だが、これまでの人生で一度も嗅いだことのない、植物と金属が混ざり合ったような奇妙な芳香だった。
共用部の掲示板の前で、私は足を止めた。
そこに貼られた町内会の知らせは、一見すると日本語の体裁を保っている。

しかし、一文字たりとも意味が読み取れない。
「ア活めるゆフィ柿のさと」
「へつ下のイ目はタイ燻ら當兎」
文字の形状は知っているはずなのに、それらが結びついて成す意味が、私の脳を素通りしていく。
政治家のポスターに躍るスローガンも、支離滅裂な記号の羅列にしか見えなかった。
冷たい汗が脇の下を伝う。
私は混乱を抑え込み、とにかく外の空気を吸おうとマンションの玄関を飛び出した。

外の世界は、更なる違和感で満ちていた。
花屋の看板には「ヤ母イ」とあり、コンビニの看板は「イイ目だ」と不可解な文字を掲げている。
行き交う人々や車に外見上の変化はない。
だが、彼らが口にする言葉が耳に届いた瞬間、私は自分の正気を疑った。
それは旋律のない歌のようで、音節がデタラメに連結された、理解不能のノイズだった。
コンビニの店員が私に向けて「アヨダナマーリッサー」と声をかける。

私は逃げるように雑誌コーナーへ向かったが、並んでいる本の表紙はすべて、呪詛のような文字の羅列だった。
震える手で携帯電話を取り出すと、画面には「圏外」の文字が冷酷に浮かんでいる。
保存されていた過去のメールは正常な日本語なのに、今、目の前にある世界だけが、翻訳不能の言語に塗り潰されている。
私は恐怖のあまりコンビニを飛び出し、テレビをつければ何か分かるかもしれないと、自室へ引き返した。
しかし、画面の中で微笑む見知らぬタレントたちは、やはり異質の言語で語り合い、その瞳にはどす黒い虚無が宿っているように見えた。

水をもう一杯飲み、自分を落ち着かせようと努める。
「頭を強く打って、失語症か何かになったのではないか」
そう自分に言い聞かせ、近所の掛かり付けの病院へ行くことにした。
道路を埋め尽くす看板は、依然として狂った意味を垂れ流し続けている。
病院の受付にたどり着いた私は、必死に声を振り絞った。
「頭を打って、具合が悪いんです」
しかし、受付の女性は怪訝そうな顔をし、私の言葉に一切反応を示さない。

彼女が口にするのは、やはり「うにゃうにゃ」とした意味不明な音だった。
保険証を差し出したが、彼女はそれを何度も裏返し、首を傾げるばかり。
私の言葉が通じない。私の存在が、この世界のルールから剥離している。
絶望が全身を浸食していく中、奥から白衣を着た男が現れた。
彼は私の肩を優しく叩き、身振り手振りでソファへと誘導した。
言葉は通じなくとも、その眼差しには観察者特有の冷徹な知性が宿っていた。
それが、私の「実験材料」としての生活の始まりだったとは、その時の私はまだ知る由もなかった。

第三章:沈黙の診察と耳底の侵入

病院の待合室で震えていると、三人ほどの警察官らしき人物がやってきた。
彼らは私の免許証や保険証を凝視し、何やら深刻そうに話し合っている。
私はパトカーのような車両に乗せられ、重厚な石造りの建物へと連行された。
そこでの扱いは、犯罪者に対するものというよりは、絶滅危惧種の生物に対するそれであった。
応接室のような場所に通され、出された緑色の液体とお菓子は、驚くほど美味だった。
甘みと塩気が絶妙に混ざり合い、空腹だった私の胃袋に染み渡っていく。

しばらくすると、スーツを着た二人の男が入ってきた。
彼らは私の瞳孔をペンライトで執拗に覗き込み、鼻や耳の中までも細かく観察した。
私は藁にもすがる思いで、携帯電話のメール作成画面に「言葉がわかりません」と打ち込み、彼らに見せた。
男たちは目を見開いて驚き、その画面を何度も交互に見つめた。
やがて一人が、紙に「言葉がわかりません」と、私の書いた通りの文字を模倣して書いた。
そして、その文字を一音ずつ指差しながら、「ウヨメ、が、わかりません」と、歪な発音で呟いたのである。

彼らは私の言語を「音」として学習しようとしていた。
私は必死に漢字やひらがなを書き、それを発音して見せた。
だが、彼らが興味を示したのは文字の「意味」ではなく、それが私の脳とどう連動しているかという、工学的な側面のようだった。
その後、何度も写真を見せられるテストが繰り返された。
寿司やうどんの写真に混じって、植物の根に肉を縫い付けたような、異世界の料理が紛れ込んでいる。
私は自分の知っているものを選び、食事のジェスチャーを繰り返した。

やがて私は、窓のない真っ白な部屋に隔離された。
天井の四隅には監視カメラが設置され、私の挙動を一秒たりとも逃さず記録している。
頭痛が再発し、意識が朦朧とする中で、定期的にMRIのような装置に入れられた。
低く響く「ブウーン」という音が頭蓋骨を揺さぶり、脳の深部を直接弄られるような激痛が走る。
痛みはやがて快感へ、そして極寒や灼熱の感覚へと転じていき、私は自分の感情が自分のものでなくなっていく恐怖に発狂しそうになった。

ある日、部屋に老夫婦が入ってきた。
彼らは私の前に跪き、涙を流しながら土下座を繰り返した。
言葉は分からないが、その悲痛な表情からは、私に対して取り返しのつかない罪を犯したことへの謝罪が読み取れた。
彼らがこのマンションのオーナーだったのか、あるいは私をこの世界へ引き摺り込んだ儀式の当事者だったのか。
私が老婆の手を握ると、彼女は子供のように声を上げて泣いた。
しかし、その直後に現れた警備員によって、彼らは乱暴に連れ出されていった。

次に現れたのは、襟巻きトカゲのような金属の襟を纏った、白人の少年だった。
彼は無表情に私に近づき、その小さな手を私の左耳に当てた。
「キーイーハーキー」
機械的な音声が少年の口から発せられた瞬間、耳の奥にモゾモゾとした「這い回る音」が響いた。
鼓膜を突き破り、何かが脳の奥へと侵入してくる。
私は悲鳴を上げたが、警備員たちに組み伏せられ、抵抗を許されなかった。
頭の中に指を突っ込まれ、中身をかき回されるような不快感と激痛。

意識が遠のく中、頭の中で「キキキキカカカカ」という高周波の音が鳴り響いた。
それは私の思考を、彼らの言語体系へと強制的に書き換えるためのプロセスだったのかもしれない。
少年が手を離したとき、彼の指先には私のものと思われる鮮血が付着していた。
その後、何人もの医師が代わる代わるやってきて、私に画像を見せ続けた。
その中に、私が住んでいたマンションの中庭の写真があった。
それを見た瞬間、私は懐かしさのあまり激しく反応してしまった。

一人の医師が、他の者たちの制止を振り切り、ニヤニヤしながら私にアイパッドを突き出した。
そこには「イ 画」「ら 桜」といった、崩れた日本語が並んでいた。
彼は私が困惑する様子を見て、こらえきれないといった風にゲラゲラと笑い出した。
その笑い声は、この狂った世界で唯一、私に向けられた「人間らしい」悪意だった。
彼は警備員に取り押さえられながらも、最後まで私に向けて嘲笑を浴びせ続けた。
その医師の歪んだ笑顔が、後の私の運命を大きく変えることになるとは思いもよらずに。

 

第四章:笑う男と、閉じない扉

独房のような白い部屋で、時間の感覚を失いながら眠っていたある夜、ベッドの脚に指が触れた。冷たい金属ではない。紙だと気づき、身を起こして覗き込む。薄く折り畳まれた紙片が、埃に紛れるように挟まっていた。

広げると、乱暴な筆跡で一行だけ書かれている。

「ずっとそこに」

意味が、通じた。

胸の奥が強く締め付けられ、反射的にそれを握り潰した瞬間、天井の隅で赤いランプが点灯した。警告音は鳴らない。ただ、次の瞬間には扉が開き、無言の警備員が二人入ってきた。紙片は奪われ、私の両手は拘束された。誰が置いたのか。いつから見られていたのか。問いを投げる余地すら与えられないまま、私は再び部屋に戻された。

その数日後、建物全体を震わせる衝撃音で目が覚めた。低く鈍い爆鳴が何度も続き、床が不規則に揺れる。照明が落ち、非常灯の白い光だけが壁を照らした。遠くで警報のような音が鳴っているが、どこか歪んで聞こえ、意味として認識できない。

誰も来ない。

煙の匂いが徐々に濃くなり、喉が焼ける。私はベッドの上で丸まり、ここで終わるのだと理解した。だが、金属が引き裂かれるような轟音と共に、壁の一部が崩れ、見知らぬ男たちがなだれ込んできた。彼らは何も説明せず、私を担ぎ上げ、暗い廊下を走った。

外に出た瞬間、冷たい夜気が肺に突き刺さった。黒塗りの大型車両が待機している。助手席から顔を出した男を見て、私は息を呑んだ。

あの、笑っていた医師だった。

彼は私を見ると、口元だけで笑い、今度ははっきりとした日本語で言った。

「大丈夫。今は、考えなくていい」

それだけだった。

車は猛スピードで走り出す。窓の外の街並みは、どこか歪んで見えたが、説明できる違和感ではない。信号の色、標識の配置、建物の高さ。そのどれもが、微妙に記憶とずれている。

「どうして……」

声を出したつもりだったが、音になっていなかったのかもしれない。医師は答えない。ただ、時折こちらを見て、何かを確かめるような視線を向けてくる。

やがて車は、見覚えのある場所で停まった。

あのマンションだった。

夜にもかかわらず、中庭の上だけが不自然に明るい。医師は私の肩に手を置き、低い声で言った。

「中には、もう入らないほうがいい。でも、今日は例外だ」

それが忠告なのか、命令なのかは分からない。私は促されるまま建物に入った。自分の部屋の前まで来たとき、扉の向こうから微かな機械音が聞こえた。

扉が開く。

中には、私がいた。

いや、私と同じ顔をした男が立っていた。彼は私を見ることなく、複雑な装置に向かって操作を続けている。視線も、呼吸のリズムも、鏡写しのように同じだった。

背後で誰かが叫び、次の瞬間、医師たちがその男に飛びかかった。抵抗する声。引きずられる足音。その隙に、医師は私の背中を強く押した。

「行け」

中庭へと飛び出す。コンクリートの冷たさが足裏に伝わる。背後で鉄の扉が閉まる音がした。

世界が、反転した。

視界が赤黒く染まり、上下の感覚が消える。内臓が裏返るような激痛。音が遠ざかり、代わりに、あの「キキキキ」という高い音が頭の奥で鳴り始める。

気がつくと、私は同じ場所に倒れていた。

見上げた空は、薄く濁った冬の青だった。寒さが、現実として身体に刺さる。立ち上がろうとして、足が震えた。

扉を開けようとするが、鍵がかかっている。何度叩いても、反応はない。私は声が枯れるまで叫び続け、ようやく別の住人に見つけられた。

その後のことは、曖昧だ。

警察。事情聴取。失踪期間。私は「よく覚えていない」と繰り返した。それ以上、誰も深く追及しなかった。

だが、夜になると、左耳の奥が疼く。微かな振動と共に、意味を持たない音が響く。

鏡を見ると、ごく一瞬だけ、瞳の奥に文字のようなものが浮かぶ気がする。読めるはずなのに、読もうとした瞬間に消える。

玄関の掲示板には、いつも通りの生活の注意書きが貼られている。その下、誰も気づかない位置に、爪で引っ掻いたような細い傷があった。

「イ 画 ―― ずっとそこに」

なぞると、コンクリートの粉が指に付着した。

私は理解した。

あの中庭に近づいてはいけないのではない。
すでに、近づかれている。

扉は、閉じたままだ。
だが、こちら側にいるのが、本当に「私」なのかだけは、確かめようがない。

(了)

[出典:俺が異世界に行った話をする~ゲラゲラ医者との対話]
小説風リライトVersion.2026年01月04日(日)]

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