その日本人形が我が家に持ち込まれたのは、湿度計の針が九十パーセントから動こうとしない、梅雨の最中だった。
本家から譲り受けたというその代物は、長年の湿気と線香の煙を吸い込んだような、独特の酸っぱい臭気を纏っていた。縮緬(ちりめん)の着物は赤とも茶ともつかぬ色に褪せ、ところどころに蛾が喰らったような小さな穴が空いている。
何より異様だったのは、その顔だ。かつては胡粉(ごふん)の白さが際立っていたであろう肌は、脂枯れた老人の皮膚のように黒ずみ、細かなひび割れが網の目のように走っていた。
「気味が悪い」
私が最初に抱いた感想は、極めて生理的な拒絶だった。視界の隅に入れただけで、喉の奥に冷たい石が詰まったような不快感が込み上げる。
だが、家族の反応は私のそれとは真逆だった。父は恭しく人形を床の間に飾り、母は毎日埃を払っては、まるで生きている孫に接するように話しかけている。姉に至っては、その黒ずんだ顔を眺めて「品がある」とさえ言った。
家の中の空気が、その人形を中心にゆっくりと澱んでいく。そんな感覚に囚われていたのは、私一人だけだったのかもしれない。
数日が過ぎた、蒸し暑い夜のことだ。
寝苦しさに目が覚めた私は、喉の渇きを潤そうと布団を抜け出した。二階の自室から廊下に出ると、熱気がこもった空気が肌にまとわりつく。階段を降りる足音が、深夜の静寂の中でやけに大きく響いた。
一階の廊下は常夜灯の橙色に染まり、影が長く伸びている。台所へ向かうには、人形が飾られている座敷の前を通らなければならない。私は無意識に息を詰め、視線を床に落としたままその前を通り過ぎようとした。
ふと、視界の端が何かを捉えた。
開け放たれた座敷の闇の中、床の間だけが妙に浮き上がって見える。
通り過ぎざま、私は見てしまった。
あの黒ずんだ顔の人形を。
昼間見たときには乾いた泥のように見えた髪が、今は窓から差し込む僅かな月光を吸い込み、濡れたカラスの羽のように艶やかに光っている。一本一本が独立して呼吸をしているかのような、生々しい質感。
(手入れをしたからだろうか)
私はそう自分に言い聞かせ、逃げるようにトイレへと駆け込んだ。
家族があれほど大切にしているのだ。きっと髪に椿油でも塗り込んだに違いない。そう納得しようと努めたが、背中に張り付いた汗が急速に冷えていくのを感じていた。
用を足し、再び廊下に出る。
水は飲まなかった。一刻も早く二階の布団に潜り込みたかったからだ。
階段の一段目に足をかけた、その時である。
背後の空気が、ふわりと動いた。
物理的な風ではない。誰かの視線が、私のうなじを撫でたような感触。
心臓が肋骨を内側から叩く音が、耳の奥で鳴り響く。
振り返ってはいけない。本能がそう警告していた。だが、私の身体はその警告を無視するかのように、強張った首をゆっくりと後ろへ回した。
そこには、静まり返った廊下と、暗い座敷があるだけだった。
誰もいない。
安堵の息を漏らしそうになった瞬間、私の目は再び床の間へと吸い寄せられた。
人形がいる。
先ほどと同じ姿勢で、少しうつむき加減に座っている。
気のせいだ。疲れているのだ。
そう思い直し、再び階段へ向き直ろうとした刹那、微かな音が鼓膜を震わせた。
——ギ、リ……。
乾燥した木材同士が擦れ合うような、あるいは硬い殻が軋むような音。
私は動きを止めた。
視線は人形に釘付けになったままだ。
音は止まない。
——ギ、ギ……リ……。
人形の頭部が、動いていた。
ミリ単位の、極めて緩慢な動作。だが確実に、その顔の向きが変わっている。
正面を向いていたはずの黒い顔が、まるで錆びついた蝶番を無理やり回すように、じりじりと私のほうへ回転していく。
月光が、ひび割れた頬の凹凸を不気味に照らし出した。
(まさか)
思考が凍りつく。
瞬きすら許されない緊張の中で、人形の顔は長い時間をかけて真横を向き——そして完全に、階段にいる私と正対した。
ガラス玉のはずの瞳が、暗闇の中でぬらりと光を宿して私を見据えている。
目が合った。
その瞬間、背筋に冷たい電流が走り抜け、全身の毛穴という毛穴が収縮した。
「う、あああッ!」
悲鳴とも呼べない絶叫が喉から迸る。
私は転がるように階段を駆け上がった。膝を強打した痛みなど感じる暇もない。
両親の寝室へ雪崩れ込み、叩き起こされた父と母に向かって、私は裏返った声で喚き散らした。
「人形が! 首がこっちを向いた!」
私の剣幕に気圧されたのか、あるいは私の顔色があまりに常軌を逸していたのか、家族全員が起きてきた。
父が先頭に立ち、懐中電灯を手に一階へと降りていく。母と姉、そして私がその後ろに続いた。
階段を降り、座敷が見える位置まで来たとき、家族の誰かが息を呑んだ。
「うわ……」
父が照らす懐中電灯の光の先。
人形は、ケースなどない剥き出しの状態で、ありえない角度に首をねじり、階段の方角を凝視していた。
その表情は、昼間見た無機質なものとは異なり、口角がわずかに吊り上がり、何かを嘲笑っているかのように見えた。
「……悪戯ではないな」
沈黙を破ったのは父だった。その声は微かに震えていたが、私の正気を疑う響きはなかった。
誰かが手で動かしたのなら、もっと自然な角度になるはずだ。あれは、首のジョイント部分が限界まで捻じ切れる寸前で止まっている。物理的に、人の手でやろうとすれば首が折れる角度だった。
家族はその夜、誰一人として人形に触れることができなかった。
私たちは二階の居間に集まり、互いの顔色を伺いながら朝を待った。
母が震える手で淹れたお茶は、誰も口をつけぬまま冷めきっていた。
「本家に返そう」
私が提案すると、今まで人形を溺愛していた母や姉も、青ざめた顔で無言のまま頷いた。あの黒ずんだ顔が自分たちに向けられた瞬間の生理的な嫌悪感は、それまでの愛着を容易に凌駕していたのだ。
翌朝、父が本家に連絡を入れた。
受話器の向こうの伯父は、こちらの切羽詰まった様子を聞いても驚く風でもなく、「ああ、そうか」と短く答えたという。
人形は、厚手の風呂敷に包まれ、本家へと送り返された。
私がその包みを運送業者に手渡したとき、指先に伝わってきた重みは、木屑と布のそれとは思えないほど生々しく、ずっしりと湿り気を帯びていた。
それから数週間、我が家には平穏が戻ったはずだった。
しかし、本家からは不穏な報告が届き始めた。
最初は電話での世間話のついでだった。
「夜中になると、一階から二階へ階段を登る足音がするんだよ」
伯父は苦笑いしながらそう言った。古い家だから木鳴りだろう、と自分を納得させているようだったが、その声には疲労が滲んでいた。
次は、親戚の集まりでの噂話だった。
「あに人形、顔が剥がれてきてるらしいぞ」
従兄弟の一人が声を潜めて教えてくれた。
黒ずんでいた塗装が、日を追うごとにぽろぽろと剥落しているというのだ。そして、剥がれた下から覗くのは、木地ではなく、妙に赤みを帯びた湿った何かだという。
極めつけは、本家の家政婦が辞めた一件だった。
夜中に廊下を走り回る子供の影を見た、というのだ。
その子供は、あの人形と同じ着物を着て、顔のない頭を振り乱しながら笑い声を上げていたらしい。
「人間に危害は?」
ある日、用事で本家を訪れた私は、意を決して伯父に尋ねた。
伯父は縁側で煙草をふかしながら、遠い山並みを見つめていた。
「今のところ、怪我人は出とらんよ。ただ……」
伯父は言葉を濁し、煙を吐き出した。
「多分、小さい子供がおるんじゃろう。寂しがり屋の、な」
その口調は、怪異を認めるというよりは、厄介な親戚の子供を預かっているような、奇妙な諦念に満ちていた。
「昔から、あの蔵には『入っちゃいけんもん』が紛れ込むことがあった。今回もそれじゃろう」
伯父の横顔に、私は得体の知れない寒気を覚えた。この人は、もっと恐ろしい何かを知っていて、それを「子供」という言葉で蓋をしているのではないか。
季節は秋へと移ろい、風に冷たさが混じり始めた頃。
突然、人形の活動が止んだという連絡が入った。
足音も、走り回る影も、ピタリと消えた。
まるで嵐が過ぎ去った後のように、本家は静まり返ったという。
私は再び本家を訪れた。
「その人形、どうするんですか?」
私の問いに、伯父は以前よりも痩せこけた顔で、しかしはっきりと言った。
「山の川に流す。昔からの習わしじゃ」
人形供養という生易しいものではない。もっと原始的な、厄介払いの儀式のような響きがあった。
「お前も手伝え。一度関わったもんじゃ、最後まで見届けた方がいい」
断る理由はなかった。むしろ、あの人形の最後を見届けなければ、私の中の恐怖も終わらない気がしていた。
「こういう物が、他にも本家にあるんですか?」
準備をしながら尋ねると、伯父は首を横に振った。
「昔はあった。だが、今はもうない」
「捨てたんですか?」
「いや」
伯父は手を止めた。その手には、人形を包むための真っ白な晒(さらし)が握られている。
「いつの間にか、消えるんじゃ。……家の中から、な」
その言葉の意味を深く考える余裕はなかった。
私たちは人形を持って、裏山へと続く細い獣道に入っていった。
山道は湿った落ち葉に覆われ、歩くたびに腐葉土の匂いが立ち昇る。
私の腕の中には、何重にも晒で巻かれた人形があった。
活動を停止したというその人形は、以前持った時よりも遥かに軽く感じられた。まるで中身が空洞になったかのような、頼りない軽さ。
「顔の塗装、全部剥げ落ちたんですよ」
前を歩く伯父が、背中越しに言った。
「下の顔を見る勇気はなかったから、そのまま布を巻いたがね」
木々の隙間から、川の流れる音が聞こえてくる。
水音は冷たく、澄んでいた。
川岸に到着したとき、日は既に傾きかけ、谷底は薄暗い影に沈んでいた。
伯父は川辺の平らな岩の上に人形を置くと、線香も手向けず、ただ黙って手を合わせた。
「流すぞ」
短い合図と共に、伯父は人形を抱え上げ、流れの緩やかな場所へと踏み入った。
水が冷たいのか、伯父の足取りがわずかにふらつく。
人形の頭を下流へ向け、赤子を揺らすようにそっと水面へ置く。
白い布の塊は、水を含むこともなく、不自然なほど滑らかに水面を滑り出した。
くるりと一度回転し、流れに乗って遠ざかっていく。
私たちは無言でそれを見送った。
白い塊が岩陰に隠れ、見えなくなるまで。
「じゃあ、帰るか」
伯父の声は、憑き物が落ちたように明るかった。
「これで終わった。もう心配いらん」
私たちは元来た道を戻り始めた。
背後の川音だけが、ザアザアと単調なリズムを刻んでいる。
数メートルほど歩いたところで、伯父が立ち止まった。
「……おい」
「はい?」
「一度だけ、後ろを振り返ってみ」
奇妙な指示だった。
普通、こういう場面では「振り返ってはいけない」と言われるものではないか。
だが、伯父の声には確信めいた響きがあった。
私は恐る恐る、首を巡らせた。
薄暮の川。
先ほど人形が見えなくなったあたり。
そこに、何かがいた。
川の中から突き出した岩の上に、小さな影が立っている。
人形ではない。
晒は解け、流れ去っていた。
そこに立っていたのは、肌色の、小さな子供の姿だった。
距離があり、顔までは判別できない。
だが、その輪郭、その立ち姿は、紛れもなく人間のものであり——そして、どこか懐かしい既視感を覚えさせた。
その影が、ゆっくりと片手を上げた。
バイバイ、と手を振るように。
「……見えたか?」
伯父が低く問うた。
「は、はい。あれは……子供、ですか?」
「そうじゃ。子供じゃ」
伯父は納得したように頷き、再び歩き出した。
私はもう一度だけ振り返った。
影はまだ手を振っている。
その動作のぎこちなさ。関節がカクカクと動くような不自然さ。
私の心臓が早鐘を打つ。
あれは人形が人になったのか。それとも、子供の霊が人形から抜け出したのか。
混乱する頭の中で、一つの疑念が鎌首をもたげた。
あの子は、誰だ?
不意に、右手が酷く強張るのを感じた。
自分の右手を視界に入れる。
振られた手に答えようと、無意識に上げようとした私の手。
その指先が、夕闇の中で黒ずんで見えた。
皮膚の感覚がない。
触れてみると、硬く、冷たい。
まるで、古びた漆塗りの木のような感触。
「……いつの間にか、消えるんじゃ」
先ほどの伯父の言葉が、脳内でリフレインする。
——家の中から、な。
川の方を見る。
あそこで手を振っている子供。
よく見えなかった顔が、脳裏で鮮明に結像する。
それは、幼い頃の私自身の顔だった。
あちらが「私」になったのだ。
では、ここにいる私は?
「早く来い。日が暮れるぞ」
伯父が呼んでいる。
私は「はい」と答えようとしたが、喉からは木と木が擦れ合うような、乾いた音しか出なかった。
——ギ、ギ……リ。
私は強張った足を引きずり、伯父の背中を追った。
山を降りる頃には、私の意識は漆黒の闇に塗り潰されているだろう。
そう理解しても、恐怖はなかった。ただ、懐かしい本家の蔵の匂いが、自分の内側から漂ってくるのを感じていた。
——ギ、リ……。
私はゆっくりと、家へ帰る。
(了)
[出典:107 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/07/02(月) 18:44:45.34 ID:GPxIjTKM0]