新世紀を迎えて、空がまだどこか無表情だった頃。
俺は神戸の大倉山にある築年数の古いワンルームマンションに住んでいた。
不動産屋の説明は妙にあっさりしていたけど、「前の住人、ちょっと……夜逃げしましてね」なんて、茶を濁すようなことは一応言われた。
だが俺には選択肢がなかった。
相場よりも一万円以上安い物件なんて他にはない。駅も近いし、周辺にラーメン屋やコンビニもある。
それだけで充分だった。最初は、な。
入居してすぐ、最初に悩まされたのは「人」だった。
知らぬ番号からの着信が一日十件以上。無視していると今度は玄関のチャイムが鳴る。
ピーンポーン。ピーンポーン。……止まない。
覗き穴から見ると、スーツにサングラスの男が無言で立っている。
目が合うと口元だけが笑った。意味もなく、張り付いたように。
ポストは借金の督促状で埋まり、封筒の端に染み込んだ雨の跡が、内臓の腐ったような臭いを放った。
三ヶ月ほどでそれは収まった。代わりに、静かな時間が訪れた。
それが次の段階だった。
ある晩、揉めていた彼女が俺の部屋に来た。
別れるかどうかという話が出た矢先だったので、彼女の顔色は悪かったが、それでも一緒にいることに決めて、そのまま寝た。
夜中、息苦しくて目が覚めた。
暑さのせいだろうと思って最初はぼんやりしていた。だが隣を見ると、彼女がいない。
起き上がってあたりを見渡すと、台所のほうから薄く光が差していた。
蛍光灯は点いていないのに、不自然な明るさがあった。
キッチンの入り口に立つと、包丁を手首に当てたままの彼女が、ほとんど無表情でそこにいた。
無言。
汗が背中を伝った。
俺は咄嗟に「おい、なにしてんねん!」と怒鳴った。
すると彼女は、何かを見つめたまま言った。
「そこにいる女が……早く死ねって言ってる」
その視線の先には、何もいなかった。
けれど「空白」ではなかった。ただの「無」ではなかった。
なにか、そこに〈いた〉感じがあった。
ゾッとした。
俺は無意識に彼女の腕をつかみ、包丁を奪っていた。
殴った。女を殴ったのは生まれて初めてだった。
何もかもが変だった。
空気が濁っていた。埃じゃない、目に見えない薄皮みたいな膜が部屋全体を覆っている感じ。
彼女には始発で帰ってもらった。
帰る前、駅までの道すがら、彼女に言った。
「死にたいなら勝手に死ね。でも俺は、もうやり直す気ないから」
それで俺たちは終わった。
……なのに。
その夜から、何かがおかしくなった。
*
最初は金縛り。
疲れだと思った。職場は労基なんて関係ないブラックな環境で、毎日終電。
ベッドに倒れ込むように寝ては、体が動かなくなった。
でも、だんだんと奇妙になっていった。
いつも金縛りになる時間が、決まって午前二時。
その時間になると目が覚める。身体が重い。部屋が寒い。
真夏なのに、シャツが冷たい水に浸されたみたいに湿る。
そしてラップ音。
壁が、床が、天井が、時折「パチン」と鳴る。
誰かが爪で叩いているような、そんな音だった。
最初は湿気のせいだと思った。
でも、音の位置が移動する。ある時は玄関のドア、ある時は風呂場。
一度だけ、耳元で鳴ったことがある。
俺は眠れず、ベッドの中で目を開けたまま、天井を見ていた。
その時だった。……指が、俺の額に触れた。冷たく、細く、女の指だった。
俺は飛び起きた。
……でも、部屋には誰もいなかった。
*
それでも住み続けたのは、金がなかったからだ。
家賃が払える場所なんて、ここ以外に考えられなかった。
ある日、友達と近所の商店街で飯を食っていた。
「駅も近いし、あのラーメン屋もすぐやし、立地はいいんやけどなぁ」なんて話していたら、店の奥からおばちゃんが出てきた。
「あんた、あのマンションに住んでるんかいな?」
口調が妙だった。
「やっぱり、家賃安いんやな」
……何か知ってるな、と思った。俺は聞いてしまった。
「あの部屋で、なにかあったんですか?」
おばちゃんは最初は渋っていたが、やがてぽつぽつと語った。
数年前、若い女性が一人でそのマンションに住んでいて、自殺したらしい。
浴槽の中で。
誰にも見つからず、二週間後に発見されたという。
室内の温度が高くて、状態がかなり悪かった。
しばらくは警察やら業者やらが出入りしていたが、次第に人々は忘れたらしい。
「あんたの部屋がその部屋かどうかは知らんけど……その階やったとは聞いとる」
そう言われて、背筋が凍った。
なぜならそのマンションはペンシル型で、各階に部屋はふたつしかない。
俺の部屋と、もうひとつは企業が応接室にしてる。
つまり……俺の部屋で、その女は死んだのだろう。
浴槽で。
そして、誰にも見つけられず、ゆっくりと溶けたのだ。
*
不思議なことに、それを知ってからの方が、少し気が楽になった。
理由がわかったからかもしれない。
冷気も、ラップ音も、指の感触も……「あの女」が残していったものだと思えば、腹も立たなかった。
そして慣れた。
夏場は冷房がいらないし、金縛りも無視すればどうってことはない。
そうやって暮らしていた。もう感覚がマヒしていたのだろう。
ただ、出る直前の夜――最後にひとつだけ、変なことがあった。
久々に夢を見た。
浴槽の中で、女が笑っていた。
口元だけが裂けて、歯茎がずるりと見えていた。
その顔が、どこか……彼女に似ていた。
元カノの。
あの夜、「そこにいる女」と言っていた、その顔だった。
目が覚めた時、浴室のドアが開いていた。
閉めたはずなのに。
……それがこの部屋での最後の夜だった。
今は別の街に住んでる。
何も起きていない。
だからこうして思い出せるのかもしれない。
けれど、たまに――深夜二時に、ふと目が覚める時がある。
冷たい指が、また俺の額に触れる気がするんだ。
あれはきっと、まだ、終わっていない。
[出典:632 : 本当にあった怖い名無し:2012/08/06(月)]