二十三年程前(1986年/昭和61年)の話。
201 :本当にあった怖い名無し :2009/06/11(木) 21:20:55 ID:PqBlYpvR0
俺の地元は四国山脈の中にある小さな住宅地というか村で、当時も今と変わらず200人くらいが住んでいた。
谷を村の中心として狭い平地が点在しており、そこに村人の家が密集して建っているんだ。
その村の中心から少し離れたところ、山の斜面の途中にぽつんと一軒、古い平屋の家が建っていた。
そこがジロウさんの家だった。
ジロウさんは二〇代半ばと言ったところで、家の前にある猫の額ほどの畑を耕して暮らしていた。
背はうちの親父よりもだいぶ高く、恐らくは180センチくらいあったんじゃないだろうか。子供の目線だからはっきりとはわからないけども。
ジロウさんは筋張った体に彫りの深い顔立ちをしていて、髪は肩まで伸びていた。
その髪は良く手入れされていたようで、さらさらと風に揺れていたことを思い出す。
俺はジロウさんに懐いてたから良く遊びに行った。
俺の村から小学校までは遠くて、友達は皆街の方にいたから、遊び相手がいなかったということもあるだろう。
小学校までは毎日爺ちゃんの軽トラで送り迎えをしてもらってた。
ジロウさんは結構年取った爺さんと一緒に暮らしていた。
総白髪でがりがりに痩せた爺さんは、いつも黒い服を来てジロウさんの側に立って、何をするでもなく、彼のすることをにこにこしながら見ているだけだった。
それは、俺がジロウさんと遊んでいるときも一緒だった。
村に一つしかない商店に一緒にお菓子を買いにいくときにも、じいさんはすたすたついてきた。
ジロウさんの家から平地にある商店まで往復するには、長くて急な坂道を上り下りしなければならなかったんだが、爺さんはいつも遅れずについてきた。
俺はガキだったから走ってたし、ジロウさんはデカイから歩くのは早かったはすなのに。
そういえば爺さんが喋るのを聞いた記憶がない。
ある夏の晩。ジロウさんがいきなり家に来た。
俺はNHKと民放のふたつしか映らないテレビで、何かしら観てたところだった。時刻は覚えてない。
ジロウさんは玄関の中に入ってきたけど、一緒に来てたあの爺さんは戸口の外に立ったままだった。
ジロウさんは親父とお袋と何か話をして、十五分くらいで帰って行った。
両親はなんだか落ち着かない様子で、ひそひそ話してたっけ。
そうして、爺ちゃん婆ちゃん含めた四人で、遅くまで話をしていた。
ジロウさんがウチに来たその週、突然村人全員が村の集会所に集ることになった。
村人が車座になって座った真中に、ジロウさんとジロウさんの爺さんだけが立ってた。
爺さんはいつも通りの格好だったけど、ジロウさんはなんだか裾の長い白い着物を着ていて、手には先に輪っかのついた鉄の棒を持っていた。
着物の脚の部分は絞ってあって、足には白い足袋を履いていた。
大人たちはなんだか怯えているような様子だった。
ジロウさんは大人たちに、
「ここでじっとしているように、自分が戻るまで決してここから出ないように」
と言い残して、爺さんと二人で集会所を出て行った。
俺はその後眠ってしまった。
何時頃かわからないけど、大人たちがざわざわ言うのを聞いて俺は目を覚ました。
声のする方を見ると、ジロウさんが帰ってきていた。
ジロウさんはびっしょりと汗をかいて、髪の毛が顔にべっとりと張り付いていた。
白い着物の胸ははだけ、腰のあたりまで泥がびっしりこびりついていた。
中でも良く覚えているのは、彼の両肩にある赤黒い泥の跡が、小さな噛み跡のように見えたことだ。
大人たちは口々に、ジロウさんに礼を言っていたようだ。
ジロウさんはそれにいちいち頷きながら、「もう心配ない」というようなことを何度も口にしていた。
何のことだか良くわからなかった。
そこには、いつもジロウさんと一緒にいた爺さんの姿はなかった。
ジロウさんは翌日からいなくなった。
親に聞いても知らないと言っていた。そのうち俺は、ジロウさんのことを忘れてしまった。
最近になって、俺はふとジロウさんのことを思い出した。
いろいろと思い出してみると、ジロウさんは一年程しか村にいなかったようだ。
大人になった今は良くわかるのだが、あんな狭い畑を耕しているだけで青年と爺さん二人が暮らせるはずはない。
ジロウさんは一体何者だったのか。
帰省した折に両親に聞いてみると、いくつか教えてくれた。
ジロウさんは修験者だった。
四国には石鎚山(いしづちさん)という霊峰があるが、そこを中心に修行をする修験者の一人だったそうだ。
当時俺の村には、不審な死に方をしたり、行方不明になる者がいたり、奇形の子が生まれたり、死産、流産が続いたりと、ろくなことがなかったらしい。
確かに俺が子供のころは、よく山狩りが行われていたことを覚えている。
赤ん坊というものも見たことがなかった。
原因不明の不幸に見舞われ続けた村の年寄りが集って、そのツテでジロウさんは村に呼ばれたという。
ジロウさんの生活費は、村人が少しずつ出していたそうだ。
そうして、彼に村の不幸の原因を探ってもらっていたらしい。
そうして原因をつきとめた次郎さんは、あの晩一人でその何かを解決し、村から去ったという。
その原因とは……?
俺は両親にさらに聞いたが、「自分たちにはわからない」という答えだった。
俺はあの爺さんについても聞いてみた。
「爺さんはジロウさんの親父さんか祖父だったのか?」と。
両親は、そんな爺さんはいなかったと言う。
ジロウさんは一人で来て、一人で住み、そして去っていったと。
ジロウさんを呼んだ村の年寄りたちは既に死んでいる。
彼らの家族に聞いても知らないということだった。
彼の手がかりはもう何もない。
生きていればもう五〇歳に近いだろう。今彼に会ったとしてもわかるまい。
ただ、村で話を聞くなかで、一つだけ新しく分かったことがある。
明治の頃まで村は極貧だった。もともと林業が主で、作物などはほとんどとれない。
食べるに困った親たちが、子供たちを連れて行く森があった。村から少し離れたところだ。
そこで親たちは、子供の頭に石を振り下ろす。
絶命するまで何度も。
絶命したら、埋める。
そうして村に帰り、皆に「子供が神隠しに遭った」と触れ回る。
皆は知っているが知らぬふりをして、神隠しの噂だけが残る。
昔はそういうことがあったと聞いた。
(了)
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石鎚山について
石鎚山(いしづちさん、いしづちやま)は、四国山地西部に位置する標高1,982mの山で、近畿以西の西日本最高峰である。
愛媛県西条市と久万高原町の境界に位置する。
石鉄山、石鈇山、石土山、石槌山あるいは伊予の高嶺などとも表記される。
『日本霊異記』には「石槌山」と記され、延喜式の神名帳では「石鉄神社」と記されている。
前神寺および横峰寺では「石鈇山(しゃくまざん)」とも呼ぶ。
石鎚山は、山岳信仰(修験道)の山として知られる。日本百名山、日本百景の1つであり、日本七霊山のひとつとされ、霊峰石鎚山とも呼ばれる。石鎚山脈の中心的な山であり、石鎚国定公園に指定されている。
正確には、最高峰に位置する
- 天狗岳(てんぐだけ、標高1,982m)
- 石鎚神社山頂社のある弥山(みせん、標高1,974m)
- 南尖峰(なんせんぽう、標高1,982m)
の一連の総体山を石鎚山と呼ぶ。

天狗岳
三角点は天狗岳や弥山には設置されておらず、弥山の北西にある1,920.63mのピークに三等三角点「石鎚山」が設置されている。
石鎚山系の一等三角点「面河山」は南西側の二ノ森山頂(1,929.24m)に設置されている。
第三紀の1500万年前ごろまで、火山として活動しており、山体は三波川変成帯を覆う、安山岩からなる。
この安山岩は山頂の南側の面河渓を中心とする直径約7kmに分布しており、カルデラを形成していた。
ちなみに、このカルデラは日本で一般的なじょうご型カルデラではなく、環状割れ目噴火によるバイアス式カルデラである。
約2万年前の最終氷期にこの辺りは周氷河作用がはたらき、岩石が砕かれ岩稜の山が形成されたと推定される。