1986年(昭和61年)の話。
俺の地元は四国山脈の中にある、小さな村だ。住宅地と呼ぶには狭すぎて、当時も今も住人は200人ほど。谷を中心にして、平地が点在し、そこに家々が密集していた。
村の中心から少し外れた山の斜面に、ぽつんと古い平屋が建っていた。そこに住んでいたのがジロウさんだ。
ジロウさんは20代半ばくらいで、家の前にある小さな畑を耕して暮らしていた。身長は180センチほどあっただろうか。子供の俺から見ると、ずいぶん大きく見えた。筋張った体、彫りの深い顔、肩まで伸びた髪。それは風に揺れてサラサラと光っていたのを覚えている。
俺はジロウさんが好きで、よく遊びに行った。村から小学校までは遠く、友達は街に住んでいたから、遊び相手もいなかった。爺ちゃんの軽トラで毎日送り迎えしてもらうような暮らしだ。
ジロウさんは白髪の痩せた爺さんと一緒に住んでいた。その爺さんは黒い服を着て、ジロウさんの後ろにいつも立っていた。何をするわけでもなく、ただにこにこと彼を見守っていた。
俺たちが商店にお菓子を買いに行くときも、爺さんは遅れずついてきた。平地までの急な坂道を、俺は走り、ジロウさんは大股で歩く。それでも爺さんは決して遅れない。不思議だったが、子供の俺は気にしなかった。
ある夏の晩、ジロウさんが突然家にやってきた。テレビを観ていた俺の前に立ち、親父やお袋と何やら話をして、15分ほどで帰って行った。その間、爺さんは玄関の外に立ったままだった。両親は妙に落ち着かない様子で、家族でひそひそと話をしていた。
数日後、村人全員が集会所に呼ばれた。車座になった村人の中央に、ジロウさんと爺さんが立っていた。ジロウさんは白い裾の長い着物に身を包み、先に輪っかのついた鉄の棒を手にしていた。足元は白足袋。爺さんはいつも通り黒い服姿だ。
ジロウさんは村人に言った。
「ここでじっとしていてください。自分が戻るまで、決してここから出ないように」
そう言い残し、ジロウさんと爺さんは出て行った。俺はその後、眠ってしまった。
目が覚めたとき、ジロウさんが戻ってきていた。彼は汗だくで、髪は顔に張り付き、白い着物の胸ははだけ、泥が腰のあたりまでべったりとついていた。両肩には赤黒い跡があり、それがまるで小さな噛み跡のようだった。村の大人たちは、口々にジロウさんへ礼を言っていた。ジロウさんはそれに頷き、「もう心配ない」と何度も繰り返した。
あの夜、爺さんの姿はどこにもなかった。
翌日、ジロウさんは姿を消した。親に聞いても「知らない」の一点張りだった。そのうち、俺はジロウさんのことを忘れた。
最近になってふとジロウさんを思い出し、帰省した折に両親に話を聞いてみた。すると、ジロウさんは「修験者」だったという。
四国には霊峰・石鎚山があり、ジロウさんはそこで修行を積む者だった。当時の村は、不審な死や行方不明者、奇形児の出産や死産が続き、不吉な噂が絶えなかった。年寄りたちが相談し、村にジロウさんを呼んだのだという。
ジロウさんの生活費は、村人が少しずつ出し合っていた。そして、彼は村の「何か」を突き止め、あの晩一人で解決し、去っていったのだ。
あの爺さんについても尋ねたが、両親は「そんな人はいなかった」と言う。ジロウさんは一人で来て、一人で暮らし、そして去っていったのだと。
その手がかりはもう何も残っていない。ただ一つ、村の古い話が耳に入った。
明治の頃、村は極貧で、林業が主な生業だったが、作物はほとんど採れなかった。食べるものに困り果てた親たちは、子供を連れて森へ行ったという。そして、そこで子供の頭に石を振り下ろし、絶命するまで何度も殴った。子供が死ぬと、その場に埋め、「神隠しに遭った」と村に戻る。
村人たちはその事実を知っていたが、見て見ぬふりをした。そして「神隠し」という噂だけが残った。
ジロウさんはその「過去」と向き合い、何かを封じたのだろうか。彼が何を見て、何と戦ったのか――それを知る術はもうない。
(了)
[出典:201 :本当にあった怖い名無し :2009/06/11(木) 21:20:55 ID:PqBlYpvR0]
石鎚山について
石鎚山(いしづちさん、いしづちやま)は、四国山地西部に位置する標高1,982mの山で、近畿以西の西日本最高峰である。
愛媛県西条市と久万高原町の境界に位置する。
石鉄山、石鈇山、石土山、石槌山あるいは伊予の高嶺などとも表記される。
『日本霊異記』には「石槌山」と記され、延喜式の神名帳では「石鉄神社」と記されている。
前神寺および横峰寺では「石鈇山(しゃくまざん)」とも呼ぶ。
石鎚山は、山岳信仰(修験道)の山として知られる。日本百名山、日本百景の1つであり、日本七霊山のひとつとされ、霊峰石鎚山とも呼ばれる。石鎚山脈の中心的な山であり、石鎚国定公園に指定されている。
正確には、最高峰に位置する
- 天狗岳(てんぐだけ、標高1,982m)
- 石鎚神社山頂社のある弥山(みせん、標高1,974m)
- 南尖峰(なんせんぽう、標高1,982m)
の一連の総体山を石鎚山と呼ぶ。

天狗岳
三角点は天狗岳や弥山には設置されておらず、弥山の北西にある1,920.63mのピークに三等三角点「石鎚山」が設置されている。
石鎚山系の一等三角点「面河山」は南西側の二ノ森山頂(1,929.24m)に設置されている。
第三紀の1500万年前ごろまで、火山として活動しており、山体は三波川変成帯を覆う、安山岩からなる。
この安山岩は山頂の南側の面河渓を中心とする直径約7kmに分布しており、カルデラを形成していた。
ちなみに、このカルデラは日本で一般的なじょうご型カルデラではなく、環状割れ目噴火によるバイアス式カルデラである。
約2万年前の最終氷期にこの辺りは周氷河作用がはたらき、岩石が砕かれ岩稜の山が形成されたと推定される。