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短編 奇妙な話・不思議な話・怪異譚 n+2026

足元の助手席 nc+

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エンジン音とアイドリングの微振動が、腹の奥に溜まっていた疲労をかき混ぜるように響いていた。

その日は、理由のはっきりしないだるさが朝から抜けなかった。寝不足でもなく、仕事が立て込んでいたわけでもない。ただ、視界の端が時折ぼやける感覚だけが残っていた。

母と二人で車に乗り、用事を済ませるために郊外へ向かっていた。信号待ちの間、母が唐突に言った。

「最近ね、少しおかしいの」

声の調子は軽く、愚痴とも独り言ともつかない。
続けて母は、ここしばらく疲れが抜けず、たまに見間違いのようなものを見ることがあったと話した。人影だったり、何かが動いた気がしたり。でも一週間ほど前からは治っていると思う、と。

私は相槌だけ打ち、深くは聞かなかった。母は昔から心配性で、体調の話題も多い。大事にするほどのことではないと、その時は判断していた。

コンビニの駐車場に車を入れ、エンジンをかけたまま降りた。煙草を買うだけだ。
ガラス越しに見える車内で、母は助手席に座ったまま外を眺めていた。

店内は昼下がり特有の気怠い空気で、レジに並ぶ数人の背中が妙に近く感じられた。会計を済ませ、袋を片手に外へ出た瞬間、視界の左端に何かが引っかかった。

隣に停まっている車。その助手席に、誰かが座っているように見えた。

女だった。
年齢は分からない。髪の長さも曖昧で、輪郭がはっきりしない。ただ、こちらを向いている気配だけが確かにあった。

見た、というより、認識してしまった感覚に近い。
意識を向けた瞬間、女の像は薄れ、視界の端から消えた。

車に戻り、ドアを閉める。
私は無意識に言葉を漏らしていた。

「やっぱり疲れてるな。今、隣の車の助手席に女の人が見えた」

言った直後、母がこちらを見た。
その視線が妙に静かだった。

「……あなたも?」

母はそれ以上、何も言わなかった。
私は一度深呼吸し、気のせいだと自分に言い聞かせるために、もう一度隣の車を確認した。

誰も乗っていない。
フロントガラス越しに見える助手席は空席だった。

念のため車を降り、隣の車の窓を覗き込む。
その瞬間、胸の奥が冷えた。

助手席の足元に、花束が置かれていた。
透明なセロファンに包まれた、白と薄紫の花。水滴が内側に残り、ついさっきまで冷蔵ケースに入っていたかのように瑞々しい。

座席ではない。
シートベルトもかかっていない。
ただ、そこに置かれているだけだった。

誰かが運転席から降りた直後なのかもしれない。そう考えれば説明はつく。
だが、なぜ助手席ではなく足元なのか。なぜ花束だけなのか。

車に戻ると、母は花束を見ていなかった。
視線は前方のフロントガラスに固定されたまま、指先が膝の上でわずかに震えていた。

「さっきね」

母が低い声で言った。

「あなたがコンビニに入ってすぐ、隣の車の中に人が座った気がしたの。女の人だった」

私は何も答えなかった。
言えば、同じものを見たことになる。言わなければ、黙ってやり過ごせる。

母は続けた。

「でも、座り方がおかしかった。ちゃんと座ってない感じ。足元のほうに重心があって……」

そこで言葉が止まった。
母は自分の発言を振り返るように、口を閉じた。

エンジン音だけが車内に残った。
私は花束のことを伝えなかった。

発車してからしばらく、母は何も話さなかった。
目的地に着くまでの間、何度かバックミラーに視線を送ったが、そこにはいつもの道路と、いつもの後続車しか映らない。

その夜、母から電話がかかってきた。

「ねえ、今日のことだけど」

私は構えたが、母の声は落ち着いていた。

「思い出したの。あの花束、昔、同じのを見たことがある」

どこで、と尋ねる前に、母は言った。

「助手席じゃなかった。もっと低いところ。足元に置いてあった」

私は黙って聞いていた。
母はそれ以上、詳しく語らなかった。

電話を切った後、昼間の光景を何度も思い返した。
視界の端に引っかかった女の像。
足元に置かれた花束。
母の曖昧な記憶。

疲れていたのだろう。
そう結論づけることは簡単だった。

だが、それ以来、駐車場で隣の車を見るとき、私は必ず助手席ではなく足元を先に確認するようになった。

そこに何もないことを確かめてからでないと、運転席に戻れなくなった。

[出典:940 :本当にあった怖い名無し:04/09/06 15:30 ID:AEGy67mW]

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