今でも、あの盆の夕暮れの匂いを思い出すと胸の奥がざらつく。
線香の煙がゆらゆらと部屋の天井を撫でていた。
俺とAは黙ったまま、黒い位牌の前に座っていた。
その家は以前と何も変わらないはずなのに、四人で過ごした笑い声の残滓がどこにも無い。
妙に静かで、冷蔵庫の小さな唸りが、やけに人の息づかいのように聞こえた。
Bさんは憔悴しきった顔で湯呑を差し出し、俺らの正面に腰を下ろした。
口元が震えていたが、言葉を抑え込むことはできなかったのだろう。
「……実はな」
と、Bさんは声を潜めて、あの奇妙な話を始めた。
Cさんが亡くなる直前、ほんの一瞬だけ奇跡のように意識が戻った。
呼吸器に繋がれ、もう声も掠れていたというのに、目だけは妙に澄んでいたらしい。
その口から洩れた言葉は「伝えたいことがある」だった。
「私ね、五回人生をやり直しているの」
乾いた病室に似つかわしくないほどの確信に満ちた声音。
Bさんは思わず「何を言ってるんだ」と返したが、彼女は続けた。
最初の人生では恋人になれず、別の相手と結婚し、どちらも離婚。
二度目は彼と結ばれたが、子供を産んですぐ病に奪われた。
三度目では、子は元気に育ったが、今度は自分が事故死。
四度目は子供を作らず、それでも死は回避できず。
そして五度目の今も、原因不明の病が自分を連れ去ろうとしている。
「人の寿命だけは、どうやっても変えられないの」
と、微笑みすら浮かべて言ったそうだ。
最後に彼女は言った。
「私、死んでもまた時間をさかのぼるから。大学生の時の貴方に会いに行くよ」
その後、力尽きるように目を閉じ、それきり二度と目を開くことはなかった。
Bさんは震える指で湯呑を押しやりながら「信じなくてもいい」と付け足した。
「死に際の妄言かもしれん。ドラマの見すぎかもしれん。ただ、もしあいつが違う時間を生きてるんなら、それで元気なら……それでいい」
そう言った時の笑みが、泣き顔よりも見ていられなかった。
俺は黙って頷いたが、内心は凍りついていた。
なぜなら、俺はその数日前、不可解な体験をしていたのだ。
――電車のホームでふと人混みを見渡した時、見覚えのある後ろ姿を見た。
薄いベージュのカーディガン、揺れる髪。
一瞬、Cさんにしか見えなかった。
声をかけようとした刹那、その人は人の流れに紛れて消えた。
勘違いかもしれない。
だがその夜、夢の中に同じ姿が現れた。
夢の中で彼女は学生の制服を着ていた。
振り向いた顔は確かにCさんで、けれどどこか若すぎた。
「また会おうね」
そう囁かれ、俺は汗だくで目を覚ました。
思い返せば、Aの家に居候していた頃、BさんとCさんが恋人になるかどうか微妙な空気を漂わせていた時期があった。
あの時もし彼らが違う選択をしていたら……。
Cさんが語った「やり直しの人生」という言葉が、頭から離れない。
それからというもの、俺は大学近くを通るたびに、無意識に若い女性の姿を探してしまう。
どこかで再び「大学時代のBさん」に会いに行こうとしているCさんを見つけてしまうのではないかと。
ただの偶然か、幻覚か、それとも――。
いまも線香の煙を見ると、あの言葉が甦る。
「死んでもまた時間をさかのぼるから」
彼女はもう五度目を始めているのかもしれない。
もしそうなら、俺たちが覚えている「Cさん」は、もうどこにも存在しないのかもしれない。
それを思うたびに、胸の奥にひやりとした隙間が空くのだ。
さて、この話を読み終えたあなたは「彼女は本当に五度目を生きている」のか「死の間際の幻言」なのか、どちらだと思うだろう。
[出典：27 ：本当にあった怖い名無し：2009/08/25(火) 05:16:22 ID:fyDmYmyC0]
解説
「五度目の彼女」は、輪廻転生という古いテーマを現代的な語りの中に埋め込み、
“信じるか否か”の境界で読者をゆっくりと立ち止まらせる精緻な怪談だ。
それは恐怖譚というより、“記憶の再利用”を描いた存在論的な物語であり、
人が誰かを想い続けることそのものが、時間の呪いになる――という構造を持っている。
冒頭の空気は、盆の夕暮れ、線香、沈黙。
これは典型的な“死者を迎える儀式的時間”の描写だが、
同時に物語全体のテーマ「繰り返し」と呼応している。
盆は死者が“帰る”時期、すなわち時間が一瞬だけ逆行する季節。
物語がその設定から始まる時点で、
すでに“時間をさかのぼる物語”が準備されているのだ。
核心は、Cさんの死に際の言葉。
「私ね、五回人生をやり直しているの」
この台詞がもたらすのは、宗教的な慰めでも、
純粋な狂言でもない。
語りの響きがあまりに静かで理路整然としているため、
読者も一瞬“そういう法則が世界にあるのかもしれない”と錯覚する。
その説得力は、彼女の語り方の“淡々さ”にある。
感情を排し、報告のように話すことによって、
非現実が現実の口調で滑り込んでくる。
この違和感が物語の真の恐怖を生んでいる。
“やり直し”の内容も、いわゆるファンタジー的な全能感とは正反対だ。
恋人を得ても子を失い、子を得ても自分が死ぬ。
どの人生も欠けを抱えたまま終わる。
そこには「修行」や「贖罪」よりも、
“結果を変えられない時間の構造的残酷さ”がある。
輪廻ではなく、反復実験としての人生。
彼女は何かを学ぶのではなく、
同じ構図の中で少しずつ“欠落の位置”をずらしているだけ。
それは地獄でも救済でもない、
静かな反復地獄だ。
しかしBさん――彼女の恋人であり遺族――の受け止め方が、
この作品の温度を決定する。
「もしあいつが違う時間を生きてるんなら、それで元気ならそれでいい」
この一言が、怪談の恐怖を慈悲へと変えている。
死者の言葉を信じるのではなく、
“信じてあげる”という選択。
つまりこれは、信仰ではなく愛の形式の物語なのだ。
そしてその“信じてあげる”という行為そのものが、
彼女の再生を現実化させている――という逆説も含んでいる。
Bさんの言葉が、Cさんの「五度目」を起動させた可能性がある。
次に描かれる「俺の不可解な体験」は、
語りの重心を“第三者”に移すことで、
現実の側にもほつれを生じさせる。
ホームで見た後ろ姿、夢に現れた若いCさん。
それは幽霊譚の典型的モチーフだが、
ここでは幽霊というより“時間の残像”として現れる。
夢の中の若さは、“やり直し”の証拠として提示されるが、
同時に“生者の願望”の具現でもある。
この二重性――「見た」という事実が
“彼女が戻った証拠”にも“未練の投影”にもなりうる――
その曖昧さこそが物語の支柱だ。
怪談とは本来、“解釈が二つ存在できる空間”を指す。
この作品は、その構造を完璧に体現している。
また、B・C・A・語り手の四人という構図にも、
微妙な循環が仕込まれている。
四人のうち、Cが死者となり、Bが“過去に囚われ”、
Aと語り手が“観測者”となる。
つまり彼らは生と死、記憶と忘却の四つの座標を形成しており、
物語はその“ひとつが欠けたまま回転する軌道”を描く。
Cが時間を巻き戻すたび、
この四角形の形が微妙に歪む――その歪みの気配だけが残っていく。
この構造的残像が、読後の冷たさを生む。
物語の終盤、「彼女はもう五度目を始めているのかもしれない」
という語り手の推測が、
現実の時間と彼女の時間を完全にズラす。
読者は“死”という終止符を信じるか、
“ループ”という始点を信じるかの選択を迫られる。
だがラスト一文は、読者にその選択を放棄させる。
「さて、この話を読み終えたあなたは――」
と、語り手が読者に直接語りかける。
ここで語りが円環を閉じ、
読者自身が“六度目の観測者”になる。
つまり、物語自体が輪廻の一部になるのだ。
この構成は非常に巧妙で、
彼女の「五度目」が終わると同時に、
読者が“次の人生”＝“次の読者”として配置される。
一見静かな余韻だが、実は読後に感染する形式。
Cさんの輪廻は、物語という形で永続してしまう。
語りの最後に置かれた問いかけは、
読者を「Bさんの立場」と「Cさんの観測者」の両方にしてしまう。
――この多重構造が、本作最大の知的恐怖である。
まとめるなら、「五度目の彼女」は
・死後の世界ではなく、“時間”を信仰対象に据えた怪談
・死を恐怖ではなく、“更新”として描いた輪廻譚
・生者と読者を同時に“残された側”に置く語りの装置
である。
その怖さは、
「死者が消えない」ことではなく、
「死者が何度でも“出会い直し”に来る」ことにある。
記憶も愛も、形を変えて繰り返す。
そして、私たちはその繰り返しのどの段階にいるのか――
それを測る時計だけが、もう存在しない。
