小学校の記憶はところどころ白く抜け落ちているのに、あの名前だけは腐らない。
陽三。
小柄で、声は細く、いつも教室の隅に立っていた。目だけが妙に静かで、誰かを見ているというより、向こう側を透かしているようだった。友達はいなかったはずだ。だが、あいつの言葉だけは、いまも耳の奥に引っかかっている。
最初は由紀夫だ。
休み時間、廊下の窓際で陽三がぽつりと言った。
「水に気をつけて」
唐突だった。由紀夫は笑って「なんだそれ」と肩をすくめた。俺も隣で聞いていたが、占いごっこか何かだと思っただけだ。
四年後、由紀夫は海で死んだ。遊びに行った海水浴場で深みに嵌まり、浮かび上がらなかった。新聞の小さな記事を読んだ瞬間、あの声が蘇った。偶然だと自分に言い聞かせても、言葉だけが残った。
担任にも言った。
「先生、子供には気をつけてね」
若くて優しい先生だった。数年後、出産時の大量出血で亡くなったと聞いた。赤ん坊は助かったらしい。その知らせを聞いたとき、胸の奥に冷たいものが滑り込んだ。
やがて噂が立った。陽三の言葉は当たる。誰に何を言われたかを、卒業後も皆ひそひそと語り合った。あいつは卒業と同時に九州へ転校し、それきり消息はない。それでも地元では「あの陽三」という言い回しが、悪い前触れの代名詞になった。
――それから年月が過ぎた。
帰省した夜、商店街の裏の公園で浩之と再会した。腕っぷしの強さで鳴らしたあいつは、相変わらず声がでかい。缶ビールを開け、昔話の流れで、やはり陽三の名が出た。
浩之は急に黙り、言った。
「俺も言われてた」
「何を」
「『集団には絶対気をつけろ』って」
曖昧だ。どうとでも取れる。俺は笑ったが、浩之は笑わなかった。
「今、やばい仕事してる。恨みも買ってる。集団ってのはリンチだろうな」
そう言いながら、空を見上げた。
「囲まれて終わるってことか」
「さあな。でも俺はやられねぇ。先に潰す」
大声で笑ったが、目は濁っていた。
数日後の深夜、知らない番号から電話が鳴った。
出ると、ざわついた気配の向こうで浩之の声が震えていた。
「……囲まれた」
怒号と鈍い衝撃音。何人いるのか分からない足音。
「策……通じねぇ……多い……」
息が荒い。
「なあ……あいつ……」
雑音が強くなり、言葉が切れた。
通話はそこで途切れた。かけ直しても繋がらない。翌日も、その翌日も、事件の記事は出なかった。浩之の消息も分からない。誰に聞いても曖昧に濁された。
それ以来、思い出すのはひとつの事実だ。
陽三は、俺にだけ何も言わなかった。
由紀夫にも、先生にも、浩之にも、何かしらの言葉を残したのに、俺には一度も声をかけていない。あいつの目が、教室の隅からこちらを見ていた記憶だけがある。
あれは忠告ではなく、確認だったのではないか。
言う必要がない者には、言葉を与えない。もう決まっているから。
眠れない夜が増えた。見知らぬ番号の着信音に体が跳ねる。あの電話の続きが、いつか俺の耳に流れ込む気がする。
陽三は未来を見ていたのか。それとも、言葉を受け取った者が、そこへ歩いていったのか。
だとすれば。
俺は何も告げられなかった。
それは安全だからではない。
告げるまでもなく、辿る道が一つしかないからだ。
最近になって気づいた。陽三の予言は、外れていない。ただし、当たったと知るのは、いつも当人ではない。
だから、まだ俺は知らないだけだ。
自分に何が起きるのかを。
だがきっと、誰かはもう知っている。
教室の隅で、何も言わずに立っていた、あいつのように。
[出典:177 :長文だがすまん:2007/07/17(火) 16:34:05 ID:83rI3COy0]