小学校の記憶はところどころ白く抜け落ちているのに、あの名前だけは腐らずに残っている。
陽三。
小柄で声が細く、休み時間もたいてい教室の隅にいた。友達はいなかったと思う。誰かを見ているときも、相手ではなく、その向こうを見ているような目をしていた。
最初に覚えているのは、由紀夫に言った言葉だ。
「水に気をつけて」
休み時間の廊下だった。あまりに唐突で、由紀夫は「なんだそれ」と笑った。隣にいた俺も、占いの真似か何かだと思った。
四年後、由紀夫は海で死んだ。海水浴に行き、深みに嵌まって、そのまま浮かんでこなかった。新聞の小さな記事で知ったとき、死亡したという文字より先に、陽三の細い声を思い出した。
担任にも、似たようなことを言っている。
「先生、子供には気をつけてね」
若くて優しい先生だった。数年後、出産のときに大量出血で亡くなったと聞いた。赤ん坊は助かったらしい。
その頃には、陽三について妙な噂ができていた。あいつに何か言われた者には、その言葉に関係することが起きる。卒業後も同級生が集まれば、誰が何を言われたという話が出た。
陽三自身は卒業と同時に九州へ移り、それきり消息を聞かなかった。それでも地元では長い間、「あの陽三」という名前だけで話が通じた。
それから何十年か経って、帰省した夜に浩之と会った。
商店街の裏にある公園で缶ビールを飲みながら昔話をしているうち、やはり陽三の名前が出た。腕っぷしの強さで知られていた浩之が、そのときだけ声を落とした。
「俺も言われてたんだよ」
「何を」
「集団には絶対気をつけろ、って」
曖昧すぎる。そんなものはどうとでも取れる、と俺は笑った。
浩之は笑わなかった。
「今、ちょっとまずい仕事してる。恨みも買ってる。集団っていうのは、たぶんリンチだ」
しばらく黙ったあと、缶を握ったまま空を見た。
「囲まれて終わるってことだろ」
俺は何も言えなかった。
「まあ、俺はやられねえけどな。先に潰す」
浩之はそう言って、いつもの大声で笑った。
数日後の深夜、知らない番号から電話がかかってきた。
出ると、ざわついた音の向こうから浩之の声がした。
「……囲まれた」
遠くで怒鳴り声がしていた。何かがぶつかる鈍い音と、何人分なのか分からない足音が続いた。
「策……通じねえ。多い……」
浩之の息はひどく荒かった。
「なあ……あいつ……」
そこで雑音が膨らみ、通話が切れた。
何度かけ直しても繋がらなかった。翌日も、その翌日も、浩之についての記事は出なかった。知り合いに聞いても、知らない、聞いていないと曖昧な返事ばかりだった。
結局、浩之がどうなったのか、俺はいまも知らない。
ただ、あの電話以来、昔の記憶を何度も辿るようになった。
由紀夫には「水」。
先生には「子供」。
浩之には「集団」。
そして俺には、何もなかった。
陽三と同じ教室に何年もいた。話したことが一度もなかったわけではないはずなのに、忠告めいた言葉を受け取った記憶がない。
ただ一つだけ、妙にはっきり覚えている光景がある。
教室の隅に立った陽三が、こちらを見ている。
何も言わずに。
以前は、俺だけ何も言われなかったことを幸運だと思っていた。予言するものがなければ、起こるものもない。そう考えていた。
だが、由紀夫は自分の予言が当たったことを知らない。
先生も知らない。
浩之については、俺たちの誰も確かめられていない。
陽三の言葉が当たったと知るのは、いつも残された側だ。
そのことに気づいてから、知らない番号から電話がかかってくるたび、画面を見る時間が長くなった。
俺について陽三が何も言わなかった理由を、俺はたぶん最後まで知ることができない。
知るのは、俺ではない誰かだ。
[出典:177 :長文だがすまん:2007/07/17(火) 16:34:05 ID:83rI3COy0]