あれは、もう何年も前のことだ。
馴染みの客に引っ張られて、場末のスナックに入った。白すぎる蛍光灯の光が、酒で濁った空気をむき出しにしていて、氷が溶ける音だけが妙に大きく響く夜だった。
カウンターに立っていた女は、よく笑う人だった。酒の作り方も雑談も手慣れていて、客あしらいに隙がない。誰かが「この子、呼びやすい体質なんだってさ」と冗談めかして言ったが、誰も本気にはしなかった。ただの店の噂話だ。
その女が、ふと動きを止めた。
グラスを拭く手が宙で止まり、視線だけがどこか一点に縫い留められたようになった。名前を呼んでも返事がない。次に口を開いたとき、そこから出てきた声は、明らかに彼女のものではなかった。

低く、擦れた男の声だった。
「……ここは、どこじゃ」
店内の空気が、一段重く沈んだ。
誰かが笑いかけたが、途中で止まった。
女はゆっくりと立ち上がり、足元を確かめるように歩き出した。棚の酒瓶を指差して「これは何じゃ」と尋ね、説明を受けても腑に落ちない様子で首を傾げる。試しに酒を口に含ませると、強く咳き込み、喉を押さえた。
天井の照明を見上げたとき、男は声を失った。
「火もないのに……なぜ、こんなに明るい」
それでも最初は、余興だと思われていた。
だが、男は次第に落ち着きを失い、扉の方を気にし始めた。
「帰らねばならん」
そう言って外に出ると、夜の街が一気に視界に広がった。ビルの窓、街灯、走り去る車のライト。男はその場に立ち尽くし、子どものように目を見開いたまま動かなかった。
あの表情だけは、いまも忘れられない。
驚きではなく、理解できないものを前にした恐怖そのものだった。
その頃、女の意識はどうしていたのか。
後日、彼女はぽつぽつと話してくれた。
気がつくと、白い霧の中にいたという。上下も距離もわからず、声を出しても、すぐに霧に吸われる。必死に歩いていると、霧が薄くなる場所があった。
そこを抜けた瞬間、景色が変わった。
川の流れる音。湿った土の匂い。低い小屋が点々と並び、草が足首に絡みつく。遠くで馬の蹄の音がして、振り返ると、人がいた。
だが、目が合わない。
声をかけても、手を振っても、誰も彼女に反応しない。人々は彼女のすぐ脇を通り過ぎていくのに、そこには何もないかのようだった。
それ以上のことは、彼女も思い出せないと言った。
一方、店にいた男は、ぽつりぽつりと自分のことを話した。川向こうの村で馬の世話をしていること。今朝まで、確かにそこで働いていたこと。気がついたら、この部屋に立っていたこと。
芝居とは思えなかった。
言葉の癖も、仕草も、酒への戸惑いも、すべてが妙に噛み合っていた。
やがて、男は静かに眠りに落ちた。
一時間ほど経って、目を開いたとき、そこにいたのは元の女だった。
彼女は状況を理解するより早く、泣き崩れた。理由は説明できないが、とにかく戻ってきたのだと、体が先に悟ったようだった。
後日、私は彼女と改めて話した。
あの夜のことを、詳しく聞こうとはしなかった。ただ、ひとつだけ、引っかかっていることがあった。
彼女が見たという川と小屋の話が、幼いころ祖父から聞かされた、ある土地の昔話と妙に重なっていたのだ。場所も、風景も、働いていた人間のことも。
偶然だと思おうとした。
だが、その話を思い出すたび、背後の空気がわずかに変わる。
だから、確かめるのはやめた。
名前も、場所も、もう口にしない。
あの夜、何かが行き来したのだとしたら、
それは戻っていないのかもしれない。
[出典:585 :あなたのうしろに名無しさんが……:04/05/31 16:14 ID:ICA9Zse2]