あらすじ
■登場人物
神崎陽一(かんざき よういち) - 45歳、元刑事、現在はミステリー作家
身長180cm、やや痩せ型だが筋肉質。短く刈り込んだ黒髪に少し白髪が混じる。鋭い眼差しと穏やかな表情のギャップが特徴。
観察力が鋭く、直感的。正義感が強いが、過去のトラウマから組織に頼らず単独行動を好む。皮肉めいた冗談を言うことがあるが、根は優しい。
警察時代に扱った児童誘拐事件で被害者を救えなかったトラウマを抱えている。その後警察を辞め、その経験を元にミステリー小説を書き始めた。最近のスランプと、静かな環境を求めて青葉台ガーデンヒルズに引っ越してきた。
事件の謎を解き明かす探偵役。元刑事としての経験と作家としての想像力を駆使して調査を進める。
高瀬正志(たかせ まさし) - 65歳、青葉台ガーデンヒルズ住民会長、元大手企業役員
身長175cm、堂々とした体格。白髪交じりの黒髪を整然と後ろに撫でつけている。常に高級スーツを着用し、威厳ある姿勢を保つ。表面上は温厚で紳士的、住民からの信頼も厚い。しかし内面は完璧主義で支配欲が強く、自分の意に沿わない者には冷酷な一面も。
大手企業の役員を早期退職後、青葉台ガーデンヒルズに移住。持ち前のカリスマ性で住民会長に選ばれ、住宅地の秩序維持に尽力していた。表向きは模範的な人物だが、実は15年前の事件に深く関わっていた。
佐伯美咲(さえき みさき) - 42歳、青葉台ガーデンヒルズ住民、フラワーアレンジメント教室主宰
身長165cm、優雅な立ち振る舞いと洗練された美しさを持つ。常に上品な服装で、微笑みを絶やさない。
表面上は穏やかで優しいが、内面は強い意志と執念を秘めている。完璧な外見と評判を維持することに執着している。
15年前に失踪した少女の母親。娘は無事発見されたが、その後遠方に引っ越し、現在は疎遠になっている。高瀬とは表面上良好な関係だが、実は深い確執がある。
村上健太(むらかみ けんた) - 50歳、青葉台ガーデンヒルズ住民、投資コンサルタント
身長178cm、スポーティでありながらビジネスマンの風格も持つ。常に高価な時計とブランド物のカジュアルウェアを身につけている。社交的で明るく、住民からの人気も高い。
西野達也(にしの たつや) - 38歳、青葉台ガーデンヒルズ住民、IT企業経営者
身長170cm、やや痩せ型で神経質そうな印象。常に最新のガジェットを持ち歩き、カジュアルだがセンスの良い服装をしている。
内向的で口数が少ないが、観察力が鋭く知性的。表情からは感情が読み取りにくい。
2年前に青葉台ガーデンヒルズに移住。IT企業の成功で若くして財を成したが、過去に何らかのスキャンダルがあったという噂がある。
田中刑事(たなか けいじ) - 50歳、神崎の元同僚の刑事
身長175cm、がっしりとした体格。常に疲れた表情だが、目は鋭い。
頑固だが誠実。神崎とは犬猿の仲だったが、根底では互いを認め合っている。
公式捜査を担当する警察側の視点を提供。神崎の非公式な調査に時に協力し、時に対立する。
吉岡春香(よしおか はるか) - 35歳、青葉台ガーデンヒルズ住民、小学校教師
身長160cm、清楚で知的な印象。シンプルな服装と優しい笑顔が特徴。
温厚で思いやりがあり、子供たちからの信頼も厚い。しかし、意外と芯が強く、正義感が強い。神崎の良き理解者であり、調査の協力者。住宅地の内情に詳しく、住民たちの人間関係についての情報を提供する。
高瀬美代子(たかせ みよこ) - 60歳、高瀬正志の妻
身長162cm、上品で優雅な雰囲気。常に完璧なメイクと高級な服装。
表面上は従順で夫を支える良妻だが、実は鋭い観察眼と強い意志を持つ。
夫の死の真相を知りたいという願望と、何かを隠しているという二面性を持つ。神崎の調査に協力しつつも、自分自身の秘密を守ろうとする。
江藤雄一(えとう ゆういち) - 70歳、青葉台ガーデンヒルズ最古参住民
身長168cm、年齢を感じさせない健康的な体格。白髪と深いしわが経験を物語る。
穏やかで物知り。住宅地の歴史に詳しく、住民たちからも尊敬されている。
15年前の事件を知る数少ない人物の一人。重要な情報を持っているが、それを明かすことに躊躇している。
■プロローグ:「15年前の影」
夏の終わりを告げる夕暮れだった。
青葉台ガーデンヒルズの森の中、西日が木々の間から斜めに差し込み、地面に長い影を落としていた。蝉の声が徐々に弱まり、代わりに虫の音が静かに響き始めていた。
「瑞穂ちゃーん!」
女性の声が森の中に響く。声には焦りが混じっていた。
「瑞穂ちゃん、どこにいるの? もう帰る時間よ!」
佐伯美咲は額の汗を拭いながら、森の中を歩き回っていた。娘の瑞穂が友達と遊ぶと言って出かけてから、もう三時間が経っていた。普段なら決して遅れることのない娘が、約束の時間を過ぎても帰ってこない。
最初は少し遊びに夢中になっているだけだろうと思っていた。しかし、時間が経つにつれて不安が募り、ついに自分で探しに出てきたのだ。
「瑞穂ちゃん!」
声が木々に吸い込まれていく。返事はない。
美咲は携帯電話を取り出し、娘の友達の親に電話をかけた。しかし、友達は一時間前に既に家に帰っていたという。瑞穂とは森の入り口で別れたとのことだった。
不安が恐怖に変わる。
「瑞穂!」
今度は叫ぶように娘の名を呼んだ。声が震えていた。
青葉台ガーデンヒルズは東京郊外に位置する高級住宅地だ。外部からの侵入を防ぐ高い塀と厳重なセキュリティゲートに守られ、内部には美しく手入れされた公園や小さな森がある。住民はみな裕福で教養があり、子供たちが安全に遊べる環境として知られていた。
だからこそ、美咲は娘が森で遊ぶことを許していた。ここなら安全だと信じていたから。
しかし今、その信頼が揺らいでいた。
美咲は急いで住宅地の管理事務所に向かった。事務所では住民会長の高瀬正志が書類に目を通していた。美咲が息を切らせて飛び込んできたのを見て、高瀬は眉をひそめた。
「佐伯さん、どうしました?」
「瑞穂が見つからないんです!」美咲は取り乱した様子で言った。「森で遊んでいたはずなのに、もう何時間も帰ってこないんです」
高瀬は立ち上がり、冷静な声で言った。「落ち着いてください。すぐに探しましょう」
高瀬の指示で、住宅地内の放送で瑞穂の捜索が呼びかけられた。住民たちが次々と集まり、捜索隊が組織された。警察にも連絡が入れられた。
夜が更けていく。
懐中電灯の光が森の中を照らし、「瑞穂ちゃん!」という呼びかけが繰り返された。美咲は高瀬に支えられながら、顔を青ざめさせて捜索の様子を見守っていた。
「見つかります」高瀬は静かに言った。「必ず見つけます」
その声には奇妙な確信があった。
翌日になっても瑞穂は見つからなかった。警察による本格的な捜索が始まり、ニュースでも報道された。住宅地は緊張に包まれた。
そして、失踪から三日後。
瑞穂は住宅地から数キロ離れた場所で発見された。体には目立った外傷はなく、意識もあった。しかし、瑞穂は何も語ろうとしなかった。どこにいたのか、何があったのか、一切口を開かなかった。
医師の診断では、身体的な虐待の形跡はないものの、何らかの精神的ショックを受けた可能性があるとのことだった。
警察の捜査は続いたが、決定的な証拠は見つからなかった。瑞穂自身が何も語らない以上、事件の全容を解明することは困難だった。
結局、事件は「道に迷った子供が自力で歩いていた」という形で処理された。しかし、それで納得する人は少なかった。特に美咲は。
事件から一ヶ月後、佐伯家は青葉台ガーデンヒルズを去った。瑞穂は遠方の親戚の家に預けられ、美咲だけが住宅地に残った。
「娘さんを手放すなんて、大変な決断でしたね」
引っ越しの日、高瀬は美咲にそう声をかけた。
美咲は長い間黙っていたが、やがて静かに答えた。
「瑞穂のためです。あの子をここに置いておくわけにはいきません」
その言葉には、言外の意味が込められているようだった。
高瀬は何も言わず、ただ頷いただけだった。
その日以来、青葉台ガーデンヒルズでは少女失踪事件について語られることはなくなった。表面上は平穏な日常が戻ってきたかのようだった。
しかし、森の中に落ちる影は、以前より少し濃くなったように見えた。
そして15年の時が流れた。
■第1章:「新たな住人」
神崎陽一は車のエンジンを切り、深く息を吐いた。
窓の外には、整然と並ぶ洋風の邸宅が見える。どの家も手入れの行き届いた庭を持ち、高級感を漂わせていた。青葉台ガーデンヒルズ——これから彼が住むことになる高級住宅地だ。
「本当にここでいいのかな」
独り言を呟きながら、神崎は車から降りた。身長180センチの痩せ型の体に、短く刈り込んだ黒髪。45歳になったばかりだが、こめかみには既に白いものが混じっている。元刑事、現在はミステリー作家という経歴を持つ彼の目は、周囲を自然と観察するクセがついていた。
管理事務所の前に立ち、神崎は一瞬躊躇した。東京の喧騒から離れ、静かな環境で執筆に集中するために選んだ場所だ。しかし、あまりにも整然とした住宅地の雰囲気に、何か違和感を覚えていた。
「神崎さんですね」
振り返ると、50代半ばと思われる女性が立っていた。きちんとしたスーツ姿で、髪は短くまとめられている。
「はい、そうです」
「お待ちしておりました。管理事務所の井上と申します。こちらへどうぞ」
井上は丁寧に頭を下げ、事務所の中へと神崎を案内した。
事務所内は清潔で機能的な空間だった。壁には住宅地の地図や写真が飾られ、受付カウンターの奥には小さな応接スペースがある。
「住民会長の高瀬様がお待ちです」
井上に導かれ、神崎は応接スペースへと向かった。そこには威厳のある男性が座っていた。
「ようこそ、青葉台ガーデンヒルズへ」
男性は立ち上がり、手を差し出した。身長175センチほどで、堂々とした体格。白髪交じりの黒髪を整然と後ろに撫でつけ、高級スーツをきちんと着こなしている。65歳ほどだろうか。年齢を感じさせる皺はあるものの、背筋はピンと伸び、目は鋭く輝いていた。
「高瀬正志です。住民会長を務めております」
神崎は差し出された手を握った。力強い握手だった。
「神崎陽一です。よろしくお願いします」
「ミステリー作家の神崎先生が我が住宅地を選んでくださったこと、大変光栄に思います」
高瀬の口調は丁寧だが、どこか上から目線のようにも感じられた。神崎は内心で眉をひそめたが、表情には出さなかった。
「静かな環境で執筆に集中したくて」神崎は簡潔に答えた。
「最適な選択です。我が青葉台ガーデンヒルズは、安全で静謐な環境を何よりも大切にしております」
高瀬は誇らしげに言った。そして、デスクの上から一冊のファイルを取り上げた。
「こちらが住宅地の規約と案内です。特に規約はしっかりとお読みいただきたい。皆が快適に過ごすための大切なルールですので」
神崎はファイルを受け取り、パラパラとめくってみた。かなり細かい規約が並んでいる。夜間の騒音禁止、ゴミ出しのルール、来客の事前申請など、一般的な住宅地よりも厳しい印象を受けた。
「少し厳しいようにも思えますが」神崎が言うと、高瀬は穏やかな笑顔を浮かべた。
「安全と秩序を守るためです。住民の皆さんには十分ご理解いただいております」
その言葉には反論の余地がないように聞こえた。
「それでは、お家までご案内しましょう」
高瀬は立ち上がり、神崎を外へと導いた。二人は住宅地内を歩き始めた。
青葉台ガーデンヒルズは、想像以上に広く、美しかった。区画整理された道路、手入れの行き届いた公園、そして住宅地の中心には小さな森もある。どの家も個性的でありながら、全体として調和のとれた景観を作り出していた。
「あちらが吉岡さんのお宅です。小学校の先生をされています」高瀬は洋風の小さな家を指さした。「そして、あちらが佐伯さん。フラワーアレンジメントの教室を開いています」
次々と住民の家と簡単なプロフィールが紹介された。神崎は黙って聞いていたが、高瀬が特定の家の前では足を止めず、さらっと説明を済ませる様子に、何か意図を感じた。
「あちらの大きな家は?」神崎は住宅地の奥にある、ひときわ目立つ洋館風の建物を指さした。
高瀬の表情が一瞬こわばったように見えた。
「ああ、あれは村上さんのお宅です。投資コンサルタントをされています。成功されているようで」
その説明は他の住民に比べて素っ気なかった。神崎はそれを頭の片隅に留めておいた。
やがて二人は神崎の新居に到着した。二階建ての落ち着いた洋風住宅で、小さな庭がついている。
「気に入っていただけましたか?」高瀬が尋ねた。
「ええ、十分です」神崎は答えた。「静かで、執筆には最適な環境です」
「何か必要なことがあれば、いつでも管理事務所か私に連絡してください」高瀬は名刺を差し出した。「住民同士の交流会も定期的に開いています。ぜひ参加してください」
神崎は名刺を受け取り、軽く頭を下げた。
「それでは、ごゆっくりお過ごしください」
高瀬は丁寧に挨拶をして去っていった。その背中を見送りながら、神崎は何とも言えない違和感を覚えた。あまりにも完璧すぎる住宅地。あまりにも整然とした秩序。
神崎は新居の鍵を開け、中に入った。家具は既に運び込まれており、生活をすぐに始められる状態だった。リビングの窓から見える景色は美しく、確かに執筆には最適な環境だった。
しかし、神崎の刑事としての勘が、この平穏な表面の下に何かが潜んでいると告げていた。
彼は荷物を解き始めながら考えた。ここに引っ越してきたのは、単に静かな環境を求めてというだけではない。作家としてのスランプを抜け出すためでもある。そして、もしかしたら——過去のトラウマから逃れるためかもしれない。
神崎は書斎に向かい、デスクの上にノートパソコンを置いた。新しい小説のアイデアはまだ固まっていない。しかし、この青葉台ガーデンヒルズという場所が、何か新しいインスピレーションをもたらしてくれるかもしれないと思った。
窓の外では、夕暮れが近づいていた。住宅地に長い影が落ち始めている。神崎はふと、この完璧に見える住宅地の影の部分に、どんな秘密が隠されているのだろうかと考えた。
その時、玄関のチャイムが鳴った。
神崎が扉を開けると、30代半ばくらいの女性が立っていた。清楚な印象の服装で、知的な雰囲気を漂わせている。
「こんにちは、吉岡春香と申します。お隣に住んでいます」
女性は軽く頭を下げ、手に持っていた小さな籠を差し出した。
「ささやかですが、引っ越しのお祝いに。手作りのクッキーです」
「ありがとうございます。神崎陽一です」
神崎は籠を受け取り、礼を言った。
「高瀬さんから聞きました。作家さんなんですよね」吉岡の目が好奇心で輝いた。「実は私、神崎さんの本を読んだことがあります。『闇の証人』、素晴らしかったです」
神崎は少し驚いた。『闇の証人』は彼のデビュー作で、今ではあまり知られていない。
「読んでくださったんですか。光栄です」
「ぜひお時間があれば、お茶でもご一緒しませんか?青葉台のことなら何でも聞いてください」
吉岡の笑顔には誠実さが感じられた。神崎は少し警戒心を解いた。
「ぜひ、お願いします」
「それでは、また」吉岡は軽く手を振り、去っていった。
神崎は扉を閉め、吉岡が持ってきたクッキーを見た。手作りの温かみが感じられる。
この住宅地には、表面的な完璧さの中にも、吉岡のような素直な人もいるのだろう。しかし、高瀬の態度や、住宅地全体から感じる違和感は消えなかった。
神崎はリビングの窓から外を見た。日が落ち始め、住宅地に影が広がっていく。どこか遠くで子供の笑い声が聞こえた。平和な光景だ。
しかし、神崎の心の中では、元刑事としての直感が静かに警告を発していた。
この平穏な表面の下に、何かが潜んでいる——。
その夜、神崎は新しい小説のアイデアをノートに書き始めた。主人公は、表面上は完璧に見える閉鎖的なコミュニティに潜む闇を探る男。それは、彼自身がこれから経験することになるかもしれない物語だった。
窓の外では、青葉台ガーデンヒルズの夜が静かに更けていった。
■第2章:「突然の死」
朝の光が窓から差し込み、神崎の目を覚ました。
青葉台ガーデンヒルズでの最初の朝だ。彼は起き上がり、窓の外を見た。住宅地は既に活気づいていた。散歩をする住民、庭の手入れをする人々、学校へ向かう子供たち。完璧に調和した日常の風景。
神崎はコーヒーを淹れ、新居の書斎に向かった。昨夜思いついた小説のアイデアを発展させるつもりだった。しかし、パソコンの前に座っても、なかなか言葉が浮かんでこない。
「やはりスランプか」
彼は溜息をつき、椅子から立ち上がった。気分転換に住宅地を散策してみることにした。
外に出ると、爽やかな風が頬を撫でた。神崎は住宅地内を歩き始めた。昨日高瀬に案内されたルートとは別の道を選び、青葉台ガーデンヒルズの様子をより詳しく観察した。
どの家も個性的でありながら、全体として統一感があった。庭の手入れは行き届き、道路にはゴミひとつ落ちていない。まるで映画のセットのような完璧さだ。
住宅地の中心部に差し掛かると、小さな広場があった。そこでは数人の住民が集まって話をしていた。神崎が近づくと、会話が一瞬途切れた。
「あ、神崎さん」
声をかけてきたのは、昨日挨拶に来た吉岡春香だった。彼女は笑顔で手を振った。
「おはようございます」神崎は軽く頭を下げた。
「皆さん、こちらが新しく引っ越してきた神崎陽一さんです。作家さんなんですよ」
吉岡の紹介に、集まっていた住民たちが興味深そうに神崎を見た。
「佐伯美咲です。よろしくお願いします」
42歳くらいの優雅な雰囲気の女性が挨拶した。上品な服装で、微笑みを絶やさない。しかし、その目には何か深い影が宿っているように見えた。
「村上健太です。投資の仕事をしています」
50歳前後の男性が力強く手を差し出した。スポーティな印象だが、ビジネスマンの風格も持ち合わせている。高価な時計が目に入った。
「西野達也です」
最後に挨拶したのは30代後半の痩せ型の男性だった。神経質そうな印象で、言葉少なだった。常に最新のスマートフォンを手にしている。
神崎は一人ひとりと挨拶を交わした。表面上は友好的な雰囲気だったが、どこか緊張感も漂っていた。
「神崎さんは何のジャンルの小説を書かれるんですか?」佐伯が尋ねた。
「ミステリーです」
「まあ、素敵」佐伯は目を輝かせた。「私、ミステリー小説大好きなんです」
「僕も読みますよ」村上が割り込んできた。「特に最近のトレンドは複雑な人間関係を描いたサスペンスですね。神崎さんもそういう作風ですか?」
神崎は少し考えてから答えた。「私の場合は、表面上は平穏に見える日常の裏に潜む闇を描くことが多いですね」
その言葉に、集まっていた住民たちの表情が微妙に変化した。特に佐伯の目が一瞬だけ鋭くなったように見えた。
「興味深いですね」西野が静かに言った。「日常の裏に潜む闇、か」
会話は他の話題に移り、神崎は住民たちの関係性を観察した。表面上は和やかだが、時折交わされる視線や、言葉の端々に何か隠された緊張を感じた。
特に村上と佐伯の間には、言葉には出さない何かがあるように思えた。
しばらくして、神崎は散歩を続けるために広場を後にした。
「また今度、ゆっくりお話ししましょう」
吉岡が見送りながら言った。彼女だけは純粋に友好的な印象を受けた。
神崎は住宅地の奥へと歩を進めた。やがて、小さな森の入り口に差し掛かった。昨日高瀬が案内した時には触れなかった場所だ。
森の入り口には「立入禁止」の看板があった。神崎は不思議に思い、近くを通りかかった年配の男性に声をかけた。
「すみません、この森は入れないんですか?」
男性は振り返った。70歳前後だろうか。年齢を感じさせない健康的な体格で、穏やかな表情をしていた。
「ああ、あそこですか。安全上の理由で立入禁止になっています」男性は答えた。「江藤雄一と申します。この住宅地の最古参住民の一人です」
「神崎陽一です。昨日引っ越してきました」
「ああ、作家の方ですね。噂は聞いています」江藤は微笑んだ。「青葉台ガーデンヒルズの印象はいかがですか?」
「完璧すぎるような気がします」神崎は正直に答えた。
江藤は小さく笑った。「鋭い観察眼をお持ちですね。確かに、ここは少し…特殊かもしれません」
「特殊?」
「高瀬会長が厳格に秩序を守っているんです。おかげで安全で快適ではありますがね」
江藤の言葉には、何か言外の意味が含まれているように感じられた。
「あの森について、もう少し教えていただけますか?」神崎は尋ねた。
江藤の表情が一瞬こわばった。「特に何もありません。ただの森です。ただ…」
言葉が途切れた。
「ただ?」
「いえ、何でもありません」江藤は急に話題を変えた。「そろそろ失礼します。また機会があればお話ししましょう」
江藤は軽く会釈して去っていった。その背中には何か重いものを背負っているような印象があった。
神崎は森を見つめた。単なる安全上の理由だけではなさそうだ。何か別の理由があるのではないか。
彼は書斎に戻り、青葉台ガーデンヒルズについてネット検索をしてみた。高級住宅地としての評判、セキュリティの高さ、住環境の良さなど、一般的な情報は多く出てきた。しかし、特に目立ったニュースや事件の記録は見つからなかった。
あまりにも情報がないことが、逆に不自然に思えた。
その日の午後、神崎は執筆を試みたが、なかなか集中できなかった。頭の中は青葉台ガーデンヒルズの住民たちと、立入禁止の森のことでいっぱいだった。
夕方になり、神崎はキッチンで夕食の準備をしていた。その時、外から騒がしい声が聞こえてきた。
窓から外を見ると、住宅地の中心部に向かって人々が集まっていくのが見えた。何か異変が起きたようだ。
神崎は急いで外に出た。人々の流れに沿って歩いていくと、高瀬正志の家の前に到着した。家の周りには既に多くの住民が集まっており、パトカーのサイレンが近づいてくる音が聞こえた。
「何があったんですか?」神崎は近くにいた住民に尋ねた。
「高瀬さんが…」住民は震える声で答えた。「自殺したらしいんです」
神崎は息を呑んだ。昨日まで威厳に満ちていた住民会長が、自ら命を絶つとは考えられなかった。
パトカーが到着し、警察官が家の中に入っていった。しばらくして、救急車も到着した。
人だかりの中に、吉岡春香の姿を見つけた神崎は、彼女に近づいた。
「何があったんですか?」
吉岡は青ざめた顔で答えた。「高瀬さんが書斎で首を吊っているのが見つかったんです。奥さんが発見したそうです」
「自殺だと?」神崎は疑問を隠せなかった。
「遺書もあったらしいです」吉岡は小声で言った。「でも…」
「でも?」
「高瀬さんが自殺するなんて、考えられないんです。昨日までとても元気で、住宅地の将来計画について熱心に話していたのに」
神崎も同じ違和感を覚えていた。昨日会った高瀬は、自殺するような人には見えなかった。
人だかりの中に、佐伯美咲、村上健太、西野達也の姿も見えた。三人とも動揺した様子だったが、神崎の目には、それぞれの表情に微妙な違いが見て取れた。
佐伯は悲しみに暮れているように見えたが、その目には別の感情も宿っていた。村上は取り乱したふりをしているようにも見え、西野は冷静さを保とうと努めているようだった。
警察官が家から出てきて、人々に解散するよう促した。事件現場の検証が行われるとのことだった。
住民たちは徐々に散っていったが、神崎はその場に残った。彼の元刑事としての勘が、この「自殺」に違和感を覚えていた。
そこへ、一人の刑事が近づいてきた。50歳前後の、がっしりとした体格の男性だ。
「神崎?」
刑事の声に、神崎は驚いて振り返った。見覚えのある顔だった。
「田中…」
田中刑事は神崎の元同僚だった。二人は犬猿の仲だったが、互いの能力は認め合っていた。
「こんな所で会うとは思わなかったぞ」田中は言った。「ここに住んでるのか?」
「昨日引っ越してきたばかりだ」神崎は答えた。「君がこの事件を担当するのか?」
「ああ。今のところは自殺として扱っている。書斎は内側から鍵がかかっていて、遺書もあった。典型的な自殺のケースだ」
神崎は眉をひそめた。「高瀬という人物は、自殺するタイプには見えなかったが」
「人は見かけによらないものさ」田中は肩をすくめた。「それに、君はもう刑事じゃない。作家だろう?小説の材料にでもするつもりか?」
その言葉には皮肉が込められていた。
「単なる興味だ」神崎は平静を装った。
「まあ、公式な見解は自殺だ。それ以上詮索するな」田中は警告するように言った。「君の小説のネタにするなら、事実とは違うということを明記しておけよ」
田中は立ち去ろうとしたが、神崎が呼び止めた。
「ちょっと待ってくれ。高瀬の遺体の状態は?」
田中は一瞬躊躇したが、答えた。「首吊り自殺だ。書斎の梁から吊っていた。死後12時間ほど経過している」
「他に不審な点は?」
「神崎、これは警察の捜査だ。部外者に話すことはできない」田中は厳しい口調で言った。「それに、不審な点などない。明らかな自殺だ」
田中は神崎に背を向け、現場に戻っていった。
神崎はその場に立ち尽くした。田中の言葉は断固としていたが、どこか自信がないようにも感じられた。何か見落としている点があるのではないか。
夜になり、高瀬家の周囲は静かになった。警察の検証も終わり、遺体は運び出された。住宅地全体が重苦しい雰囲気に包まれていた。
神崎は自宅に戻り、書斎の窓から高瀬家の方向を見つめた。昨日まで威厳に満ちていた男が、なぜ突然自ら命を絶ったのか。そこには何か隠された理由があるのではないか。
彼は机に向かい、今日見聞きしたことをノートに書き留めた。
- 高瀬正志、65歳、住民会長、自殺
- 書斎で首吊り、内側から鍵、遺書あり
- 死亡推定時刻:昨夜から今朝にかけて
- 住民たちの反応:動揺、しかし微妙な違いあり
- 立入禁止の森の謎
- 江藤雄一の言葉「特殊」
神崎は考え込んだ。これは単なる自殺なのか、それとも何か別の真相があるのか。
彼の作家としての想像力と、元刑事としての直感が、この「自殺」の裏に何かがあると告げていた。
神崎は決意した。自分なりに調査してみよう。青葉台ガーデンヒルズの完璧な表面の下に潜む真実を探るために。
窓の外では、夜の闇が住宅地を覆い尽くしていた。その闇の中に、誰かの秘密が隠されているようだった。
■第3章:「疑惑の種」
翌朝、神崎は早くに目を覚ました。
昨夜の出来事が頭から離れない。高瀬正志の突然の死。自殺と断定されているが、何かがおかしい。神崎は長年の刑事としての経験から、表面上の事実だけでは判断できない何かを感じていた。
彼はコーヒーを淹れながら、今日の行動計画を考えた。まずは高瀬の死の状況についてもっと情報を集める必要がある。そして、住民たちの反応をより詳しく観察したい。
朝食を済ませた神崎は、住宅地を散策することにした。昨日とは違い、住宅地全体に重苦しい空気が漂っていた。通りを歩く人々の表情は暗く、会話も少ない。
神崎が高瀬家の前を通りかかると、家の周囲には警察のテープが張られていた。現場検証はまだ続いているようだ。家の前には花束が置かれ始めていた。
そこへ、吉岡春香が近づいてきた。
「神崎さん、おはようございます」
彼女の声は疲れていた。目の下には隈ができている。
「おはようございます。昨日は大変でしたね」神崎は声をかけた。
吉岡は小さく頷いた。「まだ信じられないんです。高瀬さんが自ら命を絶つなんて…」
「警察は自殺と断定したんですか?」
「そうみたいです。書斎は内側から鍵がかかっていて、窓も閉まっていたそうです。それに遺書もあったとか」
「遺書の内容は?」
吉岡は周囲を見回してから、小声で言った。「詳しくは分かりませんが、『もう限界だ』とか『すべてを終わらせる』といった内容だったと聞きました」
神崎は眉をひそめた。高瀬のような人物が、そんな遺書を残すだろうか。
「高瀬さんは最近、何か悩みを抱えているような様子はありましたか?」
吉岡は考え込むように目を伏せた。「実は…最近の高瀬さん、少し様子がおかしかったんです」
「おかしい?」
「はい。いつもは冷静で威厳のある方なのに、ここ数日は落ち着きがなくて。時々、誰もいないのに後ろを振り返ったりしていました。何かに怯えているような…」
その言葉に、神崎の興味が掻き立てられた。
「それはいつ頃からですか?」
「そうですね…一週間くらい前からでしょうか。ちょうど、佐伯さんの娘さんが久しぶりに住宅地を訪れると聞いた頃から」
「佐伯さんの娘?」
「ええ、佐伯瑞穂さんです。15年前に住宅地を離れて、遠方の親戚の家で暮らしていたんですが、最近になって戻ってくると聞いたんです」
神崎は「15年前」という言葉に反応した。何か関連があるのだろうか。
「佐伯さんの娘さんは、なぜ15年前に住宅地を離れたんですか?」
吉岡は少し躊躇した後、答えた。「あまり詳しくは知らないんですが…事件があったんです。瑞穂ちゃんが行方不明になって、数日後に見つかったんですが、その後すぐに住宅地を離れることになったと」
神崎の中で何かが繋がり始めた。15年前の事件と高瀬の死。そこには何か関連があるのではないか。
「その事件について、もっと詳しく知りたいんですが」
吉岡は申し訳なさそうに首を振った。「すみません、私もその頃はまだここに住んでいなかったので。詳しいことは江藤さんなら知っているかもしれません。あの方はこの住宅地の最古参ですから」
「江藤さん…昨日少し話をしました。今日また会えるといいんですが」
「朝の散歩をされる習慣があるので、公園で見かけるかもしれませんよ」
神崎は吉岡に礼を言い、公園へと向かった。
公園は住宅地の中心に位置し、美しく手入れされた芝生と花壇がある。ベンチに座っている江藤雄一の姿を見つけた神崎は、彼に近づいた。
「江藤さん、おはようございます」
江藤は顔を上げ、神崎を見て微かに笑った。「ああ、神崎さん。昨日は大変でしたね」
「ええ」神崎はベンチに腰掛けた。「高瀬さんの死について、皆さんショックを受けているようです」
「当然でしょう。彼は長年この住宅地を率いてきた人物ですから」江藤の声には、悲しみよりも諦めのような感情が混じっていた。
「江藤さんは高瀬さんとは長いお付き合いだったんですか?」
「ええ、彼がこの住宅地に来た時からの付き合いです。20年以上になりますかね」
「最近、高瀬さんに何か変化はありましたか?」
江藤は神崎をじっと見つめた。「刑事のような質問ですね」
「元刑事の習性が抜けないもので」神崎は軽く笑った。「単なる好奇心です」
江藤は周囲を見回してから、小声で言った。「実は、高瀬は最近、過去の亡霊に悩まされていたようです」
「過去の亡霊?」
「15年前の事件です。佐伯家の娘さんが失踪した事件」
神崎は身を乗り出した。「その事件について、詳しく教えていただけませんか?」
江藤は深く息を吐いた。「15年前の夏の終わり、佐伯瑞穂ちゃんが森で遊んでいて行方不明になったんです。住宅地中が大騒ぎになり、警察も出動しました。3日後、瑞穂ちゃんは住宅地から数キロ離れた場所で発見されました」
「何があったんですか?」
「それが分からないんです。瑞穂ちゃんは何も語ろうとしませんでした。医師の診断では身体的な虐待の形跡はなかったものの、何らかの精神的ショックを受けた可能性があるとのことでした」
「警察の捜査は?」
「決定的な証拠が見つからず、結局『道に迷った』という形で処理されました。しかし…」江藤は言葉を切った。
「しかし?」
江藤は声を落とした。「住宅地内では、別の噂が流れていました。瑞穂ちゃんは何かを見てしまった。見てはいけないものを」
「何を見たというんですか?」
「それは誰も知りません。ただ、事件後、佐伯家は急いで瑞穂ちゃんを遠方の親戚に預け、美咲さんだけがここに残りました」
「不自然ですね」
「ええ。そして最近、瑞穂さんが戻ってくると聞いて、高瀬は落ち着かなくなったんです」
神崎は考え込んだ。15年前の事件と高瀬の死には、確かに何らかの関連がありそうだ。
「江藤さん、あの森について教えてください。なぜ立入禁止になっているんですか?」
江藤の表情が硬くなった。「安全上の理由です。それ以上は…」
「本当の理由を知りたいんです」
江藤は長い間黙っていたが、やがて静かに言った。「あの森で、瑞穂ちゃんは何かを見たんです。そして、それが原因で立入禁止になった」
「何を見たんですか?」
「私にも分かりません。ただ…」江藤は言葉を選ぶように慎重に話した。「高瀬は森に関する決定に深く関わっていました。そして、瑞穂さんが戻ってくると聞いて、彼は恐れていたんです」
神崎は江藤の言葉を咀嚼した。高瀬は何を恐れていたのか。15年前の事件の真相が明らかになることを?
「江藤さん、もう一つ質問があります。高瀬さんと他の住民、特に佐伯さん、村上さん、西野さんとの関係はどうだったんですか?」
江藤は少し考えてから答えた。「表面上は良好でした。しかし…」
「しかし?」
「佐伯さんは娘の件で高瀬を恨んでいたと思います。事件の捜査が不十分だったと。村上さんは高瀬の推薦でここに来たのですが、二人の間には何か確執があったようです。西野さんは最近来たばかりで詳しくは分かりませんが、住宅地の規則を巡って高瀬と対立していたと聞きます」
神崎はそれぞれの情報を頭に入れた。どの住民も高瀬との間に何らかの問題を抱えていたようだ。
「ありがとうございます、江藤さん。貴重な情報です」
江藤は神崎をじっと見つめた。「神崎さん、あなたは単なる好奇心でこんな質問をしているわけではないでしょう」
神崎は正直に答えた。「高瀬さんの死に違和感を覚えています。元刑事として、真相を知りたいんです」
「危険な道かもしれませんよ」江藤は警告するように言った。「この住宅地には、表面下に隠された多くの秘密があります」
「それでも調べるつもりです」
江藤はため息をついた。「気をつけてください。そして…何か分かったら、私にも教えてください。私も長年、この住宅地の真実を知りたいと思っていましたから」
神崎は頷き、江藤と別れた。
次に神崎が向かったのは、高瀬家だった。警察のテープが張られているが、現場検証は一段落したようだ。家の前には高瀬の妻・美代子が立っていた。60歳前後の上品な女性で、悲しみに打ちひしがれているように見えた。
神崎は彼女に近づいた。「高瀬夫人、神崎と申します。昨日引っ越してきたばかりで…ご主人の件、心よりお悔やみ申し上げます」
美代子は神崎を見上げ、かすかに頭を下げた。「ありがとうございます」
「お話を伺ってもよろしいでしょうか」
美代子は少し躊躇したが、やがて頷いた。「どうぞ、中へ」
神崎は高瀬家に招き入れられた。リビングは広く、高級感のある家具で統一されている。壁には高瀬夫妻の写真が飾られていた。
「お茶をお出ししましょうか」美代子が言った。
「ありがとうございます」
美代子がキッチンに立つ間、神崎はリビングを観察した。整然としていて、乱れた様子はない。高瀬の人柄を表すように、全てが完璧に整えられていた。
美代子がお茶を持って戻ってきた。「どのようなご用件でしょうか」
「実は、私は元刑事なんです」神崎は正直に言った。「ご主人の死に疑問を感じていて…」
美代子の表情が変わった。「警察は自殺だと言っています」
「はい、そうですね。しかし、ご主人はそのような方には見えなかったので」
美代子は長い間黙っていたが、やがて静かに言った。「私も信じられないんです。主人が自ら命を絶つなんて…」
「最近、ご主人に何か変化はありましたか?」
美代子は紅茶を見つめながら答えた。「ここ一週間ほど、落ち着きがなくなっていました。夜も眠れず、何かに怯えているようでした」
「何か心配事でも?」
「主人は何も話してくれませんでした。ただ…」
「ただ?」
「佐伯さんの娘さんが戻ってくると聞いてから、様子が変わったんです」
神崎は再び「佐伯の娘」という言葉を聞いた。確かに何か関連がありそうだ。
「ご主人は書斎で…」神崎は言葉を選びながら言った。
美代子は頷いた。「昨日の朝、いつものように主人を起こそうとしたのですが、返事がなかったんです。書斎に行くと…」彼女の声が震えた。「主人が天井から吊るされていて…」
「お辛いところ申し訳ありません」神崎は謝った。「書斎は内側から鍵がかかっていたそうですね」
「はい。私は外から鍵穴を覗いて主人を見つけ、すぐに警察に電話しました」
「遺書は?」
「机の上にありました。主人の筆跡でした」
「内容は?」
美代子は躊躇したが、答えた。「『もう限界だ。すべてを終わらせる。15年前の罪を背負いきれない』と書かれていました」
神崎は「15年前の罪」という言葉に反応した。やはり15年前の事件と関連がある。
「ご主人は15年前、何か罪を犯したのでしょうか?」
美代子は顔を上げ、神崎をじっと見た。「主人は完璧な人でした。住民からも尊敬されていました。罪などあるはずがありません」
その言葉には強い確信があったが、どこか空虚にも聞こえた。
「最後にもう一つ。ご主人の書斎を見せていただけませんか?」
美代子は躊躇したが、やがて立ち上がった。「警察は調査を終えたと言っていましたが…」
彼女は神崎を二階へと案内した。廊下の突き当たりに書斎があった。ドアは閉まっている。
「鍵は?」神崎が尋ねた。
「警察が持っていきました。でも、予備があります」
美代子は引き出しから鍵を取り出し、ドアを開けた。
書斎は広く、壁一面が本棚になっている。大きな机があり、その上には書類が整然と並べられていた。天井には梁が露出しており、そこから高瀬が吊られていたのだろう。
神崎は部屋を観察した。窓は閉まっており、内側から鍵がかかっている。外部からの侵入は不可能に見える。
「ご主人は何か特別な書類や、隠し場所などありましたか?」
美代子は首を振った。「主人は几帳面で、全てを整理していました。隠し事はなかったと思います」
神崎は机の引き出しや本棚を見たが、特に不審な点は見つからなかった。しかし、書斎全体から感じる違和感は消えなかった。
「ありがとうございました」神崎は美代子に礼を言った。「お時間をいただき、申し訳ありませんでした」
美代子は神崎を玄関まで送った。「神崎さん、もし…もし主人の死が自殺ではないとしたら…」
神崎は振り返った。美代子の目には涙が浮かんでいた。
「真相を知りたいですか?」神崎が尋ねた。
美代子は長い間黙っていたが、やがて小さく頷いた。「はい。たとえそれが辛い真実だとしても」
神崎は頷き、高瀬家を後にした。
その日の午後、神崎は集めた情報を整理した。高瀬正志の死、15年前の少女失踪事件、佐伯瑞穂の帰還、住民たちの複雑な関係。これらは全て繋がっているように思えた。
しかし、まだ多くの謎が残されている。高瀬は本当に自殺したのか。もし他殺なら、誰がどのように殺害したのか。15年前の事件で瑞穂は何を見たのか。高瀬の言う「罪」とは何なのか。
神崎は決意を新たにした。この謎を解き明かすために、さらに調査を進めよう。
窓の外では、夕暮れが近づいていた。青葉台ガーデンヒルズに、再び長い影が落ち始めていた。
■第4章:「過去の影」
翌日の朝、神崎は早くに目を覚ました。昨日集めた情報が頭の中で整理されていく。
15年前の少女失踪事件と高瀬の死。そこには確かに何らかの関連がある。そして、佐伯瑞穂の帰還が高瀬の不安を引き起こしたという事実。
神崎は朝食を取りながら、次の行動を考えた。佐伯美咲に会って話を聞く必要がある。そして可能であれば、佐伯瑞穂本人にも。
食事を終えた神崎は、佐伯家を訪ねることにした。住宅地の地図を確認し、昨日高瀬が指し示した家へと向かった。
佐伯家は洋風の二階建てで、庭には美しい花が咲き誇っていた。フラワーアレンジメントの教室を開いているだけあって、庭の手入れは行き届いている。
神崎がチャイムを鳴らすと、しばらくして佐伯美咲が出てきた。昨日広場で会った時よりも疲れた表情をしていた。
「神崎さん」美咲は少し驚いた様子で言った。「どうなさいました?」
「お話を伺いたいことがあって」神崎は丁寧に言った。「お時間よろしいでしょうか」
美咲は少し躊躇したが、やがて頷いた。「どうぞ、中へ」
神崎は佐伯家に招き入れられた。リビングは明るく、花の香りが漂っていた。壁には花のアレンジメントの写真が飾られている。しかし、家族の写真は少なかった。
「お茶をお出ししましょうか」美咲が言った。
「ありがとうございます」
美咲がキッチンに立つ間、神崎はリビングを観察した。棚の上に一枚の写真が置かれていた。10歳くらいの少女と美咲が写っている。おそらく瑞穂だろう。しかし、それ以降の写真は見当たらなかった。
美咲がお茶を持って戻ってきた。「何のご用件でしょうか」
「実は、高瀬さんの死について調べているんです」神崎は率直に言った。「元刑事として、いくつか疑問に思うことがあって」
美咲の表情が硬くなった。「警察は自殺だと言っています」
「はい。しかし、いくつか不自然な点があるように思えて」
美咲は紅茶を見つめながら言った。「私にどんなお話ができるでしょうか」
「高瀬さんとの関係について教えていただけますか」
美咲は少し考えてから答えた。「住民会長として尊敬していました。この住宅地の秩序を守るために尽力された方です」
その言葉は模範的だったが、どこか感情が欠けているように感じられた。
「15年前の事件について、お聞きしてもよろしいでしょうか」神崎は慎重に言った。
美咲の手が震えた。紅茶がわずかにこぼれる。
「どうして…そのことを」
「江藤さんから少し聞きました。お嬢さんが行方不明になり、3日後に見つかったと」
美咲は長い間黙っていたが、やがて静かに話し始めた。
「あの日、瑞穂は友達と森で遊んでいました。夕方になっても帰ってこないので探しに行くと、友達は既に帰っていて、瑞穂だけが見つからなかったんです」
美咲の声は感情を抑えているようだった。
「住宅地中が大騒ぎになり、警察も出動しました。3日後、瑞穂は住宅地から数キロ離れた場所で発見されました。体に目立った外傷はなく、意識もありました。しかし…」
「しかし?」
「瑞穂は何も語ろうとしませんでした。どこにいたのか、何があったのか、一切口を開かなかったんです」
「警察の捜査は?」
「決定的な証拠が見つからず、『道に迷った』という形で処理されました」美咲の声には怒りが混じっていた。「私は納得していませんでした。瑞穂の様子があまりにも変わってしまったから」
「どう変わったんですか?」
「明るく活発だった子が、急に内向的になり、夜も眠れなくなりました。特に森を怖がるようになって…」
「それで遠方に預けることにしたんですか?」
美咲は頷いた。「瑞穂を守るためでした。この住宅地にいては、彼女は回復しないと思ったんです」
「高瀬さんはその事件にどう関わっていたんですか?」
美咲の表情が変わった。「高瀬さんは捜索の指揮を執っていました。そして…」彼女は言葉を切った。
「そして?」
「事件を『道に迷った』という形で処理するよう、警察に働きかけたのも高瀬さんでした」
「なぜですか?」
「住宅地の評判を守るためだと言っていました。『犯罪があったとなれば、住宅地の価値が下がる』と」
神崎は眉をひそめた。「それだけの理由でしょうか?」
美咲は神崎をじっと見つめた。「あなたは何を知りたいんですか?」
「真実です」神崎は率直に答えた。「高瀬さんの死と15年前の事件には、何か関連があるように思えて」
美咲は長い間黙っていたが、やがて決意したように話し始めた。
「瑞穂は森で何かを見たんです。何かを見てしまったから、危険な状態になった。だから私は彼女を遠ざけたんです」
「何を見たんですか?」
「それは瑞穂しか知りません。彼女は私にも話そうとしませんでした。ただ、時々夢の中で『あの人たち』と叫ぶことがありました」
「あの人たち?」
「ええ。そして、『森の中の家』という言葉も」
神崎は「森の中の家」という言葉を記憶に留めた。立入禁止になっている森の中に、何かがあるのだろうか。
「お嬢さんは今、戻ってくると聞きましたが」
美咲は頷いた。「ええ、15年ぶりに。瑞穂は心理学を学び、今は研究者になっています。自分の過去と向き合うために戻ってくると言ったんです」
「高瀬さんはそのことを知っていましたか?」
「ええ。私が住民会に報告したとき、高瀬さんの顔色が変わりました。それから彼は落ち着きをなくし始めたんです」
「高瀬さんは何かを恐れていたんですね」
「そう思います」美咲は静かに言った。「瑞穂が戻ってくることで、15年前の真実が明らかになることを」
「お嬢さんはいつ戻ってくるんですか?」
「明日の予定です」
神崎は考え込んだ。佐伯瑞穂の帰還と高瀬の自殺。タイミングとしては不自然ではない。しかし、それが本当に自殺だったのか、それとも誰かが高瀬を殺害したのか。
「美咲さん、もう一つ質問があります。高瀬さんの死の前日、あなたはどこにいましたか?」
美咲は驚いたように神崎を見た。「私を疑っているんですか?」
「単なる確認です」
美咲は少し考えてから答えた。「東京のホテルでチャリティーイベントに参加していました。夜遅くまでかかり、そのままホテルに宿泊しました」
「証人は?」
「イベントの参加者全員です。それに、ホテルのフロントにもチェックインの記録があるはずです」
神崎は頷いた。美咲のアリバイは確かなようだ。
「ありがとうございました。貴重なお話を聞かせていただき」
神崎が立ち上がると、美咲も立ち上がった。
「神崎さん」美咲は真剣な表情で言った。「もし高瀬さんの死が自殺ではないとしたら…真相を知りたいです。15年前の事件も含めて」
「分かりました」神崎は頷いた。「調査を続けます」
神崎が佐伯家を出ると、向かいの家から村上健太が出てきた。彼は神崎を見ると、少し驚いたような表情をした。
「神崎さん、こんにちは」村上は笑顔で近づいてきた。「佐伯さんのところに?」
「ええ、少しお話を」
「高瀬さんの件で?」
神崎は村上の鋭い観察力に少し驚いた。「ええ、まあ」
「気になりますよね。あんな立派な方が突然自殺するなんて」村上は言った。「私も信じられなくて」
「村上さんは高瀬さんとは親しかったんですか?」
「ええ、彼の推薦でこの住宅地に来たんです。以前は同じ会社で働いていましたから」
「そうだったんですか」
「ええ、まあ…」村上は少し言葉を濁した。「複雑な関係ではありましたが」
「複雑?」
村上は周囲を見回してから、小声で言った。「実は、高瀬さんのせいで私は出世の道を絶たれたんです。彼の推薦で住宅地に来たのは、一種の償いだったのかもしれません」
「恨みはあったんですか?」
村上は笑った。「昔のことです。今は感謝していました。この素晴らしい住宅地に住めるようになったのですから」
その言葉には皮肉が混じっているようにも聞こえた。
「村上さん、高瀬さんの死の前日、あなたはどこにいましたか?」
村上は驚いたように神崎を見た。「なぜそんなことを?」
「単なる好奇心です」
村上は少し考えてから答えた。「自宅にいました。妻と一緒に」
「一晩中?」
「ええ。夕食を食べて、映画を見て、それから寝ました」
「奥さん以外に、証人はいますか?」
村上は眉をひそめた。「いませんね。なぜそんなことを聞くんです?」
「何となく」神崎は軽く言った。「ありがとうございました」
神崎が立ち去ろうとすると、村上が呼び止めた。
「神崎さん、あなたは元刑事だそうですね」
神崎は振り返った。「ええ、そうです」
「高瀬さんの死を調査しているんですか?」
「単なる好奇心です」
村上は微笑んだ。「気をつけてください。好奇心は時に危険を招きますよ」
その言葉は警告のようにも、脅しのようにも聞こえた。
神崎は頷き、その場を後にした。
次に神崎が向かったのは、西野達也の家だった。IT企業の経営者という西野は、住宅地の中でも最も新しい住民の一人だ。
西野の家は現代的なデザインで、他の家とは少し異なる雰囲気を持っていた。チャイムを鳴らすと、しばらくして西野が出てきた。
「神崎さん」西野は少し驚いた様子で言った。「どうしました?」
「少しお話を伺いたくて」
西野は躊躇したが、やがて神崎を中に招き入れた。
西野の家の内部は、最新のテクノロジーで満たされていた。スマートホームシステムが導入され、声一つで家電を操作できるようだ。
「何のご用件ですか?」西野は神崎をリビングに案内しながら尋ねた。
「高瀬さんの件について、少しお聞きしたいことがあって」
西野の表情が硬くなった。「警察は自殺だと言っています」
「ええ、そうですね。しかし、高瀬さんとの関係について教えていただけますか」
西野は少し考えてから答えた。「特別な関係はありませんでした。住民会長として敬意を払っていましたが、それ以上でも以下でもありません」
その言葉は淡々としていたが、どこか緊張感が感じられた。
「住宅地の規則を巡って対立があったと聞きましたが」
西野は少し驚いたように神崎を見た。「誰から聞いたんですか?」
「噂です」
西野はため息をついた。「確かに、いくつかの点で意見の相違がありました。私はIT企業を経営しているので、自宅でサーバーを運用したいと思っていたんです。しかし、高瀬さんは住宅地の電力使用規定を理由に反対していました」
「深刻な対立だったんですか?」
「いいえ、単なる意見の相違です」西野は言った。「私は規則を尊重していました」
神崎は西野の言葉を信じきれなかった。何か隠しているように感じられた。
「西野さん、高瀬さんの死の前日、あなたはどこにいましたか?」
西野は眉をひそめた。「なぜそんなことを?」
「単なる確認です」
西野は少し考えてから答えた。「海外出張中でした。シンガポールです」
「いつ戻ってきたんですか?」
「高瀬さんの死の知らせを聞いた後です。急いで帰国しました」
「証拠はありますか?航空券や宿泊記録など」
西野は立ち上がり、書類を取りに行った。戻ってくると、スマートフォンを神崎に見せた。
「これが航空券と宿泊記録です」
神崎はそれを確認した。確かに、高瀬の死の前日、西野はシンガポールにいたことになっている。完璧なアリバイだ。
「ありがとうございます」
「他に何か?」西野の声には少し苛立ちが混じっていた。
「15年前の少女失踪事件について、何か知っていますか?」
西野は首を振った。「私がここに来たのは2年前です。その事件については詳しくありません」
「分かりました。お時間をいただき、ありがとうございました」
神崎が立ち去ろうとすると、西野が言った。「神崎さん、あなたは何を調べているんですか?」
「単なる好奇心です」
「高瀬さんの死は自殺です。それ以上詮索する必要はないでしょう」
その言葉には警告の意味が込められているように感じられた。
神崎は西野の家を後にした。
その日の午後、神崎は集めた情報を整理した。
佐伯美咲、村上健太、西野達也。三人とも高瀬との間に何らかの確執があった。しかし、美咲と西野には完璧なアリバイがある。村上のアリバイは妻の証言だけで、やや弱い。
そして、15年前の事件。佐伯瑞穂が森で何かを見た。「あの人たち」と「森の中の家」。これらの言葉が意味するものは何か。
神崎は立入禁止になっている森について調べる必要があると感じた。そこに何かがあるのではないか。
夕方、神崎は吉岡春香の家を訪ねた。彼女なら、住宅地の内情についてもっと情報を持っているかもしれない。
吉岡の家のチャイムを鳴らすと、すぐに彼女が出てきた。
「神崎さん、いらっしゃい」吉岡は笑顔で迎えた。「お茶でもいかがですか?」
「ありがとうございます」
神崎は吉岡の家に招き入れられた。小さいながらも居心地の良い家だった。
「調査は進んでいますか?」吉岡が尋ねた。
神崎は少し驚いた。「どうして?」
「あなたが高瀬さんの死を調べていることは、住宅地中で噂になっていますよ」吉岡は微笑んだ。「小さな住宅地ですから、噂はすぐに広まります」
「そうですか」神崎は苦笑した。「実は、いくつか質問があって来ました」
「何でも聞いてください」
「森について教えてください。なぜ立入禁止になっているんですか?」
吉岡は少し考えてから答えた。「公式には安全上の理由です。しかし、本当の理由は15年前の事件だと思います」
「森の中に何かあるんですか?」
「噂では、森の奥に古い小屋があるそうです。しかし、誰も近づいたことがないので、確かなことは分かりません」
「森の中の家…」神崎は呟いた。
「何ですか?」
「いえ、佐伯さんから聞いた言葉です。お嬢さんが夢の中で『森の中の家』と言っていたそうで」
吉岡は驚いたように神崎を見た。「そうだったんですか…」
「吉岡さん、あなたは事件当時はまだここにいなかったんですよね?」
「ええ、私が引っ越してきたのは10年前です。事件の5年後ですね」
「住民から何か聞いたことはありますか?」
吉岡は少し躊躇したが、やがて話し始めた。「江藤さんが少し話してくれたことがあります。瑞穂ちゃんが失踪した後、高瀬さんは森の立入を禁止し、何かを隠すように指示したそうです」
「何を隠したんでしょう?」
「それは分かりません。ただ、江藤さんは『高瀬は何かを恐れていた』と言っていました」
神崎は考え込んだ。高瀬は15年前から何かを隠し続けていたのかもしれない。そして、瑞穂の帰還によって、その秘密が明らかになることを恐れていた。
「吉岡さん、森に入る方法はありますか?」
吉岡は驚いた。「入るつもりなんですか?危険ですよ」
「真相を知るためには必要かもしれません」
吉岡は長い間考えていたが、やがて小さな声で言った。「管理事務所に森の鍵があります。井上さんなら貸してくれるかもしれません」
「ありがとうございます」
神崎が立ち上がると、吉岡が言った。「気をつけてください。この住宅地には多くの秘密があります。そして、それを守ろうとする人たちも」
神崎は頷き、吉岡の家を後にした。
夜、神崎は自宅の書斎で今日集めた情報を整理した。
15年前の事件、森の中の家、高瀬の恐れていたもの。これらは全て繋がっているように思える。そして明日、佐伯瑞穂が戻ってくる。彼女は15年前の真相を知っているのだろうか。
神崎は決意した。明日、森に入ってみよう。そして、佐伯瑞穂にも会って話を聞こう。
窓の外では、月明かりが青葉台ガーデンヒルズを照らしていた。その光の中に、15年前の秘密が隠されているようだった。
■第5章:「隠された真実」
朝の光が窓から差し込み、神崎を目覚めさせた。
今日は佐伯瑞穂が青葉台ガーデンヒルズに戻ってくる日だ。そして、神崎は森に入り、「森の中の家」を探すつもりでいた。
朝食を済ませた神崎は、管理事務所に向かった。井上から森の鍵を借りるためだ。
管理事務所に入ると、井上が書類を整理していた。神崎が入ってきたのを見て、彼女は顔を上げた。
「神崎さん、おはようございます。何かご用件ですか?」
「おはようございます」神崎は微笑んだ。「実は、森に入りたいと思っているんです」
井上の表情が変わった。「森ですか?あそこは立入禁止になっています」
「研究のためなんです」神崎は嘘をついた。「次の小説の舞台にしようと思っていて、実際に見ておきたくて」
井上は躊躇した。「それでも、規則では…」
「吉岡さんから聞いたんですが、鍵はここにあるそうですね」
井上は長い間考えていたが、やがて小さく頷いた。「確かに鍵はありますが…高瀬会長がいなくなって、誰に許可を取ればいいのか…」
「新しい会長が決まるまでの間、一時的に貸していただけませんか?」神崎は穏やかに言った。「もちろん、責任は私が取ります」
井上はさらに躊躇したが、最終的には引き出しから鍵を取り出した。
「これが森のゲートの鍵です。でも、日が暮れる前に必ず戻してください。そして、誰にも言わないでください」
「ありがとうございます」神崎は鍵を受け取った。「必ず返します」
神崎が管理事務所を出ると、向こうから江藤雄一が歩いてきた。神崎を見ると、江藤は少し驚いたような表情をした。
「神崎さん、おはようございます」
「江藤さん、おはよう」
「管理事務所に何か用事が?」
「ええ、ちょっとした手続きで」神崎は曖昧に答えた。
江藤は神崎をじっと見つめた。「森に行くつもりですね」
神崎は驚いた。「どうして?」
「井上さんが鍵を出すのを窓から見ました」江藤は静かに言った。「危険ですよ」
「真相を知るためには必要なんです」
江藤は長い間黙っていたが、やがて小さく頷いた。「分かりました。でも、一人で行くのは危険です。私も一緒に行きましょう」
「本当ですか?」
「ええ。私も15年前の真相を知りたいんです。ずっと気になっていましたから」
神崎は考えた。江藤は住宅地の最古参住民で、15年前の事件についても知識がある。一緒に行くことで、より多くの情報が得られるかもしれない。
「分かりました。一緒に行きましょう」
二人は森の入り口に向かった。住宅地の端にある小さなゲートだ。周囲に人がいないことを確認してから、神崎は鍵を差し込んだ。
錆びついた鍵穴に鍵を回すと、ゲートが開いた。二人は森の中に足を踏み入れた。
森の中は薄暗く、空気が淀んでいた。長い間人が入っていないためか、道は草木に覆われ、歩きにくくなっている。
「どこに向かえばいいんでしょう?」神崎が尋ねた。
「森の奥です」江藤は答えた。「噂では、中央部に小屋があるとか」
二人は森の中を進んでいった。時折、鳥の鳴き声が聞こえるだけで、あとは静寂に包まれていた。
「江藤さん、15年前の事件について、もっと詳しく教えてください」神崎は歩きながら言った。
江藤は少し躊躇したが、話し始めた。
「あの日、佐伯瑞穂ちゃんが失踪したとき、住宅地中が大騒ぎになりました。高瀬は捜索の指揮を執り、警察も出動しました。しかし、高瀬は警察に対して『住宅地内だけを捜索してほしい』と強く要請していたんです」
「なぜですか?」
「当時は理解できませんでした。しかし今思えば、高瀬は瑞穂ちゃんが住宅地の外に出ていることを知っていたのかもしれません」
「どういうことですか?」
「瑞穂ちゃんが発見されたのは、住宅地から数キロ離れた場所です。しかし、彼女がどうやってそこまで行ったのかは誰も分かりませんでした。10歳の少女が一人で歩いて行けるような距離ではありません」
「誰かが連れて行った?」
「そう考えるのが自然です。しかし、誰が、なぜ?」
神崎は考え込んだ。「瑞穂さんは何かを見た。そして、それを見られないように、誰かが彼女を住宅地の外に連れ出した…」
「そう考えると筋が通ります」江藤は頷いた。「そして、高瀬はそのことを知っていた、あるいは関わっていた可能性があります」
二人は森の中をさらに進んでいった。やがて、木々が少し開けた場所に出た。そこには小さな小屋が建っていた。
「あれが…」江藤は声を詰まらせた。
小屋は古く、屋根の一部が崩れていた。長い間放置されていたようだ。
神崎は慎重に小屋に近づいた。ドアは閉まっているが、鍵はかかっていないようだ。
「中に入りましょう」神崎は言った。
江藤は少し躊躇したが、頷いた。
神崎がドアを開けると、埃と湿気の匂いが鼻をついた。中は薄暗く、わずかに窓から差し込む光だけが空間を照らしていた。
小屋の中は思ったより広く、テーブルと椅子、簡易ベッドが置かれていた。壁には古い写真が貼られている。
神崎は写真に近づいた。それは青葉台ガーデンヒルズの住民たちが写っているものだった。しかし、現在の住民ではなく、15年以上前の住民たちだ。
「これは…」神崎は写真をじっと見つめた。
写真の中央には若い頃の高瀬正志がいた。そして、その周りには見知らぬ顔ぶれ。しかし、一人だけ見覚えのある人物がいた。
「江藤さん、これは…」
江藤は写真を見て、顔色を変えた。「ああ、これは15年以上前の住民会の写真です。高瀬が会長になる前の…」
「この人は?」神崎は写真の端にいる男性を指さした。
江藤は長い間黙っていたが、やがて答えた。「村上健太です」
「村上さん?彼は高瀬さんの推薦で最近来たと言っていましたが…」
「嘘です」江藤は静かに言った。「村上は昔からこの住宅地にいました。しかし、ある事件の後、一度住宅地を離れ、数年前に戻ってきたんです」
「どんな事件ですか?」
江藤は答えようとしたが、その時、小屋の外から物音がした。
二人は息を潜めた。誰かが近づいてくる足音だ。
「隠れましょう」神崎は小声で言った。
二人はベッドの陰に身を隠した。ドアが開き、誰かが小屋に入ってきた。
足音から判断すると、一人のようだ。その人物は小屋の中を見回し、何かを探しているようだった。
神崎は慎重に顔を出して、その人物を見た。
それは村上健太だった。
村上は小屋の中を歩き回り、引き出しや棚の中を探っていた。何かを必死に探しているようだ。
「どこだ…どこにある…」村上は呟いていた。
やがて、村上は床の一部を見つめ、そこに近づいた。床板の一つを持ち上げると、その下に何かが隠されていた。
村上はそれを取り出した。小さな箱のようだ。
彼は箱を開け、中身を確認すると、安堵の表情を浮かべた。そして、箱をポケットに入れ、小屋を出ていった。
村上の足音が遠ざかるのを確認してから、神崎と江藤は隠れ場所から出た。
「何を持っていったんでしょう?」神崎は床板が外された場所に近づいた。
「分かりません」江藤は首を振った。「しかし、村上が必死に探していたものであることは確かです」
神崎は床下の空間を調べた。箱があった場所には、何も残っていなかった。しかし、その横に小さな紙切れが落ちていた。
神崎はそれを拾い上げた。それは古い写真の切れ端だった。写真には若い女性が写っていた。
「この女性は誰でしょう?」神崎は江藤に写真を見せた。
江藤は写真をじっと見つめ、顔色を変えた。「これは…村上の妻です。若い頃の」
「村上さんの奥さん?」
「ええ、しかし…」江藤は言葉を詰まらせた。「この写真が撮られたとき、彼女はまだ村上の妻ではありませんでした。彼女は…高瀬の恋人だったんです」
神崎は驚いた。「高瀬さんと村上さんの奥さんが…?」
「ええ、15年以上前の話です。二人は婚約までしていました。しかし、突然破局し、彼女は村上と結婚したんです」
「なぜ破局したんですか?」
「詳しくは分かりません。しかし、その頃から高瀬と村上の関係は悪化しました。そして、村上は住宅地を離れたんです」
神崎は考え込んだ。高瀬と村上の間には、単なる上司と部下の関係以上の確執があったようだ。そして、それは村上の妻を巡るものだった。
「村上さんが持っていった箱には、何が入っていたんでしょう?」
「分かりません」江藤は首を振った。「しかし、彼がそれを必死に探していたということは、重要なものであることは間違いありません」
神崎は小屋の中をさらに調べた。テーブルの引き出しには古い書類が入っていた。それは住宅地の土地の権利書のようなものだった。
「これは…」神崎は書類に目を通した。「青葉台ガーデンヒルズの一部の土地が、高瀬さんの個人名義になっています」
「そうです」江藤は頷いた。「高瀬は住宅地の一部を個人で所有していました。特にこの森の部分を」
「なぜですか?」
「それは分かりません。しかし、高瀬はこの森に特別な関心を持っていました。そして、15年前の事件の後、立入禁止にしたんです」
神崎はさらに書類を調べた。その中に、15年前の日付が記された契約書があった。それは高瀬と村上の間で交わされたもののようだ。
「これは…村上さんが住宅地を離れる際の契約書?」神崎は書類を読んだ。「村上さんは高瀬さんから多額の金銭を受け取り、住宅地を離れることに同意している…」
「そうだったんですか」江藤は驚いた様子で言った。「高瀬が村上を追い出したんですね」
「しかし、なぜ数年前に戻ってきたんでしょう?そして、高瀬さんはなぜそれを許したのか?」
二人は小屋の中をさらに調べたが、それ以上の手がかりは見つからなかった。
「もう戻りましょう」江藤は言った。「長時間ここにいると、誰かに気づかれるかもしれません」
神崎は頷き、最後にもう一度小屋の中を見回した。何か見落としているものはないか。
その時、神崎の目に小さな落書きが入った。壁の隅に、子供の字で何かが書かれていた。
「これは…」神崎は近づいて読んだ。「『たすけて』…」
「子供の字ですね」江藤も近づいて見た。「まさか…」
「瑞穂さんが書いたものかもしれません」神崎は言った。「彼女がここに連れてこられ、何かを見て、そして…」
二人は小屋を出て、森を通って住宅地に戻った。帰り道、二人は黙っていた。それぞれが自分の考えに沈んでいた。
管理事務所に鍵を返した後、神崎は江藤と別れた。
「江藤さん、今日はありがとうございました」
「いいえ」江藤は首を振った。「私も真相を知りたかったんです。しかし、まだ多くの謎が残されています」
「ええ、これからも調査を続けます」
「気をつけてください」江藤は真剣な表情で言った。「村上が箱を持ち去ったということは、彼も何かを隠しているということです。そして、それは彼にとって非常に重要なものなのでしょう」
神崎は頷き、江藤と別れた。
その日の午後、神崎は自宅で集めた情報を整理していた。高瀬と村上の確執、森の中の小屋、15年前の事件。これらは全て繋がっているようだが、まだ全体像が見えない。
そこへ、玄関のチャイムが鳴った。
神崎がドアを開けると、そこには見知らぬ若い女性が立っていた。25歳くらいだろうか。長い黒髪と知的な雰囲気を持つ女性だ。
「神崎陽一さんですか?」女性は静かな声で尋ねた。
「はい、そうですが」
「初めまして。佐伯瑞穂と申します」
神崎は驚いた。目の前にいるのは、15年前に失踪し、そして今日戻ってくるはずだった佐伯瑞穂だった。
「佐伯さん…」神崎は言葉を失った。
「お話があります」瑞穂は真剣な表情で言った。「高瀬正志の死について」
神崎は瑞穂を家の中に招き入れた。彼女は落ち着いた様子でリビングに座った。
「どうして私を訪ねてきたんですか?」神崎が尋ねた。
「あなたが高瀬の死を調査していると聞きました」瑞穂は答えた。「母から聞いたんです」
「そうですか」神崎は頷いた。「何か知っていることがあるんですか?」
瑞穂は長い間黙っていたが、やがて静かに話し始めた。
「15年前、私はこの森で遊んでいて、迷子になりました。そして、小屋を見つけたんです」
「森の中の小屋ですね」
瑞穂は少し驚いたように神崎を見た。「ご存知なんですか?」
「今日、江藤さんと一緒に森に入り、小屋を見つけました」
瑞穂は頷いた。「その小屋で、私は何かを見てしまったんです」
「何を見たんですか?」
瑞穂は深く息を吐いた。「高瀬と村上が激しく口論していました。そして…」彼女は言葉を詰まらせた。
「そして?」
「村上が高瀬を殴り、高瀬が倒れたんです。その時、高瀬の頭から血が…」
神崎は息を呑んだ。「村上さんが高瀬さんを殺したと?」
「いいえ」瑞穂は首を振った。「高瀬は死んでいませんでした。気を失っただけです。しかし、私が見ていることに村上が気づき、私を捕まえたんです」
「それで、あなたは3日間行方不明に…」
「はい。村上は私を車に乗せ、住宅地から連れ出しました。彼の別荘のような場所に閉じ込められていました」
「なぜ警察に話さなかったんですか?」
「村上に脅されたんです。『もし話せば、母親に危害が及ぶ』と」瑞穂の声は震えていた。「10歳の私には、それが本当の脅しに聞こえました」
「それで、遠方に預けられることになったんですね」
「はい。母は私を守るために、親戚の家に送ったんです」
神崎は考え込んだ。「しかし、なぜ今戻ってきたんですか?」
瑞穂は真剣な表情で答えた。「高瀬から連絡があったんです。一週間前に」
「高瀬さんから?」
「はい。彼は『真実を話す時が来た』と言っていました。そして、私に青葉台に戻ってくるよう頼んだんです」
「それで戻ってきた…」
「ええ。しかし、戻る前に高瀬は死んでしまった」瑞穂の目に涙が浮かんだ。「彼は本当に自殺したのでしょうか?」
神崎は首を振った。「私はそうは思いません。高瀬さんの死には不自然な点が多すぎます」
「私もそう思います」瑞穂は頷いた。「高瀬は何か重要なことを話そうとしていました。そして、それを誰かが阻止したのではないかと」
「村上さんですか?」
「分かりません」瑞穂は首を振った。「しかし、15年前の事件と何か関係があるはずです」
神崎は瑞穂の話を整理した。15年前、瑞穂は高瀬と村上の口論を目撃し、村上に連れ去られた。そして今、高瀬は「真実を話す」と言って瑞穂を呼び戻したが、その前に死んでしまった。
「瑞穂さん、高瀬さんは何を話そうとしていたと思いますか?」
瑞穂は少し考えてから答えた。「分かりません。しかし、彼は『罪を償う時が来た』とも言っていました」
「罪…」神崎は呟いた。「遺書にも『15年前の罪を背負いきれない』と書かれていました」
「そうだったんですか…」瑞穂は驚いた様子で言った。「高瀬は何か罪を犯したのでしょうか?」
「それが謎です」神崎は言った。「しかし、今日森で見つけたものが手がかりになるかもしれません」
神崎は村上が持ち去った箱のこと、小屋で見つけた契約書のこと、そして壁に書かれていた「たすけて」の文字について瑞穂に話した。
「その文字…私が書いたものかもしれません」瑞穂は言った。「記憶は曖昧ですが、小屋にいた時、何かを書いた気がします」
「村上さんはあなたを脅した後、どうしたんですか?」
「3日後、私を住宅地から離れた場所に置き去りにしました。そこで警察に発見されたんです」
「村上さんは何を恐れていたんでしょう?あなたが見たのは単なる口論で、高瀬さんは死んでいなかったのに」
瑞穂は考え込んだ。「分かりません。しかし、二人の口論は激しく、何か重大なことについて争っていたようでした」
「何についての口論だったか、覚えていますか?」
瑞穂は首を振った。「断片的にしか覚えていません。『約束を守れ』とか『もう限界だ』とか…」
神崎は考え込んだ。高瀬と村上の間には、何か重大な秘密があったようだ。そして、それは15年前から続いていた。
「瑞穂さん、これからどうするつもりですか?」
「真相を知りたいです」瑞穂は決意を込めて言った。「15年間、私はこの事件のトラウマを抱えてきました。心理学を学んだのも、自分自身を癒すためでした。しかし、完全に癒されるためには、真実を知る必要があります」
「私も真相を突き止めるつもりです」神崎は言った。「協力してくれますか?」
瑞穂は頷いた。「はい、喜んで」
その時、外から車の音が聞こえた。神崎は窓から外を見た。
警察の車が停まり、田中刑事が降りてきた。
「警察が…」神崎は呟いた。
「何かあったんでしょうか?」瑞穂は不安そうに尋ねた。
「分かりません。しかし、田中刑事が来たということは、何か進展があったのかもしれません」
チャイムが鳴り、神崎はドアを開けた。
「神崎」田中刑事は厳しい表情で言った。「話がある」
「どうぞ」神崎は田中を中に招き入れた。
田中は瑞穂を見て、少し驚いた様子を見せた。「佐伯瑞穂さんですね」
「はい」瑞穂は頷いた。「どうして私を?」
「あなたのことは調べています」田中は言った。「15年前の事件の関係者ですから」
「何か進展があったんですか?」神崎が尋ねた。
田中は神崎を見つめ、重い口調で言った。「高瀬正志の死因について、新たな証拠が見つかった」
「どんな証拠ですか?」
「検視の結果、高瀬の体内から睡眠薬が検出された。そして、首の絞痕にも不自然な点があった」
「つまり…」
「自殺ではない」田中は言い切った。「高瀬正志は他殺だ」
神崎と瑞穂は顔を見合わせた。二人の予想は正しかった。高瀬は殺されたのだ。
「容疑者は?」神崎が尋ねた。
「まだ特定できていない」田中は答えた。「しかし、いくつかの手がかりはある。そして、その一つが15年前の事件だ」
「私に何か聞きたいことがあるんですか?」瑞穂が尋ねた。
「ええ」田中は頷いた。「15年前、あなたが見たものについて、詳しく聞かせてほしい」
瑞穂は神崎を見た。神崎は小さく頷き、瑞穂を励ました。
瑞穂は深く息を吐き、15年前の記憶を語り始めた。高瀬と村上の口論、村上による連れ去り、3日間の監禁。全てを包み隠さず話した。
田中は黙って聞き、時折メモを取っていた。
「なぜ今まで話さなかったんだ?」田中は尋ねた。
「恐怖です」瑞穂は正直に答えた。「村上に脅されていましたし、母を守りたかった。そして、時間が経つにつれ、話すタイミングを失ってしまったんです」
田中は頷いた。「分かった。君の証言は重要だ。正式に警察署で話を聞かせてほしい」
「はい」瑞穂は頷いた。
「神崎」田中は神崎を見た。「君も何か知っていることがあるだろう」
神崎は今日森で見つけたことを田中に話した。小屋のこと、村上が持ち去った箱のこと、契約書のこと。
田中は真剣に聞き、時折頷いていた。
「君たちは危険なことをしている」田中は警告した。「もし村上が犯人なら、君たちも危険だ」
「分かっています」神崎は言った。「しかし、真相を知りたい」
「私も」瑞穂も頷いた。
田中はため息をついた。「分かった。しかし、これからは警察と協力してくれ。単独行動は危険だ」
二人は頷いた。
「村上は今、どこにいる?」田中が尋ねた。
「分かりません」神崎は答えた。「今日の午前中、森の小屋で見かけましたが、その後は…」
「捜査チームに連絡する」田中は立ち上がった。「村上を尋問する必要がある」
田中が去った後、神崎と瑞穂は静かに座っていた。
「これからどうなるんでしょう?」瑞穂が不安そうに尋ねた。
「警察が村上さんを調べるでしょう」神崎は答えた。「しかし、まだ多くの謎が残されています。高瀬さんの言う『罪』とは何なのか。なぜ彼はあなたに真実を話そうとしたのか」
「そして、誰が高瀬を殺したのか」瑞穂は付け加えた。
二人は窓の外を見た。夕暮れが近づき、青葉台ガーデンヒルズに長い影が落ち始めていた。その影の中に、15年前からの秘密が隠されているようだった。
■第6章:「追跡」
翌朝、神崎は早くに目を覚ました。昨日の出来事が頭の中で整理されていく。
高瀬正志の死は他殺だった。そして、15年前の事件と何らかの関連がある。村上健太は重要な容疑者だが、まだ決定的な証拠はない。
神崎は朝食を取りながら、今日の行動計画を考えた。田中刑事は警察と協力するよう言ったが、神崎には独自の調査方法がある。
食事を終えた神崎は、瑞穂に電話をかけた。彼女は母親の家に泊まっていた。
「おはよう、瑞穂さん」
「神崎さん、おはようございます」瑞穂の声は少し疲れているように聞こえた。
「昨日はよく眠れましたか?」
「あまり…」瑞穂は正直に答えた。「15年前の記憶が蘇ってきて」
「無理もありません」神崎は言った。「今日の予定は?」
「午前中に警察署で正式な証言をすることになっています」
「そうですか。終わったら連絡をもらえますか?話したいことがあるので」
「はい、もちろん」
神崎は電話を切り、次の行動に移った。村上の家を調べる必要がある。しかし、彼が家にいるかどうかは分からない。
神崎は村上の家の前まで行き、状況を確認した。家の前には車がなく、誰もいないようだった。
神崎は周囲を見回し、人目につかないように裏庭に回った。窓から中を覗くと、家の中は静かで、人の気配はない。
神崎は元刑事としての経験を活かし、鍵のかかっていない窓を見つけた。それを開け、中に入り込んだ。
村上の家の中は整然としていた。リビングには高級な家具が置かれ、壁には家族の写真が飾られている。神崎は写真を見た。村上と妻、そして10代の息子らしき少年が写っていた。
神崎は慎重に家の中を調べ始めた。まずは書斎だ。そこには机と本棚があり、書類が整理されていた。
神崎は机の引き出しを開けた。中には通常の事務用品と書類が入っていた。特に不審な点は見当たらない。
次に本棚を調べた。ビジネス書や小説が並んでいる。しかし、一冊の本が他の本よりも少し前に出ていることに気づいた。
神崎はその本を手に取った。「企業経営の秘訣」というタイトルの本だ。中を開くと、ページの一部が切り取られ、その空間に小さな鍵が隠されていた。
「これは…」神崎は鍵を手に取った。何の鍵だろうか。
神崎はさらに家の中を調べた。寝室、キッチン、リビング。しかし、特に不審な点は見つからなかった。
最後に地下室を調べることにした。階段を下りると、そこは趣味の部屋のようになっていた。釣り道具やゴルフクラブが置かれている。
神崎は部屋を見回した。壁には魚を釣っている村上の写真が飾られていた。しかし、一つの写真が目を引いた。それは若い頃の村上と、若い女性の写真だ。
神崎はその写真を近くで見た。女性は現在の村上の妻だろう。しかし、その横に写っている男性は…高瀬正志だった。三人は笑顔で写っている。
「この三人は昔から知り合いだったのか…」神崎は呟いた。
さらに部屋を調べると、奥の壁に小さな金庫が設置されているのを発見した。神崎は先ほど見つけた鍵を試してみた。
鍵は合い、金庫が開いた。中には書類の束と、昨日村上が森の小屋から持ち去った箱があった。
神崎は箱を開けた。中には古い写真と手紙が入っていた。写真は若い頃の高瀬と村上の妻が写っているもので、二人は親密な様子だった。
手紙は高瀬から村上の妻に宛てたものだった。内容を読むと、二人は深い関係にあったことが分かる。そして、最後の手紙には「子供のことは心配しないで」という一文があった。
「子供…?」神崎は考え込んだ。
書類の束を調べると、それはDNA鑑定の結果だった。村上の息子のDNAと高瀬のDNAを比較したもののようだ。結果は…一致していた。
「なるほど…」神崎は全てを理解し始めた。村上の息子の実の父親は高瀬だったのだ。これが村上と高瀬の確執の本当の理由だった。
神崎は証拠を写真に撮り、元の場所に戻した。そして、家を出る準備をした。
その時、玄関のドアが開く音がした。誰かが帰ってきたのだ。
神崎は急いで隠れ場所を探した。地下室の物置の陰に身を隠した。
階段を下りてくる足音がする。村上だろうか。
しかし、現れたのは村上の妻だった。彼女は地下室を見回し、何かを探しているようだった。
彼女は金庫に近づき、鍵を取り出した。金庫を開け、中の箱を取り出す。箱の中身を確認すると、彼女の表情が変わった。
「やっぱり…」彼女は呟いた。
彼女は箱を元に戻し、金庫を閉めた。そして、地下室を出ていった。
神崎は隠れ場所から出て、家を出ることにした。しかし、玄関に向かう途中、リビングで村上の妻と鉢合わせになってしまった。
「あなたは…」彼女は驚いた様子で言った。「神崎さん?」
「すみません」神崎は言った。「説明します」
「私の家に侵入したの?」彼女の声には怒りよりも恐怖が混じっていた。
「真相を知るためです」神崎は正直に言った。「高瀬さんの死と、15年前の事件について」
彼女の表情が変わった。「あなたは何を知っているの?」
「全てではありません」神崎は言った。「しかし、あなたと高瀬さんの関係、そして息子さんのことも」
彼女は長い間黙っていたが、やがて諦めたように椅子に座った。
「いつか明るみに出ると思っていました」彼女は静かに言った。「私の名前は村上美香。かつては高瀬正志の婚約者でした」
「そして、息子さんの実の父親は高瀬さん」
美香は頷いた。「ええ。しかし、高瀬は知りませんでした。私が彼に言う前に、私たちは破局してしまったんです」
「なぜ破局したんですか?」
「高瀬は出世のために、私を捨てたんです」美香の声には古い怒りが混じっていた。「そして、私は彼の親友だった健太と結婚しました」
「村上さんは息子さんのことを?」
「最初は知りませんでした」美香は答えた。「しかし、数年前に真実を知ってしまったんです。DNA鑑定をしたのは健太です」
「それで村上さんと高瀬さんの関係が悪化した」
「ええ。健太は激怒しました。高瀬を恨み、復讐を誓いました」
「15年前の事件も、それが関係しているんですか?」
美香は少し考えてから答えた。「あの日、健太と高瀬は森の小屋で会っていました。私は詳しくは知りませんが、二人は激しく口論になったようです」
「佐伯瑞穂さんがそれを目撃した」
「そうだったんですか…」美香は驚いた様子で言った。「それで健太が彼女を連れ去ったのね」
「あなたはそのことを知らなかったんですか?」
「いいえ」美香は首を振った。「健太は何も話してくれませんでした。ただ、『高瀬との問題は解決した』と言っただけです」
「そして、あなたたちは住宅地を離れた」
「ええ。健太の仕事の都合だと言われました。しかし今思えば、瑞穂ちゃんの件があったからかもしれません」
「なぜ数年前に戻ってきたんですか?」
「高瀬からの誘いでした」美香は答えた。「彼は『過去の償いをしたい』と言って、健太に住宅地への復帰を提案したんです」
「償い…」神崎は呟いた。「高瀬さんは何か罪を感じていたんですね」
「ええ。彼は晩年、過去の行いを悔いていました」美香の目に涙が浮かんだ。「そして、息子のことも知りたがっていました」
「村上さんはどこにいるんですか?」
美香は首を振った。「分かりません。昨日の夜から帰っていません。警察が捜査していると聞いて、逃げたのかもしれません」
「高瀬さんを殺したのは村上さんだと思いますか?」
美香は長い間黙っていたが、やがて小さく頷いた。「可能性はあります。健太は高瀬を恨んでいましたから」
「証言していただけますか?警察に」
「はい」美香は決意を込めて言った。「もう隠し事はしたくありません。15年も苦しんできました」
神崎は美香に礼を言い、警察に連絡することにした。
その日の午後、神崎は警察署で田中刑事と会った。
「村上の妻から話を聞いた」田中は言った。「村上には殺害動機があったようだな」
「ええ」神崎は頷いた。「しかし、まだ決定的な証拠はありません」
「村上の行方を追っている」田中は言った。「彼が逃げたということは、何か後ろめたいことがあるということだ」
「15年前の事件と高瀬の殺害、両方に関わっているのかもしれません」
「ああ。佐伯瑞穂からも詳しく話を聞いた。彼女の証言は信頼できるものだった」
「瑞穂さんは今どこに?」
「実家に戻った」田中は答えた。「警察官を配置して、彼女の安全を確保している」
神崎は頷いた。「村上が捕まったら連絡をください」
「ああ。しかし、神崎」田中は真剣な表情で言った。「これ以上の単独行動は控えてくれ。危険だ」
「分かっています」
神崎が警察署を出ると、瑞穂から電話があった。
「神崎さん、どこにいますか?」
「警察署を出たところです。どうしました?」
「母が何か知っているようなんです」瑞穂は言った。「高瀬の死について」
「今、そちらに行きます」
神崎は急いで佐伯家に向かった。玄関で瑞穂が待っていた。
「中へどうぞ」瑞穂は神崎を案内した。
リビングでは美咲が座っていた。彼女は神崎を見ると、小さく頷いた。
「神崎さん、お話があります」美咲は言った。「高瀬の死について、知っていることがあります」
「何ですか?」
美咲は深く息を吐いた。「高瀬が死んだ夜、私は東京にいませんでした」
「アリバイを偽ったんですか?」神崎は驚いた。
「はい」美咲は頷いた。「実は、その夜高瀬から連絡があり、会いに行ったんです」
「何の用件で?」
「彼は『全てを話す』と言っていました。15年前の事件の真相を」
「それで会ったんですか?」
「ええ。彼の家で」美咲は言った。「しかし、到着すると、彼は既に死んでいました」
「それで警察に通報しなかったんですか?」
「恐怖で」美咲は正直に答えた。「私が最後に会った人間になるのが怖かったんです。それに、瑞穂のことも考えて…」
「何を恐れていたんですか?」
「15年前の事件が再び注目されることを」美咲は言った。「瑞穂はようやく普通の生活を送れるようになったのに」
「しかし、瑞穂さん自身が真相を知りたがっています」
「ええ、それは最近になって分かりました」美咲は娘を見た。「私は彼女を守りたかっただけなんです」
「高瀬さんは何を話そうとしていたんですか?」
「詳しくは言いませんでした」美咲は答えた。「ただ、『全ての責任を取る』と」
「責任…」神崎は考え込んだ。「高瀬さんは何か罪を感じていたようですね」
「ええ。最近になって、彼は過去の行いを悔いていました」美咲は言った。「特に瑞穂が戻ってくると聞いてからは」
「高瀬さんの家に着いたとき、他に誰かいませんでしたか?」
美咲は少し考えてから答えた。「誰も見ませんでした。しかし…」
「しかし?」
「家を出るとき、遠くに人影を見たような気がします」美咲は言った。「誰かが高瀬の家を見ていたようでした」
「誰だか分かりますか?」
「いいえ、暗くて」美咲は首を振った。「しかし、男性のようでした」
神崎は考え込んだ。村上だろうか。それとも他の誰か。
「警察に話していただけますか?」
美咲は躊躇したが、やがて頷いた。「はい。もう隠し事はしたくありません」
神崎は美咲と瑞穂に礼を言い、警察に連絡することにした。
その日の夕方、神崎は自宅で集めた情報を整理していた。村上には高瀬を殺害する動機があった。息子の実の父親が高瀬だと知り、復讐を誓っていた。
しかし、まだ疑問が残る。高瀬は何の「罪」を感じていたのか。そして、「全ての責任を取る」とはどういう意味だったのか。
神崎の思考は、チャイムの音で中断された。
ドアを開けると、そこには江藤雄一が立っていた。
「江藤さん、どうしました?」
「話があります」江藤は真剣な表情で言った。「中に入ってもいいですか?」
「どうぞ」
江藤はリビングに座り、深く息を吐いた。「村上の行方が分かりました」
「どこにいるんですか?」
「森です」江藤は答えた。「小屋に戻ったようです」
「なぜ分かったんですか?」
「私は毎日森の近くを散歩しています」江藤は言った。「今日、ゲートが少し開いていたので、中を覗くと、村上らしき人影が小屋に入るのを見ました」
「警察に連絡しましたか?」
「いいえ」江藤は首を振った。「あなたに先に話したかったんです」
「なぜですか?」
江藤は少し躊躇したが、やがて話し始めた。「実は、私も15年前の事件に関わっていたんです」
「どういうことですか?」
「あの日、私は森で高瀬と村上が口論しているのを見ました」江藤は言った。「そして、瑞穂ちゃんも」
「あなたも見ていたんですか?」
「ええ。しかし、私は何もしませんでした」江藤の声には後悔が混じっていた。「村上が瑞穂ちゃんを連れ去るのを見ても、止めなかった」
「なぜですか?」
「恐怖です」江藤は正直に答えた。「そして、高瀬への忠誠心。彼は私の恩人でしたから」
「高瀬さんは瑞穂さんが連れ去られたことを知っていたんですか?」
「ええ」江藤は頷いた。「しかし、彼も何もしませんでした。住宅地の評判を守るためです」
「それが高瀬さんの言う『罪』なんですね」
「そう思います」江藤は言った。「彼は晩年、その決断を後悔していました」
「村上さんが森に戻ったのは、何か証拠を隠すためでしょうか」
「かもしれません」江藤は頷いた。「あるいは、何か他の理由があるのかもしれません」
神崎は考え込んだ。村上を追いかけるべきか。しかし、田中刑事は単独行動を控えるよう言っていた。
「警察に連絡します」神崎は言った。
「その前に」江藤は神崎の腕を掴んだ。「私も一緒に行きたい。15年前の償いをしたいんです」
神崎は江藤を見つめた。彼の目には本当の後悔が浮かんでいた。
「分かりました」神崎は頷いた。「しかし、危険が迫ったら、すぐに引き返します」
二人は森に向かった。日が暮れ始め、辺りは薄暗くなっていた。
森のゲートは少し開いていた。二人は慎重に中に入った。
森の中はさらに暗く、足元も見えにくい。神崎は懐中電灯を取り出し、小屋への道を照らした。
小屋が見えてきた。中から光が漏れている。誰かがいるようだ。
二人は小屋に近づいた。窓から中を覗くと、村上が何かを探しているのが見えた。彼は床板を全て剥がし、地面を掘り返していた。
「何を探しているんだろう?」神崎は小声で言った。
「分かりません」江藤も小声で答えた。
その時、村上が何かを見つけたようだった。彼は地面から小さな箱を取り出した。
「あれは…」江藤は息を呑んだ。
村上は箱を開け、中身を確認すると、安堵の表情を浮かべた。そして、箱をポケットに入れた。
「中に入りましょう」神崎は言った。
二人は小屋のドアに向かった。神崎がドアを開けると、村上は驚いた表情で振り返った。
「神崎…そして江藤」村上は声を震わせた。「なぜここに?」
「あなたを探していたんです」神崎は言った。「警察もね」
村上は周囲を見回した。逃げ道を探しているようだ。
「無駄です」神崎は言った。「全て分かっています。高瀬さんを殺したのはあなたですね」
村上は長い間黙っていたが、やがて諦めたように肩を落とした。
「ええ、私です」村上は認めた。「彼は死ぬべきだった」
「なぜですか?」
「彼は私の人生を台無しにした」村上の声には怒りが混じっていた。「妻を奪い、息子まで…」
「それだけですか?」
村上は神崎をじっと見つめた。「あなたは何を知っているんだ?」
「15年前、あなたは瑞穂さんを連れ去りました」神崎は言った。「彼女があなたと高瀬さんの口論を目撃したから」
「ああ、あの子は見てはいけないものを見てしまった」村上は言った。「しかし、私は彼女を傷つけていない。ただ、黙っていてほしかっただけだ」
「何を見られたくなかったんですか?」
村上は小さく笑った。「高瀬との取引さ」
「取引?」
「ああ。私は高瀬に『息子の存在を黙っていてやる。その代わり、この住宅地の一部を私に譲れ』と要求したんだ」
「脅迫ですね」
「ビジネスだよ」村上は肩をすくめた。「しかし、高瀬は拒否した。そして、私たちは口論になった」
「それで瑞穂さんを連れ去った」
「ああ。彼女が警察に話せば、私の計画は台無しになる」村上は言った。「しかし、高瀬は結局私に金を払い、住宅地を離れるよう要求した」
「なぜ数年前に戻ってきたんですか?」
「高瀬からの誘いさ」村上は答えた。「彼は『償いをしたい』と言った。私は、それが罠かもしれないと思ったが、もう一度チャンスを得るために戻ってきた」
「チャンス?」
「ああ。この住宅地の秘密を握るチャンスをね」
「どんな秘密ですか?」
村上はポケットから箱を取り出した。「これさ」
「それは何ですか?」
「15年前、高瀬と私がこの住宅地で見つけたものだ」村上は箱を開けた。
中には古い指輪と、黄ばんだ紙切れが入っていた。
「これは…」神崎は近づいて見た。
「この住宅地が建設される前、ここには別の集落があった」村上は説明した。「そして、ある事件が起きた。住民の一人が失踪し、後に遺体で発見されたんだ」
「殺人事件?」
「ああ。しかし、犯人は見つからなかった」村上は言った。「この指輪は被害者のもので、紙切れには犯人の名前が書かれている」
神崎は紙切れを見た。そこには一つの名前が書かれていた。「高瀬正志」
「高瀬が…?」
「いや、彼の父親だ」村上は言った。「同じ名前を持つ。高瀬は父親の犯した罪を隠すために、この土地を買い、住宅地を建設したんだ」
「そして、あなたはそれを知って脅迫した」
「ビジネスだよ」村上は再び言った。「しかし、高瀬は最近になって罪の意識を感じ始めた。そして、全てを明らかにしようとしていた」
「それであなたは彼を殺した」
「彼が真実を話せば、私の計画は台無しになる」村上は言った。「それに、彼は私の息子の実の父親だ。許せなかった」
「どうやって殺したんですか?」
「簡単さ」村上は冷たく言った。「彼の飲み物に睡眠薬を入れ、気を失ったところで首を吊った。完璧な自殺に見せかけたつもりだったが…」
「証拠が残っていた」
「ああ。不注意だった」村上は認めた。
「警察に自首しましょう」神崎は言った。「もう逃げられません」
村上は長い間考えていたが、やがて頷いた。「分かった。もう疲れた。15年も秘密を抱えて生きるのは、想像以上に辛いものだ」
神崎は警察に連絡し、村上の身柄を確保した。
その夜、神崎は田中刑事と話した。
「村上は全てを自供した」田中は言った。「高瀬殺害と、15年前の瑞穂誘拐について」
「そして、この住宅地の秘密も?」
「ああ」田中は頷いた。「高瀬の父親の事件についても。我々は記録を調べ、確認している」
「全ては過去の罪から始まったんですね」
「そうだな」田中は言った。「罪の連鎖というやつだ」
神崎は窓の外を見た。青葉台ガーデンヒルズの夜景が広がっている。表面上は美しく完璧な住宅地。しかし、その下には多くの秘密が埋もれていた。
「瑞穂さんはどうしていますか?」神崎が尋ねた。
「彼女は無事だ」田中は答えた。「母親と一緒にいる。真相を知って、少し落ち着いたようだ」
「良かった」神崎は安堵した。「15年間の疑問が解決されたわけですから」
「君の協力に感謝する」田中は言った。「元刑事の勘は鈍っていなかったようだな」
神崎は微笑んだ。「小説家になっても、探偵の血は残っているようです」
二人は別れ、神崎は自宅に戻った。
玄関のドアを開けると、そこには一通の封筒が置かれていた。差出人の名前はない。
神崎は封筒を開け、中の手紙を読んだ。
「神崎さん、真相を明らかにしてくれてありがとう。15年間の重荷から解放されました。これからは新しい人生を歩みます。瑞穂より」
神崎は微笑んだ。彼女は新しい一歩を踏み出すことができるだろう。
窓の外では、月明かりが青葉台ガーデンヒルズを照らしていた。住宅地の秘密は明らかになり、長い影はようやく晴れ始めていた。
■第7章:「新たな始まり」
事件から一週間が経った。
青葉台ガーデンヒルズは静かに日常を取り戻しつつあった。村上健太の逮捕と、住宅地の秘密が明らかになったことで、住民たちは少なからずショックを受けていたが、それでも生活は続いていく。
神崎は自宅の書斎で、この一連の出来事をノートにまとめていた。次の小説の題材になるかもしれない。もちろん、実名や具体的な場所は変えるつもりだが、この事件には人間の本質に関わる要素が多く含まれていた。
チャイムが鳴り、神崎は玄関に向かった。ドアを開けると、そこには瑞穂が立っていた。
「こんにちは、神崎さん」瑞穂は微笑んだ。彼女の表情は以前よりも明るく、肩の力が抜けているように見えた。
「瑞穂さん、こんにちは。どうぞ中へ」
二人はリビングに座った。神崎はコーヒーを淹れ、瑞穂に差し出した。
「お元気そうですね」神崎は言った。
「ええ」瑞穂は頷いた。「15年間の重荷から解放されたような気分です」
「それは良かった」
「あなたのおかげです」瑞穂は真剣な表情で言った。「真相を明らかにしてくれなければ、私はこれからも過去の影に怯えて生きていたでしょう」
「私一人の力ではありません」神崎は謙虚に言った。「あなた自身が真実に向き合う勇気を持ったからこそです」
瑞穂は微笑んだ。「これから私は新しい生活を始めます。大学で研究を続けながら、トラウマを抱えた子供たちのカウンセリングをするつもりです」
「素晴らしいですね」神崎は心から言った。「あなたの経験は、きっと多くの人の助けになるでしょう」
「そう願っています」瑞穂は言った。「それと、母のことですが…」
「美咲さんは?」
「警察の取り調べは終わりました。彼女は高瀬の死に直接関わっていなかったので、偽証の罪で軽い処分で済みそうです」
「それは良かった」
「ええ。母も15年間、私を守るために苦しんできました」瑞穂の目に涙が浮かんだ。「これからは二人で新しい生活を始めたいと思います」
「応援しています」神崎は言った。
「それで、神崎さんはこれからどうされるんですか?」瑞穂が尋ねた。「この住宅地に住み続けるんですか?」
神崎は少し考えてから答えた。「しばらくは住み続けるつもりです。この事件をもとに小説を書こうと思っていますから」
「そうですか」瑞穂は微笑んだ。「きっと素晴らしい作品になるでしょうね」
「ありがとうございます」
二人はしばらく他愛のない話をした後、瑞穂は帰っていった。
その日の午後、神崎は住宅地を散歩していた。住民たちの様子を観察したかったのだ。
公園のベンチには江藤雄一が座っていた。神崎が近づくと、江藤は顔を上げた。
「神崎さん」江藤は微かに笑った。「座りませんか?」
神崎はベンチに腰掛けた。「お元気ですか?」
「まあね」江藤は空を見上げた。「15年間の秘密から解放されて、少し気が楽になりました」
「そうでしょうね」
「しかし、後悔は残ります」江藤は静かに言った。「あの時、瑞穂ちゃんを助けていれば…」
「過去は変えられません」神崎は言った。「しかし、これからどう生きるかは自分で決められます」
「そうですね」江藤は頷いた。「私はこれから、この住宅地をより良い場所にするために尽力するつもりです。高瀬の代わりに住民会長に立候補しようと思っています」
「それは素晴らしいですね」
「あなたの力も借りたいんです」江藤は神崎を見た。「新しい視点を持つあなたの意見は貴重です」
「喜んでお手伝いします」神崎は言った。
二人は住宅地の将来について話し合った。過去の秘密に縛られない、開かれたコミュニティにしていきたいという江藤の思いは真摯なものだった。
散歩を続けていると、神崎は西野達也と出会った。彼はジョギングの途中のようだった。
「神崎さん」西野は足を止めた。「こんにちは」
「西野さん、こんにちは」
「事件が解決して良かったですね」西野は言った。「あの村上が犯人だったとは…」
「ええ」神崎は頷いた。「しかし、彼にも彼なりの事情があったようです」
「そうですね」西野は少し考え込んだ。「人間関係は複雑です。表面だけでは分からないことが多い」
「おっしゃる通りです」
「それにしても、この住宅地の秘密には驚きました」西野は言った。「高瀬の父親の事件まで…」
「ええ、誰も予想していなかったでしょう」
「私はこれからも住み続けるつもりです」西野は決意を込めて言った。「過去は過去。これからこの住宅地をより良い場所にしていきたいんです」
「江藤さんも同じことを言っていました」
「そうですか」西野は微笑んだ。「彼が住民会長に立候補すると聞きました。私も全面的に支援するつもりです」
神崎は頷いた。住民たちは過去の秘密から解放され、新たな一歩を踏み出そうとしていた。
その日の夕方、神崎は高瀬家を訪ねた。高瀬美代子に会いたかったのだ。
チャイムを鳴らすと、美代子が出てきた。彼女は少し痩せたように見えたが、表情は穏やかだった。
「神崎さん」美代子は微かに笑った。「どうぞ中へ」
神崎は高瀬家のリビングに案内された。以前来た時と同じく、整然としていたが、高瀬の写真が増えていた。
「お元気ですか?」神崎が尋ねた。
「はい」美代子は頷いた。「主人の死は辛いですが、真実が明らかになって少し気持ちが楽になりました」
「そうですか」
「主人は晩年、過去の罪を悔いていました」美代子は静かに言った。「父親の犯した罪を隠し続けたこと、瑞穂ちゃんの事件を適切に処理しなかったこと…」
「だから真実を話そうとしていたんですね」
「ええ」美代子は頷いた。「彼は『もう隠し事はしたくない』と言っていました。『残りの人生は正直に生きたい』と」
「高瀬さんは良い人だったんですね」
「ええ」美代子の目に涙が浮かんだ。「彼は間違いを犯しましたが、本質的には誠実な人でした。だからこそ、最後は真実を明らかにしようとしたんです」
「村上さんのお子さんのことは?」
美代子は少し躊躇したが、答えた。「知っていました。主人から聞いていました。彼は『いつか息子に会いたい』と言っていましたが、村上が許すはずがないと…」
「そうですか」
「これから私は東京の娘の家に引っ越すつもりです」美代子は言った。「この家には思い出が多すぎて…」
「それが良いでしょうね」神崎は頷いた。
「でも、この住宅地のことは忘れません」美代子は言った。「主人が愛したこの場所が、より良い方向に進むことを願っています」
「きっとそうなりますよ」神崎は言った。「江藤さんが住民会長に立候補するそうです」
「そうですか」美代子は微笑んだ。「彼なら適任でしょう。主人も喜ぶと思います」
神崎は美代子と別れ、自宅に戻った。
その夜、神崎は書斎で小説の構想を練っていた。この事件を基にした物語。しかし、単なる犯罪小説ではなく、人間の心の闇と光、過去と向き合う勇気、そして新たな一歩を踏み出す希望を描きたいと思った。
窓の外では、月明かりが青葉台ガーデンヒルズを照らしていた。かつての長い影は消え、新たな光が住宅地を包み始めていた。
翌日、神崎は警察署を訪れた。田中刑事に会うためだ。
「神崎」田中は神崎を見て微笑んだ。「来るとは思っていたよ」
「事件の詳細が知りたくて」神崎は言った。
「村上は全てを自供した」田中は言った。「高瀬殺害の詳細、15年前の瑞穂誘拐、そして住宅地の秘密について」
「高瀬の父親の事件も?」
「ああ」田中は頷いた。「我々は古い記録を調べ、確認した。確かに40年以上前、この地域で殺人事件があった。被害者は当時の地主で、犯人は特定されなかった」
「高瀬の父親が犯人だったんですね」
「村上の証言によれば、そうだ」田中は言った。「高瀬正志は父親の犯した罪を隠すために、この土地を買い、住宅地を建設した」
「完璧な隠蔽計画ですね」
「ああ。しかし、彼は晩年になって罪の意識を感じ始めた」田中は言った。「特に瑞穂が戻ってくると聞いてからは」
「彼女の存在が高瀬の良心を呼び覚ましたんですね」
「そうだろうな」田中は頷いた。「人間は完全に悪にはなれないものだ。どんなに罪を重ねても、良心の呵責から逃れることはできない」
「村上はどうなるんですか?」
「殺人罪で起訴される」田中は言った。「15年前の誘拐についても。彼の刑期は長くなるだろう」
「彼の妻と息子は?」
「美香さんは証人として協力してくれた」田中は言った。「彼女と息子には罪はない。これから新しい生活を始めるそうだ」
「そうですか」神崎は頷いた。
「君の協力には本当に感謝している」田中は真剣な表情で言った。「君がいなければ、この事件は解決しなかったかもしれない」
「いいえ、私は単なる好奇心から調査を始めただけです」
「その好奇心が真実を明らかにした」田中は微笑んだ。「小説家としての観察眼と、元刑事としての直感。素晴らしい組み合わせだ」
神崎は微笑み返した。「次の小説の参考になりました」
「楽しみにしているよ」田中は言った。「ただし、実名は使わないでくれよ」
「もちろんです」
神崎は警察署を後にした。
その日の午後、神崎は住宅地の管理事務所を訪ねた。井上に会いたかったのだ。
管理事務所に入ると、井上が書類を整理していた。神崎が入ってきたのを見て、彼女は顔を上げた。
「神崎さん」井上は微笑んだ。「いらっしゃい」
「お邪魔します」神崎は言った。「お元気ですか?」
「はい」井上は頷いた。「事件が解決して、少し落ち着きました」
「そうですか」
「この住宅地の秘密が明らかになって、最初はショックでした」井上は正直に言った。「しかし、それも過去のこと。これからは新しい住宅地を作っていきたいと思います」
「江藤さんが住民会長に立候補するそうですね」
「ええ」井上は頷いた。「彼なら適任です。過去の過ちを知っているからこそ、より良い未来を作れるでしょう」
「私もそう思います」
「神崎さんも住民会に参加してください」井上は言った。「新しい視点を持つあなたの意見は貴重です」
「喜んで」神崎は言った。
井上は微笑んだ。「この事件をきっかけに、住民同士のつながりが深まった気がします。皆、秘密から解放されて、より正直に向き合えるようになったんです」
「それは良いことですね」
「ええ。悲しい事件でしたが、結果として住宅地は良い方向に変わりつつあります」
神崎は頷いた。闇から光へ。過去の秘密から解放され、新たな一歩を踏み出す住宅地。それは人間の再生の物語でもあった。
管理事務所を出た神崎は、住宅地の広場に向かった。そこでは子供たちが遊んでいた。彼らは事件のことを知らず、ただ純粋に遊びを楽しんでいる。
神崎はベンチに座り、子供たちの様子を見ていた。未来を担う彼らのために、より良い住宅地を作っていくことが大切だと感じた。
そこへ、吉岡春香が近づいてきた。
「神崎さん」吉岡は微笑んだ。「こんにちは」
「吉岡さん、こんにちは」
「子供たちを見ているんですか?」
「ええ」神崎は頷いた。「彼らの笑顔を見ていると、心が和みます」
「そうですね」吉岡もベンチに座った。「この事件が解決して、本当に良かったです」
「ええ」
「私、実は知っていたんです」吉岡は少し躊躇いながら言った。「15年前の事件のことを。江藤さんから聞いていました」
「そうだったんですか」
「はい。でも、口外しないように言われていて…」吉岡は申し訳なさそうに言った。「もっと早く話せばよかったのかもしれません」
「いいえ」神崎は首を振った。「あなたは私に森の鍵のことを教えてくれました。それが真相解明の大きな助けになりました」
「そうですか」吉岡は少し安心したように微笑んだ。「これからは秘密のない住宅地にしたいですね」
「ええ、そうですね」
「江藤さんが住民会長になったら、私も住民会に参加するつもりです」吉岡は言った。「この住宅地をより良い場所にするために」
「私も参加します」神崎は言った。「一緒に頑張りましょう」
吉岡は嬉しそうに頷いた。
その日の夕方、神崎は森の入り口に立っていた。もう立入禁止ではなくなっていた。江藤の提案で、森を住民の憩いの場として整備する計画が進んでいるという。
神崎は森の中に入った。以前とは違い、明るく感じられた。小屋は取り壊され、その場所には小さな東屋が建設される予定だという。
過去の闇を光に変える。それが青葉台ガーデンヒルズの新しい一歩だった。
神崎は森を後にし、自宅に戻った。書斎で小説の構想をさらに練り、執筆を始めた。
「青葉台ガーデンヒルズの影」
それが小説のタイトルだった。過去の影に怯える人々と、その影から解放される物語。神崎は自分の経験を基に、しかし創作として、人間の心の闇と光を描き始めた。
窓の外では、夕日が沈み、夜の帳が下りていた。しかし、それはもう恐ろしい闇ではなく、明日への準備のための静かな時間だった。
神崎は執筆を続けた。物語は流れるように紡がれていった。
■エピローグ
一年後の春。
青葉台ガーデンヒルズは穏やかな日差しに包まれていた。桜の花びらが舞い、住宅地全体が優しいピンク色に染まっている。
神崎は自宅の庭で、新しく植えた花に水をやっていた。この一年で、彼の生活は大きく変わった。「青葉台ガーデンヒルズの影」という小説を出版し、ベストセラー作家としての地位を確立したのだ。もちろん、実名や具体的な場所は変えてあるが、物語の本質は残した。人間の心の闇と光、過去と向き合う勇気、そして新たな一歩を踏み出す希望。
「神崎さん、おはようございます」
振り返ると、江藤雄一が立っていた。彼は今、青葉台ガーデンヒルズの住民会長を務めている。
「江藤さん、おはよう」神崎は微笑んだ。「今日は住民会ですね」
「ええ」江藤は頷いた。「新しい公園の計画について話し合います。ぜひご意見をお聞かせください」
「喜んで」
この一年で、住宅地は大きく変わった。かつての秘密は過去のものとなり、住民たちは前を向いて歩き始めていた。江藤の指導の下、より開かれたコミュニティへと変化しつつある。
「瑞穂さんからメールがありました」江藤が言った。「大学での研究が順調だそうです」
「そうですか」神崎は嬉しそうに言った。「彼女は元気にしていますか?」
「ええ。トラウマを抱えた子供たちのカウンセリングも始めたそうです。自分の経験を活かして」
「素晴らしいですね」
瑞穂と美咲は東京に引っ越し、新しい生活を始めていた。瑞穂は大学で研究を続けながら、子供たちのカウンセリングを行っている。彼女の経験は、同じような苦しみを抱える子供たちの大きな支えになっているという。
「美香さんと息子さんはどうしていますか?」神崎が尋ねた。
「大阪に引っ越したそうです」江藤は答えた。「息子さんは大学に進学したとか」
「そうですか」
村上健太は殺人罪と誘拐罪で服役中だ。彼の妻と息子は新しい土地で、新しい生活を始めた。息子は高瀬の子であることを知り、最初はショックを受けたが、今は前向きに生きているという。
「高瀬夫人は?」
「東京の娘さんの家で元気にしているそうです」江藤は言った。「先日、お手紙をいただきました。住宅地が良い方向に変わっていることを喜んでいました」
「それは良かった」
二人は住民会の会場に向かって歩き始めた。道中、住民たちが神崎に挨拶をする。彼はもう「新参者」ではなく、住宅地の重要な一員となっていた。
住民会では、新しい公園の計画や、コミュニティイベントの提案など、前向きな議題が話し合われた。かつての閉鎖的な雰囲気は消え、住民たちは積極的に意見を交わしていた。
会議の後、神崎は森に向かった。かつての立入禁止の森は、今では住民の憩いの場となっていた。小屋があった場所には東屋が建ち、周囲には花壇が整備されている。
神崎は東屋に座り、森の風景を眺めた。かつてここで起きた出来事が、今では遠い過去のように感じられる。しかし、その記憶は完全に消えることはない。それは教訓として、住民たちの心に残り続けるだろう。
「神崎さん」
振り返ると、吉岡春香が立っていた。彼女は今、住民会の副会長を務めている。
「吉岡さん」神崎は微笑んだ。「会議お疲れさまでした」
「ありがとうございます」吉岡も東屋に座った。「ここに来ると、あの日のことを思い出しますね」
「ええ」神崎は頷いた。「しかし、もう恐れることはありません」
「そうですね」吉岡は森を見渡した。「この場所が、子供たちの笑顔で満ちる日が来るなんて、一年前は想像もできませんでした」
「人は変われるんですね」
「ええ。過去と向き合い、受け入れることで」
二人は静かに森の風景を眺めていた。春の陽射しが木々の間から差し込み、優しい光のパターンを地面に描いている。
「あなたの小説、読みました」吉岡が言った。「とても感動しました」
「ありがとうございます」
「特に最後の部分が好きです」吉岡は言った。「『影は光があるからこそ生まれる。しかし、光の方向を変えれば、影も形を変える。私たちは過去の影に怯えるのではなく、新しい光を見つけることで、影の形を変えることができるのだ』」
「覚えていてくれたんですね」神崎は嬉しそうに言った。
「ええ。とても心に響きました」
二人は再び静かになった。森の中では小鳥がさえずり、新しい命の息吹が感じられた。
その日の夕方、神崎は自宅の書斎で次の小説の構想を練っていた。「青葉台ガーデンヒルズの影」の成功により、出版社からの依頼が増えていた。
窓の外では、夕日が住宅地を赤く染めていた。かつてはこの光景に不吉なものを感じたが、今は美しさしか感じない。
チャイムが鳴り、神崎は玄関に向かった。ドアを開けると、そこには田中刑事が立っていた。
「田中さん」神崎は驚いた。「どうしました?」
「久しぶりだな、神崎」田中は微笑んだ。「ちょっと立ち寄っただけだ」
神崎は田中をリビングに案内した。
「小説、読ませてもらったよ」田中は言った。「素晴らしい作品だ」
「ありがとうございます」
「実名は使わなかったんだな」田中は少し笑った。
「約束通りです」神崎も笑った。
「村上の裁判が終わった」田中は言った。「彼は全ての罪を認め、服役している」
「そうですか」
「彼も変わりつつあるようだ」田中は言った。「刑務所で反省し、更生プログラムに積極的に参加しているという」
「それは良かった」
「人は変われる」田中は言った。「君の小説にもあったように」
神崎は頷いた。どんな人間にも、光と影がある。そして、その両方を受け入れることで、本当の意味で前に進むことができるのだ。
田中が帰った後、神崎は再び書斎に戻った。新しい小説の構想がまとまりつつあった。今度は、過去の罪と向き合い、贖罪を求める人間の物語。しかし、それはまた別の機会に。
神崎は窓を開け、夜風を感じた。青葉台ガーデンヒルズの夜景が広がっている。かつての長い影は消え、今は星明かりが住宅地を優しく照らしていた。
彼は深く息を吐き、満足感に浸った。一年前、彼はこの住宅地に引っ越してきた。そして、予想もしなかった事件に巻き込まれ、多くの人々の人生に触れた。それは彼自身も変えた。
神崎は再び執筆を始めた。物語は流れるように紡がれていった。過去の影と向き合い、新しい光を見つける物語。それは彼自身の、そして青葉台ガーデンヒルズの住民たちの物語でもあった。
窓の外では、満月が空高く輝いていた。その光は青葉台ガーデンヒルズを包み込み、かつての長い影を優しく溶かしていった。
(完)
[出典:ササハラセイスケ]