あれが何だったのか、今でも分からない。
夢だったと思うこともある。けれど、夢にしては細かいところまで覚えすぎている。
湿った廊下の匂い。上履きが床を叩く音。階段の踊り場にあった、茶色い染みの形まで。
小学三年生の秋だった。
休み時間にトイレへ行った。廊下で隣のクラスの男子とすれ違って、ふざけて肩をぶつけ合ったのを覚えている。
ほんの数分だった。
教室へ戻ると、誰もいなかった。
最初は何とも思わなかった。
次は体育だったから、みんな先に体育館へ行ったのだと思った。
ただ、教室が妙にきれいだった。
椅子は全部、机の下に収まっている。机の上には鉛筆一本落ちていない。窓も閉まっていた。
ついさっきまで三十人以上の子どもが騒いでいた教室には見えなかった。
自分の席から体操服の袋を取った。
そこで、もう一つ気づいた。
誰も着替えた跡がない。
体育の前なら、床に脱いだ制服が落ちていたり、机の上に名札やハンカチが置きっぱなしになっていたりする。
それが何もなかった。
急に怖くなった。
廊下へ出た。
誰もいない。
隣の教室も、その隣も空だった。
職員室の前まで行ったが、中から話し声ひとつ聞こえなかった。
学校そのものが休みになったように静かだった。
なのに、照明だけはついていた。
体育館へ走った。
扉を開けた。
そこにも誰もいなかった。
中央にはバレーボールのネットが張られていた。
電気もついている。
それなのに、人だけがいなかった。
そのときになって、泣きそうになった。
家へ帰ろうかとも思った。
でも、校門の外へ出るのがなぜか怖かった。
理由は分からない。
外へ出たら、もっと戻れなくなるような気がした。
教室へ戻ることにした。
階段を上がっている途中だった。
踊り場に、先生が立っていた。
知らない男の先生だった。
灰色っぽい上着を着ていた。
やっと人がいた。
そう思ったのに、安心しなかった。
先生は階段の上から私を見下ろしていた。
「君、何をしているの」
低い声だった。
「体育です。でも、誰もいなくて」
そこまで言うと、先生の顔が変わった。
怒ったわけではない。
驚いたようにも見えた。
先生は少し身をかがめ、私の顔を確かめるように見た。
それから、
「君は――」
と言った。
続きは聞かなかった。
急に、その先生と同じ場所にいることがものすごく怖くなった。
私は走った。
先生が後ろで何か言った気がする。
振り返らなかった。
教室まで戻り、戸を開けた。
音が戻った。
笑い声。
椅子を引く音。
誰かが机を叩く音。
窓から風が入り、カーテンが大きく膨らんでいた。
みんな普通に着替えていた。
友達が私を見て言った。
「遅いよ。どこ行ってたの」
私は答えなかった。
急いで着替え、そのまま体育へ行った。
体育館には、さっきまで誰もいなかったはずなのに、クラスの全員がいた。
先生もいた。
笛を首から下げて、いつものように出席を取っていた。
その日は、それで終わった。
母に話しても夢だと言われた。
友達に話しても、先に体育館へ行っていたんじゃないかと言われた。
そのうち自分でも、そうだったのかもしれないと思うようになった。
ただ、一つだけ引っかかっていた。
階段で会った先生だ。
卒業するまで、その先生をもう一度見ることはなかった。
大人になってから、同級生と昔の写真を見る機会があった。
運動会、遠足、卒業式。
先生たちもたくさん写っていた。
あの人はいなかった。
やっぱり夢だったのだろうと思った。
そのとき、同級生が一枚の写真を指さした。
三年生のころの校舎を撮った写真だった。
誰も写っていない廊下。
階段。
踊り場。
私はその写真を見て、しばらく動けなかった。
踊り場の壁に、茶色い染みがあった。
あの日、私が覚えているものと同じ形だった。
ただ、その写真を撮ったのは、私たちが入学する六年前だった。
写真の裏には、日付のほかに一行だけ書いてあった。
「校舎閉鎖前、無人確認」
私は、その文字を何度も読み返した。
あの日。
人がいなくなったのではない。
たぶん、私のほうが、人のいない時間へ行っていた。
では、階段にいたあの先生は、
あそこで何をしていたのだろう。
[出典:287 :可愛い奥様:2018/04/17(火) 18:10:34.42 ID:a9ZTm04k0.net]