会社の帰り道、高校時代の友人Kと二年ぶりに再会した。
懐かしさでそのまま飲みに行ったが、Kは笑いながらもどこか落ち着かない様子だった。視線が泳ぎ、何度も背後を振り返る。
三日後、Kから電話が来た。
「下の階の女が、おかしいんだ」
マンションの住人Bという女性だという。一年前、友人たちと騒いだ夜を境に様子が変わったらしい。
エレベーターで背後に立ち、顔を伏せたまま唇を動かす。「臭い臭い臭い……」と、低い声で。
無言電話。ポストの中の開封された手紙。夜中三時のインターホン。玄関にばらまかれた紙切れ。爪や髪の毛の入った封筒。
「警察は動かない。証拠がないって」
ある夜、Kの声は震えていた。
「ベランダにいた。九階だぞ。ガラスを爪で引っかいてた」
俺は言葉を失った。
その後、Kの話は少しずつ広がっていった。
「盗聴器がある。壁の裏だ。床下にもある」
ある晩、Kは言った。
「見つけた。数十個だ。配線が全部つながってる。あいつ、俺が三歳の頃から監視してる」
三歳。
その数字だけが浮いた。
翌日、Kと連絡が取れなくなった。管理会社から連絡が入り、俺はマンションへ向かった。
九階の廊下に警察と住人が立っていた。ドアは内側から壊されていた。
室内は荒れていた。壁紙は剥がれ、天井板が落ち、コンセントが分解されている。床に散らばる部品は、どれも見覚えのある日用品だった。
Kは中央に座り込んでいた。
「消された……まだあるはずなんだ」
焦点の合わない目で、天井を見上げている。
そのとき、廊下の奥から声がした。
「前からおかしかったんです」
振り向くと、黒縁眼鏡の女が立っていた。ボサボサの髪、強い香水の匂い。Kが話していたBだった。
「夜中にずっと壁を叩いて、下の階に盗聴器があるって叫ぶんです。怖くて……」
警察官が淡々とメモを取る。
Bは俺を見た。
「あなた、お友達ですよね。最近ずっと“臭い”って言ってたんです。私のことじゃなくて、自分が臭いって」
俺は何も返せなかった。
そのとき、警察官が玄関脇の袋を拾い上げた。
中には黒縁の眼鏡が入っていた。フレームが歪み、レンズが割れている。
「これ、誰のだ」
Bは目を細めた。
「私のじゃないです。今日はコンタクトですし」
確かに、彼女の瞳には薄いレンズの光があった。
Kは小さく笑った。
「やっと外せたんだ。あいつの目」
誰の目なのか、俺は聞けなかった。
それからしばらくして、Kは部屋を離れた。
Bもほどなく引っ越した。
理由は分からない。
数ヶ月後、俺はあのマンションの前を通った。
九階のベランダに目をやる。夕暮れのガラスに、細い線が走っている。内側からなのか外側からなのか分からない、規則性のない傷。
風に乗って、甘い匂いがした。
香水の残り香のような。
それとも、別の何か。
エレベーターの扉が開き、住人らしき男が出てきた。俺の横を通り過ぎるとき、小さくつぶやいた。
「臭い……」
俺はその声を聞いた瞬間、確かに自分の袖口を嗅いでいた。
何の匂いか、分からない。
ただ、どこかで嗅いだことのある匂いだった。
[出典:63 友人からの相談1/6 2009/08/21(金) 02:08:28 ID:edz+SqwT0]