囁かれた死期 ~Life is what you make it~
週末のショッピングモールは、いつも通りの光に満ちていた。
天井から降りる柔らかな照明、フードコートから漂う油と甘い菓子の匂い、子どもたちのはしゃぐ声。どこを見ても、生の気配があふれている。その一角に、場違いなほど静かな空間があった。
布で仕切られた小さな占いブース。外の喧騒とは質の違う、重たい沈黙が漂っている。香の匂いがわずかに混じり、時間が遅く流れているように感じられた。
ほんの出来心だった。未来のヒントが欲しかったわけでも、人生に迷っていたわけでもない。ただ、買い物の途中で目に入っただけだ。吸い寄せられるように椅子に腰を下ろし、言われるままに手を差し出した。
皺だらけの指が、私の掌をゆっくりとなぞる。
沈黙が長く続いたあと、低い声が落ちてきた。
「……あなたの人生は、ここで終わる」
告げられた年齢が、耳の奥で反響した。具体的な数字だった。曖昧な比喩でも、逃げ道のある言い回しでもない。
思考が止まった。視界の輪郭がぼやけ、周囲の音が遠のく。ガラス越しに世界を見ているようだった。私は何も言えず、ただその数字だけを胸に抱えたままブースを出た。
帰宅しても、数字は消えなかった。頭の中で繰り返される。時限装置のカウントダウンのように、静かに刻まれていく。
占いが絶対ではないことは理解している。それでも、どこかで信じてしまう。テレビで見かける「予言通りに亡くなった」という話が、余計な裏付けを与える。否定すればするほど、数字は鮮明になる。
耐えきれず、友人たちに打ち明けた。
「そんなの信じるな」
即座に返ってきた言葉は、強かった。
「死期を告げるなんて倫理に反してる。不安にさせて依存させるやり方だよ」
別の友人は、自分の知人の話をした。若い頃に同じような宣告を受け、絶望した女性。しかし宣告された年齢をとっくに過ぎても、彼女は元気に暮らしているという。むしろ、宣告をきっかけに生活を改め、健康に気を配り、やりたいことを全力でやるようになったらしい。
「期限があると思ったら、本気で生きるしかなくなるのよ」
その言葉は理屈としては正しい。だが恐怖は理屈では消えない。
年配の知人は冷ややかだった。
「モールの占いなんて商売よ。不安を植え付けて、次はお祓いだの高価な品だのに誘導する。相手にするだけ損」
そう言われても、心の奥のざらつきは残る。
ある女性は、亡くなった夫の話をしてくれた。子どもの頃、占い師に「腸の病で〇歳に死ぬ」と言われたという。彼はそれを半ば信じ、腸の健康には神経質なほど気を遣った。だが同時に、「腸さえ無事なら大丈夫だ」と思い込み、他の部分を軽視した。喫煙をやめなかった。
結果、彼は予言よりも早く、肺の病で亡くなった。
「言葉がなければ、もっと全体を気にしたかもしれない」
彼女は静かにそう言った。
占いは当たったのか。当たらなかったのか。判断はつかない。ただ一つ確かなのは、その言葉が彼の行動を変えたという事実だ。
さらに別の友人は、病と闘った母親の話をした。娘の成人まで生きると決め、それを目標に耐えた母。目標を達したあと、まるで役目を終えたかのように亡くなった。
「人は、自分で区切りを作るのかもしれない」
その言葉を聞いたとき、私は初めて、自分の中の数字を客観視できた。
あの占い師の宣告は、未来そのものではない。可能性の一つに過ぎない。それを絶対視するか、条件の一つとして扱うかで、その後の選択は変わる。
恐怖に支配されれば、私は数字に向かって生きることになる。数字を起点に健康を管理し、計画を立て、無意識に「そこまで」と線を引くかもしれない。
だが、数字をただの刺激として扱うならどうか。
有限であるという事実は、占いに関係なく存在する。人は誰でも死ぬ。年齢は分からない。それだけの話だ。
宣告以降、私は自分の生活を見直した。極端な行動は取らない。ただ、先延ばしにしていたことを一つずつ片付ける。会いたい人に会う。必要な検診を受ける。惰性で続けていた無駄な習慣をやめる。
恐怖は完全には消えない。夜中にふと数字が浮かぶこともある。だが以前のように、思考を奪う力はない。
あの言葉は呪いではなく、問いに変わった。
「あなたは、どう生きるのか」
未来は確定していない。だからこそ、日々の選択だけが現実を形づくる。
ショッピングモールの喧騒の中で告げられたあの数字は、今も私の中にある。しかしそれは、私を縛る鎖ではない。時間の有限性を突きつける、ただの記号だ。
終わりがいつ来るかは分からない。だが、それまでをどう使うかは選べる。
私は数字に向かって生きない。今日という一日に向かって生きる。それを積み重ねた先に、どんな年齢が待っていようとも、それは結果であって目的ではない。
[出典:http://ikura.2ch.sc/test/read.cgi/ms/1464310495/]