俺の生まれ育った村には、女の葬式の前の晩だけに行う決まりがあった。
死んだ女の遺体が家へ戻ると、村の男を十人集める。血縁の濃い者、隣組の者、若い者、年寄り。その家に縁のある男たちが、日が暮れてから夜明けまで座敷に詰める。
線香とろうそくを絶やしてはいけない。火が弱くなればすぐに替える。酒は飲んでいい。ただし酔い潰れてはいけない。
子供の頃は、女の葬式にかこつけた酒盛りのように思っていた。だが、そうではないと知ったのは十六のときだった。
その晩、家は外から見ると、いつもの家ではなくなる。
戸はすべて閉める。雨戸も閉める。窓には古い布で作った魔除けを吊るす。井戸、風呂場、台所、便所、洗面所には塩を撒く。水のある場所は念入りにやる。
そして、日が沈んでから夜が明けるまで、誰も家へ入れてはいけない。
家人でもだ。
泣いている子供でも、忘れ物をした親戚でも、近所の者でも、戸を叩かれても開けてはいけない。
理由を聞くと、大人たちは決まってこう言った。
「キャッシャが来る」
キャッシャ。
漢字があるのか、どんなものなのか、誰もはっきりとは言わなかった。昔は火車と書いたと聞いたこともあるが、村でそう書く者はいなかった。猫だという者もいれば、黒い煙だという者もいた。女の魂を盗るものだと言う者もいた。
ただ、姿を見たという話だけはなかった。
見た者は、そのあと何も言わなくなるからだと聞かされていた。
十六の年、俺は初めてその夜番に選ばれた。
死んだのは近所に嫁いできた若い女だった。二十代半ばだったと思う。体が弱かったらしい。俺とはほとんど話したことがない。ただ、朝の道で会うと、こちらが挨拶する前に軽く頭を下げるような人だった。
昼過ぎ、爺さんに呼ばれて納屋へ行くと、白いろうそくが並んでいた。
普通のろうそくではない。太く、長く、ところどころに刀の跡が入っている。
「削れ」
爺さんはそう言って、小刀を渡した。
俺は言われるまま、ろうそくを削った。形は見本を真似た。顔のようなもの。腕のようなもの。角にも見えるし、膝を抱えた人にも見える。うまく削ろうとすると、かえって気味が悪くなった。
「これは何なんだ」
そう聞くと、爺さんは少し黙ってから言った。
「火を見せるためのものだ」
誰に、とは言わなかった。
日が落ちる頃、女の家へ行った。
座敷には布団が敷かれ、白い顔をした女が寝かされていた。枕元に花が置かれていたが、匂いは線香に負けていた。家族の女たちは、日暮れ前に奥の部屋へ移された。夜番が始まると、男たちだけが座敷に残る。
兄貴もいた。
兄貴は俺より五つ上で、すでに何度か夜番を経験していた。俺が硬くなっているのを見て、小声で笑った。
「大したことない。火を見て、酒飲んで、朝まで起きてるだけや」
けれど、兄貴の顔も笑ってはいなかった。
ろうそくに火が入ると、部屋の空気が変わった。

明るいのに、暗かった。
火は何本も灯っているのに、部屋の隅だけがやけに沈んで見えた。線香の煙が天井近くで薄く広がり、襖の木目が人の指のように浮いていた。
年寄りたちは無言で酒を飲んでいた。酔うためというより、口を閉じているために飲んでいるようだった。俺は酒を許されず、缶ジュースを持たされていたが、甘さが喉に残って気持ち悪かった。
夜が更けるにつれ、音が消えていった。
外の虫の声も、遠くの犬の声も、いつの間にか聞こえなくなった。座敷の中では、線香の燃える小さな音だけがしていた。ときどき、遺体の近くに置かれたろうそくが、誰かの息を受けたように細く揺れた。
一時を回った頃、急に眠気が来た。
俺は立ち上がり、洗面所へ行った。顔を洗えば少しは目が覚めると思ったのだ。
廊下は冷えていた。足の裏に板の冷たさが貼りついた。洗面所の小さな電球はついていたが、明かりが古く、鏡の中の自分の顔が黄色く見えた。
水を出して顔を洗い、息を吐いた。
顔を上げたとき、小窓の魔除けが目に入った。
布が斜めになっていた。
白と赤の古い布をねじったようなものが、小窓の上に結ばれている。その結び目が少しずれて、布の先が片方だけ下がっていた。
俺はしばらく見ていた。
本当なら、年長者を呼ぶべきだった。そう教えられていた。魔除けには触るな。歪んでいても、落ちていても、若い者が勝手に直すな。
だが、そのときは面倒だった。
騒ぎにすれば、誰かが怒られる。洗面所の見回りは兄貴の役目だった。兄貴が叱られるのも嫌だった。
俺は布に手を伸ばした。
指先が布に触れた瞬間、妙に湿っていると思った。水場だから湿っているだけだ、と自分に言い聞かせた。布をまっすぐにして、結び目を締め直した。
それだけだった。
座敷へ戻ると、兄貴がちらりと俺を見た。
「長かったな」
「顔、洗ってただけや」
俺はそう答えて座った。
しばらくして、玄関が鳴った。
最初は風かと思った。
次に、はっきりと叩く音がした。
ガン、ガン、ガン。
誰も動かなかった。
音は続いた。拳ではないような硬い音だった。戸そのものではなく、戸の奥にある柱を叩いているように響いた。
年寄りの一人が目だけで兄貴を見た。
兄貴は立ち上がった。俺もついていった。もう一人、近所の先輩が後ろに来た。
玄関には鍵が掛かっていた。兄貴が内側から戸を細く開けると、隣家の親父が立っていた。
隣家の親父は、女の家のすぐ隣に住む男だった。普段から声が大きく、祭りのときには太鼓を叩いていた。俺も何度も見ている。
その親父が、玄関先に立っていた。
顔が赤かった。息は荒い。着物の前が少し乱れていた。
「キャッシャが出たぞ」
親父はそう言った。
兄貴が何か言う前に、親父は続けた。
「屋根の上を通った。うちの塀づたいに、こっちへ入った。見たんや。今、入った」
先輩が息を呑んだ。
兄貴は振り返り、座敷のほうへ声をかけようとした。そのとき、親父が一歩、敷居へ足をかけた。
兄貴が腕を出して止めた。
「決まりです。中には入れません」
親父の顔が変わった。
怒った、という感じではなかった。表情の位置だけが変わったように見えた。眉だけが吊り上がり、口だけが大きく開いた。目は動いていなかった。
「入れろ」
低い声だった。
兄貴は首を振った。
「夜明けまでは駄目です」
「魔除けが歪んでる」
その言葉で、俺の背中が冷えた。
親父は玄関の奥を見ていなかった。洗面所の小窓など、ここから見えるはずがない。なのに、はっきりと言った。
「魔除けが歪んでる。水のとこや。早う直せ。早う。早う」
俺は何も言えなかった。
兄貴が俺のほうを見た。たぶん、顔に出ていたのだと思う。
親父はまた敷居を越えようとした。兄貴と先輩が押し返した。
「入れろ」
親父は言った。
「入れろ」
同じ声だった。
「入れろ」
声だけが強くなっていった。体はほとんど動いていない。腕を振るわけでもなく、暴れるわけでもない。ただ、立ったまま、口だけが動いていた。
「入れろおおおおお」
声が伸びた。
人間の喉から出ているはずなのに、途中から玄関の外ではなく、家の奥で響いているように聞こえた。
座敷のほうが騒がしくなった。
年寄りたちが家中を見回り始めたらしい。襖の開く音、足音、誰かが塩を持って走る音がした。
親父は急に黙った。
そして、笑った。
笑ったと言っても、顔は笑っていなかった。口角だけが少し上がった。目は相変わらず、俺たちのどこも見ていない。
「もうええ」
親父はそう言った。
その声は、隣家の親父の声ではなかった。
そう思ったが、何の声かは分からなかった。
戸が閉められた。親父は外へ消えた。兄貴がすぐに鍵を掛けた。鍵を掛ける手が震えていた。
その直後、爺さんが廊下の奥から戻ってきた。
顔色がなかった。
「洗面所の魔除けが変わっとる」
俺は何も言えなかった。
爺さんは俺を見た。兄貴も俺を見た。先輩も見た。
「触ったか」
爺さんの声は低かった。
俺はうなずいた。
「斜めになってたから、直した」
そう言った途端、爺さんは俺の頬を殴った。
痛みより、音のほうが大きかった。
「誰が直せと言った」
爺さんは怒鳴らなかった。怒鳴らなかったから、余計に怖かった。
「誰が、その向きが間違いやと言った」
俺はそのとき、初めて分からなくなった。
俺は魔除けを直したつもりだった。
だが、あれは本当に歪んでいたのか。
それとも、そうしておくものだったのか。
夜明けまで、誰も酒を飲まなかった。
座敷に戻ると、遺体の顔に掛けられていた白い布が、少しだけずれていた。誰かが直した。誰もそれについて何も言わなかった。
ろうそくは何度も替えられた。線香も絶やさなかった。戸には鍵を三つ掛け、玄関の前には塩を盛った。けれど、そのあともずっと、廊下のどこかで湿った布が擦れるような音がしていた。
朝になり、外が白くなった。
鶏の声がして、雨戸の隙間から光が入った。夜番が終わると、女たちが奥の部屋から戻ってきた。誰も昨日のようには泣かなかった。泣いてはいけないと言われていたのかもしれない。
隣家へ人が行った。
昼前に話が戻ってきた。
隣家の親父は、その晩ずっと寝込んでいたという。熱が高く、奥さんがそばで看病していた。夜中に起き上がったことも、外へ出たこともなかった。
奥さんは言ったそうだ。
「夜中に、玄関のほうで誰かが夫の声を出していた。でも夫は布団の中にいた」
その話を聞いたとき、兄貴は何も言わなかった。
爺さんも、それ以上は話さなかった。
ただ、女の葬式が終わったあと、洗面所の小窓に吊ってあった魔除けだけが外され、庭の端で燃やされた。俺が触った布だった。
燃えるとき、布はなかなか火をつけなかった。
乾いた布のはずなのに、黒い水のようなものを垂らしながら縮んでいった。爺さんは最後まで見ていた。
それから何年も経った。
村はもう、昔のような村ではない。若い者は外へ出て、葬式も簡単になった。夜番を十人でやる家も減ったと聞く。キャッシャの名を口にする者も、ほとんどいない。
兄貴は都会へ出た。俺も村を離れた。
だが、俺は今でも火を消せない。
眠るときは必ず常夜灯をつける。出張先のホテルでも、真っ暗にはできない。停電になったときは、いい大人がライターを握って朝まで起きていた。
火があれば安心する。
そう思っていた。
けれど最近、少し違う気がしている。
真っ暗なときには、あの声は聞こえない。
火をつけたときだけ、聞こえる。
豆電球をつけた直後。仏壇の線香に火を移したとき。コンロの青い火が立ったとき。
遠くの玄関から、隣家の親父の声で、低く聞こえる。
「もうええ」
その声がしたあと、いつも水場のほうで、何か濡れた布がゆっくり向きを変える音がする。
(了)