起業資金を貯めるために、夜勤のバイトを探していた。
見つけたのは、郊外にあるパン工場の深夜シフト。時給は破格だった。理由はすぐに分かった。焼窯の前は、空気が歪んで見えるほど熱い。
成形は単純だ。流れてくる生地を丸め、鉄の焼皿に並べる。それをキャリアと呼ばれる棚に積み、発酵室へ送る。時間が来れば、キャリアごと三十メートルの焼窯へ押し込む。コンベアが唸り、赤く光る炉内を進むうちにパンは焼き上がる。
俺の担当は窯入れだった。
五枚の焼皿を両手で抱え、決められた間隔で押し込む。次、次、次。止まれば後ろが詰まる。窯の熱気が顔を殴る。眉毛が焦げる匂いがする。白衣の下は常に汗で濡れていた。
終業後、窯の電源を落とすのも俺の役目だった。ブレーカー、主電源、補助ダイヤル。指差し確認をし、声に出す。
それでも、翌日には叱責される。
「夜中、窯が動いてたぞ」
最初は操作ミスだと思った。だが、何度も続いた。俺は確実に落としている。順番も間違えていない。
監督は俺を睨み、「言い訳はいい」とだけ言った。
奇妙なのは、そのとき周囲の連中が目を逸らすことだった。まるで、俺が怒鳴られている理由を知っているかのように。
ある夜、トイレ帰りに缶コーヒーを飲みながら加工室へ戻ると、窯の前に人影があった。
若い男。社員服。黒縁眼鏡。
スイッチを一つずつ上げていた。
壁の時計は一時五分。稼働時間ではない。
「まだ使いませんよ」
声をかけると、男は反応しない。コンベアが低く動き出す。
近づいた瞬間、床に落ちていた手袋を踏み、視線を逸らした。拾い上げて顔を上げると、男はいなかった。
窯だけが動いていた。
翌朝、俺はそのことを監督に伝えた。
「黒縁眼鏡で、名札に松木と」
その名前を出した途端、監督の顔色が抜けた。
「誰から聞いた」
「聞いてません。名札に」
監督は何も言わず、窯とは逆の通路へ消えた。その夜は戻らなかった。
数日後、また同じ男を見た。
今度は背後から覗き込んだ。名札には確かに「松木」。眼鏡の奥の目は、焦点が合っていない。だが、ガラス越しに俺を見ている気がした。
「電源、落としてます」
言った瞬間、男の指が止まった。
ゆっくりとこちらを向く。
顔色は白いというより、粉をはたいたようだった。目は虚ろなのに、俺を正確に捉えていた。
その視線に、名前を呼ばれた気がした。
声は聞こえなかった。だが確かに、呼ばれた。
次の瞬間、コンベアが逆回転を始めた。
焼き終わったはずの空の窯から、焦げた皿が次々と吐き出される。中身はない。ただ、黒く焼けた跡だけが均一に並んでいる。
気づくと、俺の手は主電源のスイッチにかかっていた。
落とさなければならない。
だが、なぜか分からないが、そのままにしておくべきだと思った。
背後に気配がある。
振り向かなかった。
その夜、監督はいなかった。代わりに見慣れない年配の社員が来た。
「窯の担当、今日から君だ」
俺は何も言っていない。
「見たんだろう?」
否定しようとしたが、言葉が出なかった。
年配の社員は、それ以上説明しなかった。事故の話も、過去の話も。
ただ、「確認だけは怠るな」と言った。
それから、窯の電源は勝手に入らなくなった。
代わりに、誰かがスイッチの順番を間違えるようになった。
ブレーカーを落とし忘れる者が出た。補助ダイヤルを戻さない者が出た。
叱責されるのは、いつも同じだった。
「お前、ちゃんと確認したか?」
若いバイトが泣きそうな顔で頷く。
俺はその様子を、窯の前から見ている。
黒縁眼鏡はかけていない。
だが最近、夜勤の途中で視界が滲む。粉塵のせいだと思っていたが、どうも違う。
休憩室のロッカーに、新しい社員服がかかっていた。サイズが合うのは、俺だけだった。
名札がついている。
裏返しになっていた。
直そうと手に取ると、背後でコンベアが低く唸った。
振り向く前に分かった。
電源は落としたはずだった。
それでも、動いている。
誰かが入れたのかもしれない。
それとも。
名札を表に返す。
そこに刻まれていたのは、見慣れた自分の名字だった。
だが、下の名前が違う。
読めないわけではない。
ただ、見覚えがない。
その瞬間、窯の熱気が背中に触れた。
まるで、立ち位置を確認するように。
俺はまだ、生きているはずだ。
それなのに、背後から声がする。
確認だけは怠るな。
振り向けば、そこに誰が立っているのか。
たぶん、もう分かっている。
だから、振り向かない。
今日も電源を落とす。
指差し確認をする。
声に出す。
だが、誰のために落としているのかは、分からない。
もし次の夜、窯の前に黒縁眼鏡の男が立っていたら。
それは俺ではない、と言い切れるだろうか。
それとも、もう。
――立っているのは、俺のほうだろうか。
(了)