これは、俺が大学生だった頃の話だ。
人には、理由を説明できないまま「行きたくない」と感じてしまう場所がある。危険だと学習したわけでもなく、嫌な記憶があるわけでもない。ただ、そこへ足を向けた瞬間、身体の奥が拒絶する。理屈ではなく反射に近い。
当時、俺は実家で犬を飼っていて、大学から帰ると毎日散歩に連れていくのが習慣だった。可愛いとは思うが、疲れている日は正直面倒だった。犬を飼っている人間ならわかるだろう。
その日も講義とバイトでくたくたで、少しでも早く家に戻りたかった。だから、普段は通らない近道を選んだ。住宅街の中にある、細く短い一本道だ。
そこだけ、妙に古かった。周囲は新しい家が並んでいるのに、その道の両脇だけ、取り残されたように木が生い茂っている。枝が空を覆い、昼間なのに夕方みたいに薄暗い。特別なものは何もない。ただの道だ。そう思っていた。
足を踏み入れようとした瞬間、全身が硬直した。喉の奥がひゅっと縮むような感覚。理由はわからない。ただ、進みたくなかった。
犬も同じだった。いつもならリードを引っ張るのに、その日はその場に踏ん張って動かない。二人揃って、その先を拒んでいた。
引き返せばよかったのだと思う。だが、早く帰りたい気持ちが勝った。俺は無理にリードを引いて、犬を連れてその道を進んだ。
湿った土の匂いが濃かった。風はないのに、木の枝だけが微かに揺れている。背後から見られているような感覚が消えず、俺は早足で通り抜けた。振り返らなかった。
家に着いた時には、ほっとしていた。犬も特に変わった様子はなかった。それで終わりだと思った。
数日後、左肩に鈍い痛みが出始めた。筋肉痛とも違う。骨の奥に何かが引っかかっているような、重さを伴う痛みだった。肩こりだろうと軽く考えていたが、寝ても取れない。
幽霊に憑かれると肩が重くなる、そんな話を聞いたことはある。信じてはいなかった。それでも、その痛みは妙に現実感があった。
だが、他に何も起きない。犬も元気だし、家族にも異変はない。だから俺は無視することにした。慣れればいい。そう思った。
その頃から、大学で妙な視線を感じるようになった。ある日、講義を終えて廊下を歩いていると、前から来た女子学生が俺を見て小さく悲鳴を上げた。
「ひっ」
思わず振り返ったが、周囲に変なものはない。俺を見ていた。確実に。
それからだ。その女は、俺を見るたびに露骨に避けるようになった。距離を取り、進行方向を変え、時には引き返す。最初は気のせいだと思ったが、二ヶ月も続くと無視できない。
やがて、その女の友人を名乗る人物から呼び出された。人の少ない研究室棟の廊下だった。そこにいたのは、怯えた顔のその女と、隣に立つ友人らしいもう一人。
正直、嫌な予感しかしなかった。
女は、促されるようにして口を開いた。
「あなた、憑りつかれてますよ」
一瞬、笑いそうになった。冗談だろうと思った。だが、女の目は本気だった。嫌悪でも怒りでもない。純粋な恐怖だった。
「何が憑いてるんだ」
俺がそう聞くと、女は首を横に振った。
「それは言えない。でも、このままだと危ない。助けてあげるから」
馬鹿げていると思った。二ヶ月間、肩が痛いだけだ。何も起きていない。だから断った。
それで終わるはずだった。
だが、その日を境に、知らないアドレスからメールが届くようになった。
『大丈夫?』
『痛くない?』
『助けてあげるから』
毎晩、必ず届く。気味が悪くなってアドレスを変えた。だが、数日後にはまた届いた。新しいアドレスに。
どうやって知ったのかわからない。誰にも教えていない。ブロックしても、別のアドレスから送られてくる。
卒業した。就職した。引っ越した。連絡先も、生活も、すべて変わった。それでもメールは止まらなかった。
五年経った今も、届いている。
左肩の重さは相変わらずだ。だが、もう慣れた。痛みそのものは、正直どうでもいい。
問題は、あの女だ。
助けてあげると繰り返すメール。何から助けるというのか。俺を見て怯え、避け続けた人間が、なぜ今もこうして関わり続けるのか。
ひとつだけ、考えてしまうことがある。
あの日、あの道で何かが憑いたのかもしれない。肩の痛みは、そのせいかもしれない。
だが、もしそうだとしたら。
俺に本当に憑いているのは、あの女のほうなんじゃないのか。
怯えながら、助ける側に立ち続ける存在。
俺を見続け、離れられない何か。
その証拠を、俺はまだ見つけられずにいる。
今夜も、メールは届いている。
[出典:296 本当にあった怖い名無し 2012/05/03(木) 17:25:46.46 ID:gcbZy0Y00]