それは、新卒でこの街に出てきたばかりの、初夏の頃だった。
会社の新人歓迎会は形式的で、真に歓迎されている実感などなかったが、付き合いで深夜二時過ぎまで残った。スーツの内側には粘つく汗が張り付いており、終電を逃した後のタクシー代が重くのしかかっていた。
住んでいたのは、都心から電車で一時間ほどの、新興住宅地の奥まった場所にある古いワンルームマンションだ。深夜ともなると、街灯は申し訳程度のオレンジ色の光を放つばかりで、歩道の黒いアスファルトは濡れたように光を吸い込んでいた。
周囲は、一軒家が建ち並ぶ区画だ。どの窓も分厚い暗闇の幕が引かれ、人の営みの気配が一切しない。ただ、遠くで高速道路を走る車の低い唸りだけが、この空間に音の粒を撒いていた。
耳に届くのは、自分の革靴が石畳を踏む乾いた音と、重くなった呼吸だけ。その音すら、住宅地の深い静寂に吸い込まれて消えていくようで、私の足取りは自然と速くなる。
心臓が、胸の中で小さく、しかし忙しなく拍動しているのがわかる。この時間、この場所で、誰かと出くわすこと自体が不穏な出来事のように感じられた。
マンションのエントランスが見えたとき、肺の奥から安堵の息が漏れた。その瞬間、正面の暗がりから、人影が一つ、ゆるくふらつきながら近づいてくるのが視界に入った。
その人影は女性に見えた。その動きがあまりにも不自然で、夜の闇に溶け込んだように不確かで、私は思わず立ち止まった。
安心が一瞬にして凍りつき、奇妙なものが腹の底から湧き上がってきた。
警戒心と、しかし「気のせいだろう」という羞恥のような逡巡が入り混じる。
その女性は、まるで水の中にいるかのように左右に揺れ、平衡感覚を失っているように見えた。酔っ払いだろうか、体調が悪いのだろうか。しかし、私の足はわずかに後ずさることを選んだ。関わりたくない、という原始的な拒絶反応が働いたのだ。
だが、私のマンションの入口は、その女性が進む道の先にしかない。どうしたものかと立ち尽くしていると、その不自然な歩行の軌跡は、道路に路駐された黒いワゴン車に吸い寄せられていった。
ドン、と鈍い音が響き、女性はそのまま車の側面に凭れかかるようにして、アスファルトの上に崩れ落ちた。
地面に身体が打ち付けられた衝撃音は、夜の静寂を切り裂き、私の耳に鋭く突き刺さった。それは、もう見て見ぬふりをして済ませられる状況ではない。身体を動かしたのは、義務感というよりも、事故を目撃した者としての、どうしようもない焦燥だった。
駆け寄りながら、私はその女性を仔細に見つめた。二十代半ばだろうか。派手ではないが整った服装。そして、顔は大きなサングラスで覆われ、足元には折り畳まれていない白い杖が転がっていた。
「大丈夫ですか!?」
声が震えた。酔っぱらいではなかった。この時間、この場所で、目の不自由な人が一人でいるという事実が、私の警戒心とは別の種類の、ひりつくような不安を呼んだ。
私が慌てて肩を支え起こすと、女性は小さく、くぐもった声で「だいじょうぶ……」と繰り返した。その声は、深くて湿った井戸の底から響いてくるように不明瞭で、感情の抑揚が全くない。
「どちらまで行かれるんですか。こんな時間に」
尋ねると、彼女はゆっくりと首を振った。
「友人のマンションを訪ねるつもりで……迷ってしまって。この近くなのです。道案内をしていただけませんか」
その言葉遣いは丁寧だったが、声の調子は依然として薄気味悪かった。しかし、目の前の状況、つまり目の不自由な女性が深夜の住宅地で倒れているという事実は、私の理性を麻痺させた。「助けるべきだ」という社会的な倫理観が、心の中で大きく響き渡った。
私は「わかりました」と答え、彼女は即座に表情を一変させた。
「では、腕を組んでください」
急にハッキリとした、張りのある声が発せられた。それは、先ほどの弱々しい声とはまるで別人のようだった。私は左腕を差し出し、彼女の右腕が私の腕に絡められた。
奇妙なのは、ここからだった。
彼女は、私の進む道筋を尋ねてきた。「今、どんなものが見えますか」と、まるで地図を読み上げさせるかのように。私は「左右に一軒家が並んでいます」とか、「次の角は左に曲がります」と、視覚情報を細かく伝達しなければならなかった。
そして、不意に正面から一台の車が通り過ぎ、そのヘッドライトが私たちを横切った瞬間——彼女の顔の輪郭が、強い光で一瞬だけ浮き彫りになった。
そのとき、サングラスの下の暗がりで、二つの黒い玉が、明らかに私の方を向いて、私の表情を覗き込んでいるのを、私は見てしまった。光に反射し、ガラス玉のようにぎらつく、強い視線。
腕を組まれている私の右腕には、彼女の力が、白い手綱のように食い込んでいる。
恐怖が、遅れて、しかし身体の芯を貫いてきた。
本当に目が見えないのか? これは何かの罠ではないのか? 右手にハンドバッグを提げたまま、私は足が動かせない。腕を振りほどいて逃げるべきか、それとも良心に従って最後まで付き合うべきか。
逃げ出せなかったのは、彼女が話し始めた内容が、あまりにも異常だったからだ。
「今から訪ねるのは、私と同じ障害を持つ子どもです」
「その子は、小さな身体で両腕を失くしてしまって……」
彼女は淡々と、まるで他人の物語を語るかのように話し続けた。そして、最も私を打ちのめしたのは、この言葉だった。
「その子のためにセーターを編んであげたのです。ですが、腕の部分をどうしたらいいか、分からなくて」
その話を聞きながら、私の視界の隅で、二度目の異変が起こる。彼女の左手が、私の腕に組み付いている右腕の上を、意味もなく撫でていたのだ。まるで、私の腕の形状を記憶に刻み込もうとしているかのように。
十五分。その異様に長い、人気のない暗い道を進んだ末、彼女は急に立ち止まった。
「ここです。○○○マンション。どうもありがとう」
あっさりとした解放。私は恥ずかしさと混乱で、何も言えなかった。しかし、その角を曲がって建物の陰に隠れた私は、数秒後には自分の判断が正しかったことを知る。
彼女は、今しがた別れたばかりのマンションの階段を、杖もつかずに、スタスタと軽やかに降りてきたのだ。
悪戯だったのか。そう思い、文句を言おうと影から出ようとした瞬間、もう一人の人影が階段から現れた。それは、太った体躯の男性で、二十代後半に見えた。
そして、その男性には、両腕がなかった。
驚愕で喉が完全に張り付いた。二人は誰かを待つように、あるいは獲物を探すように、キョロキョロと周囲を見渡している。そのとき、女性が、ほとんど乱暴に男性のトレーナーを引きちぎるように脱がせ始めた。
男性は何か叫んでいるようだが、音は届かない。上半身裸にされた男性の、肩の断面は、あまりにも生々しく、非現実的だった。
女性はハンドバッグから、銀色の魔法瓶を取り出した。そして、中身を男性の剥き出しの肩の断面に、ジャボジャボと注ぎ始めたのだ。立ち上る白い湯気。男性の、この世のものとは思えない絶叫。それが、深い夜の闇に吸い込まれて消えていく。
私はその場から逃げ出した。その後二年、そのマンションから遠い場所へ引っ越すまで、私はあの夜の出来事を封印していた。
そして、二年後。デパートのエスカレーターの上。
私は最上階へ向かっていた。途中の階で、ふと目に飛び込んできた人影。それは、あの夜の女性だった。全く同じサングラス。同じ服。しかし、今回は白い杖は持っていない。
そして、彼女の右腕は、肩から先がなかった。
その残された左手で、彼女はベビーカーに手を伸ばしていた。ベビーカーのそばに立つ母親は、商品棚に夢中で、全く気づいていない。私は意識するより早く、エスカレーターを逆走するように駆け上がり、そのままエレベーターで地上に降り、逃げ帰った。
あの夜、私は白い手綱を引かれて、彼らに仕立てるための「部品」のサイズを測られていたのかもしれない。そして、彼らが次に私と再会するとき、彼らの「部品」の並びは、きっと一列増えているのだろう。それは私の腕なのか、それとも、私の、誰にも話せなかった記憶そのものなのか。
今、私の視界には、彼女の腕が欠損した姿が焼き付いている。そして、その視界には、彼女が私を「見ていた」あの夜の視線が、サングラスの奥から覗き続けている。
(了)