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白衣の下の刃 r+4,619

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九大生体解剖事件(九州大学生体解剖事件)東野利夫氏戦慄の証言

大学時代の恩師から聞かされた話を、どうしても忘れることができない。

酔った拍子に漏れた言葉の数々が、今も耳の奥に残響のように響き続けている。

戦後まもなく、福岡の医学生であった恩師は、ある手術に立ち会わされたという。手術と呼ぶには、あまりにも異様で、あまりにも血の匂いに満ちたものだった。
その話を聞かされたのは、私が二十代の頃。居酒屋の薄暗い席で、恩師はグラスの縁を指先でなぞりながら、何度もためらい、そして途切れ途切れに語った。

「アメリカ兵を、切ったんだ」
声はかすれ、喉の奥に鉄錆のような重さを含んでいた。

当時、空襲で街は焼け落ち、誰もが飢えていた。だが、病院の手術室だけは別世界のように白々と明るく、ガラスの光に包まれていたという。
捕虜の青年たちは、収容所に移されるのだと信じていたらしい。健診だと告げられ、嬉しそうに「サンキュー」と笑った者もいた。
その笑みの直後に、冷たい鉄の台に縛り付けられる運命を想像した者は、一人もいなかっただろう。

恩師はその場で、執刀した教授の声を今も覚えていると語った。
「これは新しい血液の実験だ。海水を使う」
淡々とした響きだったらしい。声は揺れず、まるで長年の研究を淡々と確認するかのような口調だったという。

捕虜の腕から血を抜き取り、その代わりに薄い塩水が注入された。
皮膚はすぐに青ざめ、筋肉は硬直し、目の奥は濁っていった。
恩師は、その瞬間の息遣いを「犬のように荒かった」と表現した。肺が必死に空気を求めて暴れ、喉が押し潰されたような音を立てていた、と。
だが教授の手は止まらない。次の捕虜が連れて来られ、再び同じ工程が繰り返された。

肺を切除された者もいた。
胸を開かれ、温かい臓器を取り出されても、まだ声を上げて助けを乞う者がいた。
喉から漏れるその声は言葉にならず、泡立つ血の音と混じり合っていったという。
「死ぬまでの時間を計測するのが目的だった」と、恩師は吐き捨てるように言った。

当時の学生や若い軍医たちは、歩哨の兵士に囲まれ、拒むことも許されなかった。
「銃殺刑になるべきやつらだ、研究の役に立つのだから感謝しろ」そう言われ、彼らはメスを手渡された。
恩師も助手として手を動かしたと告白した。
「気がついたら、私は……血管を押さえていたんだ」
その目には、酒では消せないほどの濁った罪悪感が浮かんでいた。

ある捕虜の青年は、最後まで教授を睨みつけていたという。
胸を裂かれ、心臓にメスが入る瞬間まで、瞳は揺るがなかった。
「その眼差しは、今でも夢に出る」
恩師はそう言い、長く黙り込んだ。

やがて戦は終わり、米軍の調査が入り、教授や軍医は次々と逮捕された。
法廷では、「捕虜の命を救うための手術だった」と否認を続けた教授も、独房の中で首を括った。
残された遺書には「一切は軍の命令である、責任は余にあり」とだけ記されていた。
しかし、現場にいた恩師の記憶は、その言葉を嘲笑うように濃厚な血の臭いと共に蘇る。

その話を聞いた夜、私は眠ることができなかった。
捕虜の青年たちの「サンキュー」という声が、夢とうつつの境で何度もこだました。
健診を受けられると信じたその瞬間の安堵が、次の瞬間、どんな地獄へと変わったのか。
それを思うと、胃の奥が冷たく痙攣するようだった。

戦争は人を狂わせる。
だが、その狂気の刃を握ったのは、誰よりも「人の命を救う」ことを学んできた医師たちだった。
医学という白衣の仮面の下で、人間はどこまでも血に飢えた存在へと変わる。
恩師は何度も「二度とあってはならない」と繰り返したが、その震える声は、むしろ「いまも続いているのではないか」という恐怖を含んでいた。

あの夜から幾度も年月を経たが、時折、夢に見る。
白い手術台に並ぶ八つの影。
そして、その中央で口を開き、無言で私を見つめる瞳。
瞳の中に映っているのは、恩師ではなく、なぜか私自身の顔だ。
そのたびに目を覚まし、汗で濡れた首筋を押さえながら、闇の中で確かめる。
まだメスは、私の手に握られていないはずだ、と。

(了)

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