排水区画の落とし物・受領記録
都市の地下深くに張り巡らされた巨大な雨水調整池。設備管理員の佐山は、昼も夜も、澱んだ水とコンクリートの壁に囲まれて働いていた。地下四階より下では湿度が九十パーセントを切ることはなく、時間の感覚は常に鈍る。腕時計を見ても、正しいのかどうか確信が持てなくなる場所だった。
三年前の梅雨、記録的な豪雨が続いていた夜のことだ。深夜二時過ぎ、第五区画の水門ゲートにセンサー異常のアラートが出た。単純な誤作動だろうと思った佐山は、同僚を起こさず、一人で点検に向かった。
管理通路は静まり返っていた。水流の低い轟音が床と壁を伝い、空気そのものが重く感じられる。第五区画に着いた直後、背後で防水扉が閉まる鈍い音がした。振り返り、ハンドルを回しても反応はない。電子ロックのランプが不規則に点滅していた。
内線は繋がらず、携帯も圏外だった。
佐山は一度だけ舌打ちし、資材置き場へ向かった。夜明けまで待てばいい。こういう事態は珍しくない。そう自分に言い聞かせ、パイプ椅子に腰を下ろし、ヘルメットのライトを消した。
闇に沈んで、どれくらい経ったか分からない。
カチャリ、と金属音がした。
目を開けると、金網フェンスの向こうに人影が立っていた。作業服姿で、ヘルメットを被っている。同僚だと思った。助けが来たのだと、ほっとした。
だが、近づいてくるにつれ違和感が膨らんだ。
その男は全身が濡れていた。作業着の縫い目から泥水が滴り、床に暗い水溜まりを作っている。水の匂いではなかった。鉄錆と腐った藻が混じった、地下の底の臭いだった。
男は金網越しに腕を伸ばした。
軍手をはめた手に、六角レンチが握られている。赤茶色に錆びつき、刻印も読めない古い工具だった。
「落としましたよ」
声は聞こえない。だが、そう言われたことだけが、頭の中に残った。
落とした。受け取れ。仕事だ。
佐山は腰袋に手をやった。自分の工具は揃っている。だが、その確認より先に、別の感覚が胸に広がった。
受け取らなければ、ここは終わらない。
理屈ではない。長年、設備に向き合ってきた感覚が、そう告げていた。
佐山は一歩前に出た。
金網の隙間から、錆びたレンチを掴む。
冷たかった。水温のようでもあり、金属のようでもあった。
その瞬間、男の腕が引っ込んだ。
同時に、空気が動いた。
遠くでポンプが唸りを上げ、水が流れ出す音が連なっていく。
佐山の頭の中に、断片的な情報が流れ込んできた。
開度。水位。逆流。
知らないはずの区画番号と弁の位置が、手順として理解できてしまう。
佐山は立ち上がり、制御盤に向かった。
レンチが、手の中で馴染んでいる。
ネジを回すと、異音が消え、水門が正常位置へ戻った。
作業が終わったとき、防水扉が開いた。
同僚が駆け込んできて、声をかけてきたが、佐山は内容をほとんど覚えていない。
ただ、レンチを腰袋に入れたまま、黙って頷いた記憶だけが残っている。
後日、佐山は聞かされた。
その夜、別の水系に繋がる古い地下水路で、清掃業者の作業員が一人、行方不明になったこと。
設備ログには、佐山が知らない操作履歴が残っていたこと。
それ以来、佐山は夜勤を続けている。
なぜか異常は彼の当番中に集中する。
だが、不思議と事故は起きない。水位は安定し、設備は静かに稼働し続けている。
佐山の工具箱の中には、六角レンチが一本入っている。
赤茶色に錆びた、見覚えのない工具だ。
それを使うと、手順を間違えない。
だが、使わないでいると、どこかで必ずアラートが鳴る。
雨の日の夜、地下で作業していると、ときどき背後に気配を感じる。
振り返っても、誰もいない。
ただ、次に回すべきネジの位置だけが、はっきり分かる。
佐山は今日もレンチを握る。
落とし物を、返し続けるために。
(了)