散歩の途中だった。
季節は覚えていない。湿り気のある空気と、舗道脇の雑草の匂いだけが、今もやけに鮮明に残っている。私は当時まだ若く、高校で漢文を教え始めて数年目だった。歩くことが好きで、授業の合間や放課後に、決まった道をあてもなく歩く癖があった。
その日も、住宅地を抜けて少し林に近い細道を歩いていた。足元の土は柔らかく、ところどころに雨上がりの名残があった。何気なく視線を落とした先に、一匹のナメクジがいた。
大きさはごく普通だった。茶色がかった体で、舗道と土の境目にじっと止まっている。ただ、妙だったのは、その向きだった。ナメクジは前方にある一本の樹を、まっすぐ見据えるような姿勢で動かなかった。逃げる気配もなく、触角を伸ばすでもなく、ただ静止している。
私は立ち止まった。生き物の行動を観察するほどの趣味があったわけではない。ただ、その場の空気が少しだけ変わった気がして、足が動かなかった。
しばらく見ていると、ナメクジの周囲の空気が、わずかに揺らぎ始めた。最初は目の疲れかと思った。湿気のせいで景色が歪んだだけだと、自分に言い聞かせた。だが、揺らぎは次第に濃くなり、薄い靄のようなものが、ナメクジの体を中心に立ち上がってきた。
霧というほどではない。煙でもない。陽炎に似ているが、熱は感じられない。輪郭の定まらない膜のようなものが、静かに集まり、ナメクジの姿を覆い始めた。
私は目を逸らさなかった。怖いという感情はなかった。ただ、ここで目を離したら、何か大事なものを見落とす気がした。
やがて、ナメクジの姿は完全に靄の中に消えた。そこにいるはずの生き物が見えないという事実よりも、靄が不自然なほど安定していることのほうが気になった。風はほとんどなく、靄はその場に留まり続けていた。
次の瞬間、靄の中心から、一条の細い光のようなものが伸びた。
それは糸に似ていた。光っていると言っても、眩しいわけではない。むしろ、目を凝らさなければ見落としてしまいそうな淡さだった。その糸は、まっすぐ前方の樹へ向かい、するすると伸びていった。
距離にして数メートル。糸の先端は、やがて樹の幹に触れ、そこに吸い込まれるように消えた。
私は無意識に、足元を見た。
さっきまで確かにそこにあったナメクジの姿は、もうなかった。靄も消えている。地面には、ぬめりの跡すら残っていない。
視線を上げると、樹の幹の中ほどに、ナメクジがいた。
最初からそこにいたかのように、何の違和感もなく張り付いている。ゆっくりと、いつもの動きで幹を這い上がっていた。
私はしばらく、その場から動けなかった。頭の中で、いくつかの説明が浮かんでは消えた。錯覚。光の反射。疲労。だが、どれも決め手に欠けていた。
結局、私はこう結論づけた。
ナメクジは、こうやって移動するものなのだろう。
自分でも奇妙な納得だったが、それ以上考えないことにした。その出来事を、誰かに話す気にもならなかった。話せば、説明を求められる。説明できないことを、わざわざ言葉にする必要はないと思った。
それから何年も経った。
私は年を取り、寄り合いの席に呼ばれる立場になっていた。昔話の流れで、ふと、あの出来事を思い出した。酒も入っていたし、深い意味はなかった。「錯覚だったのかもしれませんが」と前置きして、若い頃に見た不思議な話として披露した。
場は軽く笑いに包まれ、誰も真剣には聞いていなかった。
寄り合いが終わり、帰り支度をしていると、背後から声をかけられた。参加者の一人だった。あまり親しく話した記憶はない人物だ。
彼は周囲を気にするように視線を巡らせ、低い声で言った。
ナメクジの話をされましたね。
私は頷いた。
実は、誰にも話していないんですが。あれと、同じものを、私も見たことがあるんです。郷里で。
それ以上、彼は詳しく語らなかった。場所も時期も言わない。ただ、確かに見た、とだけ繰り返した。
その夜、私は久しぶりに、あの散歩道の湿った匂いを思い出した。
そして、ふと考えた。
もし、あの時、私が立ち止まらなかったら。
もし、あの靄が、もう少し濃かったら。
もし、光の糸が、別の方向へ伸びていたら。
ナメクジが移動したのか。
それとも、私たちのほうが、気づかないうちに移動させられているのか。
答えは出ない。
ただ、今でも雨上がりの道を歩くと、無意識に足元と樹の幹を、同時に見る癖が抜けない。
[出典:102 :本当にあった怖い名無し :2005/03/28(月) 21:35:04 ID:2dPoLN2W0]