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短編 奇妙な話・不思議な話・怪異譚 n+2026

母が拭いたもの nc+

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いつもと変わらずに布団に入った。

その日は少し疲れていた気がするが、特別な出来事は何もなかった。部屋の電気を消し、仰向けになり、天井の暗さをぼんやり眺めながら目を閉じた。耳の奥で血の流れる音がして、意識がゆっくり沈んでいく。その途中で、違和感に気づいた。

背中が、布団から離れていく。

持ち上げられるというより、布団の感触が薄れていく感じだった。体の輪郭だけが残り、重さが抜け落ちていく。目は閉じたままだったが、確かに自分が浮いていると分かった。数センチだ。はっきりわかる。だが怖さはなかった。むしろ、妙な高揚感があった。

初めてだ。
こんな感覚は。

楽しいと思った。誰にも邪魔されない秘密を見つけたような気分だった。そのまま意識は夢の中へ滑り込んだ。

気づくと居間にいた。畳の匂いと、昼間の名残のような薄い明るさ。私はあぐらをかいた姿勢のまま、床から少し浮いていた。十五センチほどだろうか。影が畳から離れているのが見えた。試しに体を傾けると、そのまま横に滑った。思った通りに動く。くるりと回転もできた。

声を上げて笑った。
楽しい。楽しい。

居間の端に、母がいた。立っているのか座っているのか曖昧で、距離感がおかしかった。近いようで遠い。母は私を見ていたが、表情が定まらない。呆れているようにも見え、困惑しているようにも見え、どこか焦りも混じっている。

私はさらに動きを速めた。天井すれすれまで上がり、壁際をかすめ、勢いよく方向転換する。視界が流れ、風を切る感覚が楽しくて仕方がなかった。

その瞬間、母の顔が変わった。

はっと息を吸い込んだような顔。何かに気づいた目。母は何も言わず、居間を出て洗い場の方へ向かった。私はその後ろ姿を見ながら、まだ浮き続けていた。戻ってきた母の手には、ぼろぼろの布があった。雑巾のようで、色も形も定かではない。濡れているのか乾いているのかも分からない。

母は私の正面に立った。距離が急に詰まった。浮いている私を、母はためらいなく掴んだ。腕でも肩でもない、どこを掴まれたのか分からないのに、逃げられなかった。

そして、その布を、私の顔の前にかざした。

拭う、という動作だったと思う。だが触れられた感触はない。ただ、視界いっぱいに布が迫り、視界が一瞬、真っ暗になった。

次の瞬間、私は床に落ちていた。
重さが戻ってきた。浮く感覚は消えた。体が言うことをきかない。起き上がろうとしても、畳に貼りついたように動けなかった。

悔しさが込み上げた。
もう浮けない。
なぜ邪魔したのか。
もっと飛べたのに。

そこで夢は途切れた。

目を覚ますと、自分の部屋の布団の中だった。天井はいつも通りで、体も浮いていない。だが、背中の感覚だけが妙に生々しく残っていた。布団の感触が、少し信用できなかった。

朝食の時、私は母に夢の話をした。母は笑いながら聞いていた。浮いたこと。居間で飛び回ったこと。そのあたりまでは、ただの夢だと言う顔だった。

だが、私が布の話をした瞬間、母の動きが止まった。

箸が止まり、視線が宙に泳いだ。ほんの一瞬だったが、確かに迷いがあった。母は「変な夢だね」と言ったが、声の調子が少し低かった。私は気になって、なぜそんな顔をしたのかと聞いた。

母は少し考え込んでから言った。
自分の故郷の離島には、昔、布で顔を拭うようなやり方があったらしいと。何かが憑いた時というより、正気に戻すためのものだと。

私は驚いた。そんな話は聞いたことがなかった。夢に出てきた布と、母の話が重なったことが、妙に気持ち悪かった。

その夜、もう一度布団に入った。
浮くことはなかった。何度試しても、体は沈んだままだった。

だが、眠りに落ちる直前、居間の方から、布が擦れるような音がした気がした。雑巾を絞る時の、あの湿った音に似ていた。

翌朝、母にそのことを話そうとして、やめた。
なぜか、聞いてはいけない気がした。

それから何年も経つ。
もう浮くことはない。夢にも出てこない。

ただ、時々思う。
あの時、布を持っていたのは、本当に母だったのか。

[出典:683 :本当にあった怖い名無し:2018/08/11(土) 20:04:36.75 ID:mDGy75xT0.net]

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