親父がまだ二十代の頃、冬山に取り憑かれていた時期の話だ。
当時は今ほど装備も整っておらず、上高地へ入るにも命がけだったという。親父たちは数人のパーティーで、厳冬期の縦走計画を立てたが、天候と行程の都合で予定が狂い、釜トンネルの中で一泊することになった。
釜トンネルは冬でも車の往来があるが、当時は夜間に完全封鎖されることも多く、人気はない。内部はコンクリートの壁が湿り、外よりは風を避けられるが、冷気が溜まりやすい。トンネルの中央付近、車道脇にテントをいくつか並べ、簡単な食事を済ませると、皆疲労困憊で早々に寝袋に潜り込んだ。
親父も眠りに落ちたが、どれくらい経った頃か、はっきりしない時間に目が覚めた。
ざく、ざく、という音が聞こえた。
雪を踏みしだく音だ。だが、いくら冬とはいえ、トンネルの中に雪が積もることはない。ましてや、足音は一定のリズムで、テントとテントの間を縫うように移動している。
真っ暗闇の中、ヘッドランプも点かず、誰かが歩いている。
親父は身を固くした。先輩たちから、釜トンネルでは遭難者の霊が出るという話を何度も聞かされていたからだ。冬の上高地で力尽き、トンネルまで辿り着いて倒れた者がいる。そういう話は珍しくなかった。
同じテントにいる仲間が寝返りを打つ気配があったが、誰も声を出さない。
足音は次第に近づき、やがて荒い息遣いが聞こえてきた。
喉が凍りついたような、吸うたびに引っかかる呼吸。ひどく疲れている。寒さに追い立てられている。
親父は恐怖よりも先に、妙な感情を抱いたという。
哀れだ、と思ってしまった。
幽霊かどうかより、ここまで歩いてきた存在の辛さが、音だけで伝わってきた。
親父は寝袋の中で手探りし、ハクキンカイロを取り出した。ベンゼンを使う旧式のもので、しっかり温度が出る。音を立てないようにジッパーを開け、そっとテントの外へ転がした。
その直後、足音は少しずつ遠ざかり始めた。
ざく、ざく、という音が薄れ、息遣いも静まっていく。
やがて、完全に消えた。
翌朝、何事もなかったように朝を迎えた。
カイロは確かに、置いた場所にあった。誰も動かしていない。
同じテントの仲間が、ぽつりと言った。
足音が消える直前、「ありがとう」と聞こえた、と。
親父には、その声だけは聞こえなかった。
ただ、あの夜以降、釜トンネルを通るたび、誰もいないはずの足音に耳を澄ませてしまうのだという。聞こえないことを、どこかで期待しながら。
[出典:603 :Lightning Oiseaux 9 ◆/7BXYOpSKI:2009/07/04(土) 23:45:45 ID:C7bQKuYt0]