あの夜の湿った空気の粘度を、今でも皮膚が正確に覚えている。
学生時代の野外学習で訪れた、山中の野外活動センター。古い木造の二階建てで、私たちは二階の大部屋に五人で雑魚寝していた。九月に入ったばかりだというのに、昼の熱が夜になっても抜けず、空気はぬるく重く、部屋の中に滞留していた。窓は全開だったが、入ってくるのは涼しさではなく、杉の葉と湿った土が混ざった、山奥特有の濃い匂いだけだった。
室内灯は消され、廊下から漏れる黄色い光が、畳の上に細い線を引いている。その線が、部屋の隅に積み上げたナップサックや、体操着を詰めた黒いビニール袋の山をぼんやりと照らしていた。
山の夜は静かだが、何も聞こえないわけではない。耳の奥で微かな音が鳴り続け、遠くで虫か蛙が鳴く。時折、窓ガラスが「カチ」と小さく鳴る。その一音が、妙に大きく感じられた。時刻は午前三時を過ぎていた。
窓の外は、ただの黒だった。外灯はほとんどなく、斜面は影の塊としてそこにあるだけで、輪郭すら曖昧だった。それでも、何かが外にあるという感覚だけは、はっきりとあった。見えているわけではない。ただ、そこにあると、身体が知っている。
五人分の汗と菓子の匂い、防虫剤の臭気。それらが混ざった生活臭の中に、窓の外から入り込む湿気が重なり、部屋全体が一枚の膜に包まれているようだった。布団を被っても、その膜は遮れない。肌に張り付く圧だけが、じわじわと意識を侵してくる。
皆、起きてはいたが、声は低く、短かった。誰もが、必要以上に動かないようにしていた。深夜特有の、思考が鈍り、感覚だけが肥大していく時間帯。心臓の鼓動が、床板に伝わっているような錯覚に陥る。
私は膝を抱え、身を縮めていた。動くたび、布団と肌が剥がれる微かな音がして、それがひどく不快だった。汗をかいていることを、音で指摘されているような気がしたからだ。
枕元のデジタル時計を見る。午前二時四十一分。淡い数字の光が、妙に心細い。喉が渇いていたが、起き上がる気にはなれなかった。この空気を乱すことが、何か取り返しのつかないことに繋がる気がしていた。
視線は、意識しないようにしても、窓の黒い矩形に引き寄せられる。見れば、何かが起こる。そんな確信めいた予感があった。それでも、目は勝手にそちらを向いた。
その瞬間、体の内側が急に冷えた。溜め込まれていた熱が、すっと抜けていく感覚。理由は分からない。ただ、何かに触れてしまったという感覚だけが残った。
朝、ヒロシに起こされた。
「なあ、昨日さ……あそこに何かあったよな」
寝起きの掠れた声だった。何のことか分からず、窓の外を見る。急な斜面と雑木林。それだけだ。
「ほら、あれだよ。変なとこに建ってたやつ」
そう言われて、ようやく思い出した。確かに、そこには何かがあった。小屋だった気がする。山の管理用か、物置のような、何の変哲もない小屋。
「……あったな」
そう答えた自分の声が、妙に現実味を欠いていた。二人で窓に近づき、外を見る。だが、どこにもそれらしきものはない。基礎の跡も、木材の欠片も見当たらない。
他の三人も起きてきた。同じように尋ねると、全員が「あった」と言う。五人全員が、そこに何かがあったことを覚えている。
「夢じゃね?」誰かが笑った。だが、その笑いはすぐに途切れた。誰も本気でそう思っていなかったからだ。
その日一日、そのことが頭から離れなかった。数週間後、ヒロシと二人で酒を飲みながら、その夜の話になった。
「さ、あの夜さ。外、真っ暗だったよな」
言われて、違和感に気づいた。外灯はほとんどなかった。月明かりも頼りない。普通なら、何かを認識できるような状況ではない。
「なのにさ、俺たち全員、そこにあるって知ってたんだよな」
視覚ではなかった。見えたというより、分かっていた。そこにあると、疑いようもなく。
その晩、帰宅して窓の外を見た。街灯に照らされた夜景。その視界の隅に、ゴミ出しを忘れた黒い袋が置いてあるのが見えた。中身は、昼に着た服と生ゴミ。
その袋が、やけに存在感を持ってそこにあった。見ているうちに、胸の奥がじんわりと温かくなる。理由は分からない。ただ、目を逸らせなかった。
翌朝、目覚めたとき、部屋は妙に冷えて感じられた。何かを一晩中失っていたような感覚が、まだ体の中に残っていた。
あの夜、私たちは何を見たのか。今でも分からない。ただ一つ確かなのは、あれは見てしまったものではない。関わってしまったものだということだ。
そしてそれは、形を変えて、今もどこかにある。生活のすぐ脇で、気づかれるのを待つように。
[出典:271 :本当にあった怖い名無し:2014/09/30(火) 11:36:01.93 ID:E9YArmenD]