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中編 奇妙な話・不思議な話・怪異譚 n+2025

それ、出たらダメな電話 ncw+194-0207

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六月の半ばを過ぎた頃だった。

梅雨前線が関東平野の上空に居座り続け、私の住む木造アパートの壁紙は、指で押せばじっとりと指紋が残るほどに湿気を吸い込んでいた。深夜二時を回っている。

窓の外では、雨足が強くなったり弱くなったりを繰り返しながら、アスファルトを叩く音が絶え間なく続いていた。時折それは、何かが這いずるような粘着質な音に聞こえて、私は読みかけの文庫本を閉じ、天井の四隅に視線を彷徨わせた。

換気扇を回しても、排水管から逆流してくるような微かな腐臭と、古本特有の甘酸っぱい紙の匂いが部屋に残っている。肌にまとわりつく空気の重さに閉口し、そろそろ寝ようかと枕元のスタンドライトに手を伸ばした、その時だった。

部屋の静寂を切り裂くように、スマートフォンが震えた。低い唸りが畳とローテーブルを共鳴させ、巨大な羽虫がのたうち回るような不快な音を立てる。画面には『姉』と出ていた。

姉とは仲が悪いわけではないが、互いに干渉を嫌う性質で、連絡を取り合うのは年に数回の事務的な用件のみだ。ましてや、こんな時間に電話を寄越すような人間ではない。一瞬の躊躇いの後、私は通話ボタンをスライドさせた。

「……もしもし」

喉が張り付いていて、声が掠れた。受話器の向こうには奇妙な静寂があった。居酒屋の喧騒も、救急車のサイレンも、雨音さえもない。真空のような無音の中に、微かな衣擦れのような音だけが混じっている。

『……起きてた?』

姉の声だった。ただ、私が知っている声より半音ほど低く、妙に乾いていた。感情の起伏が削ぎ落とされた響き。

「起きてたけど、なんだよ今の時間は。何かあったのか」

私は努めて不機嫌さを装った。深夜の電話が持ち込む不安を、苛立ちで上書きしたかった。

『……ねえ。変わったことは、ない?』

その言い方が変だった。疑問形のはずなのに、答えを求めている気配がない。既にある事実を確認するだけの、作業みたいな声だった。

「変わったこと?」

私は薄暗い部屋を見回した。脱ぎ散らかした衣類、飲みかけのペットボトル、読みかけの本。

「別に、何もないけど。どうしたんだよ、急に」

『……そう。何もないなら、いいの。じゃあ、気をつけて』

「は? 何に気をつけるんだよ」

『……おやすみ』

一方的に通話は切れた。ツーツーという電子音が耳の奥に冷たく残る。私はしばらく暗転した画面を見つめていた。画面に反射した自分の顔が青白く歪んで見えたのは、照明の加減だろう。

独り語ちてスマートフォンを枕元に放り投げたが、姉の乾いた声が耳にこびりついて離れない。布団を頭まで被っても、雨音が足音みたいに聞こえて、浅い眠りを繰り返すことしかできなかった。

翌朝、空は重苦しい鉛色だった。

寝不足の頭には偏頭痛が鈍く響いていたが、今日は実家の祖母の様子を見に行く約束の日だった。実家は都心から電車で二時間ほど離れた、埼玉の山間部にある。

姉の様子が気になり、メッセージアプリを開いて昨夜の件を送ってみたが、既読になる気配はない。車窓を流れる景色が、ビル群から次第に緑の濃い山肌へと変わっていく。トンネルを抜けるたびに耳の中の気圧が変わり、そのたびに昨夜の声が鼓膜の奥で再生される気がした。

最寄り駅に降り立つと、湿気を孕んだ生暖かい風がバス停の錆びたトタン屋根を揺らしていた。三十分ほど待って現れたバスに乗り、さらに二十分。「古宮橋」というバス停で降りると、祖母の家までは徒歩で十分ほどだ。

祖母は数年前に祖父を亡くしてから、古い日本家屋で一人暮らしをしている。足腰はまだ丈夫だと言い張っているが、八十を超えた老人の一人暮らしには危うさがつきまとう。砂利道を歩きながら、私は妙な胸騒ぎを覚えていた。昨夜の電話と、今日の重苦しい天気と、山間部に特有の土と草いきれの匂い。それらが相まって神経を逆撫でする。

玄関の引き戸を開けると、カラン、と乾いた音がした。

「ばあちゃん、来たよ」

返事はない。土間の空気はひんやりとして、線香の匂いが微かに漂っている。

「ばあちゃん?」

靴を脱いで上がり框に足をかけた時、奥からガタン、と音がした。椅子を引いたような、重い物が落ちたような音。私は心臓が跳ね上がるのを感じながら廊下を進んだ。

廊下は昼間でも薄暗く、磨き込まれた床板が黒光りしている。左手には仏間があり、開け放たれた襖の奥で仏壇の金色の装飾が鈍く光っていた。遺影の祖父がこちらを見据えているように見えて、私は視線を逸らした。

居間の襖を開けると、祖母がちゃぶ台の前でテレビを見ていた。

「ああ、来たのかい。耳が遠くなっててねえ、気づかなかったよ」

祖母はゆっくり振り返り、日焼けした顔に深い皺を寄せて笑った。張り詰めていた糸が切れたように、私は息を吐いた。

「呼んでも返事がないから心配したじゃないか」

「ごめんごめん。さあ、お茶でも入れようかね」

祖母は台所へ向かった。その背中を見ながら、私は自分が過敏になっているのを自覚した。姉の電話一本で、ここまで神経質になるのは可笑しい。急須から湯気が立つ音を聞きながら、ようやく落ち着きを取り戻しつつあった。

日が暮れかかり、家の中の影が濃くなり始めた頃だった。

私は二階の物置部屋で、祖母に頼まれた古いアルバムを探していた。階段は急勾配で、手すりもない古い造りだ。埃っぽい物置からアルバムを見つけ出し、抱えて階段を降りようとした、その時。

階下から異様な音が響いた。

ドスン。

続いて、ゴロゴロゴロ……と何かが転がり落ちる音。

最後に、ビタン、と肉が床に叩きつけられるような湿った音。

悲鳴はなかった。ただ物理的な衝突音だけが静寂に響き渡った。私は全身の血が逆流するのを感じた。

「ばあちゃん!」

アルバムを放り出し、私は階段を駆け下りた。廊下の突き当たりに、祖母が倒れていた。不自然な方向にねじれた足。床に広がる赤黒い液体。頭部から流れる血が、板目をゆっくりと浸食していく。

駆け寄って抱き起こそうとしたが、祖母の体はぐにゃりと力なく重かった。意識はない。呼吸も浅い。私は震える手でスマートフォンを取り出した。指が滑ってロックが解除できない。ようやく一一九を押した時、背後の廊下の闇が一段濃くなった気がした。誰かがそこに立っているような、ただ気配だけの重さがあった。

救急車のサイレンが遠くから聞こえてくるまでの永遠のような時間、私は祖母の冷たくなっていく手を握り締め、闇に背を向けられずにいた。

救急車の中の記憶は断片的だ。赤色灯の明滅、隊員の確認の声、酸素マスクの下で微かに上下する祖母の胸。搬送先の総合病院に着いた頃には、夜の帳が下りていた。救急外来の待合室は、蛍光灯の白すぎる光と深夜特有の静けさに支配され、消毒液の刺激臭が鼻の奥にへばりついた。

診断の結果は大腿骨の骨折と頭部の打撲だった。命に別状はないが、入院は長くなるという。手続きを済ませ、私は一度自宅へ戻ることになった。

アパートに帰り着いたのは日付が変わる頃だった。

部屋の空気は澱み、昨日読みかけにしておいた本が床に転がっている。私は上着を脱ぎ捨て、スマートフォンを手に取った。救急車を呼んで以来、バッテリーを気にして画面を見ていなかったのだ。

スリープを解除した瞬間、息が止まった。

通知センターを埋め尽くす異常な数の着信履歴とメッセージ。すべて『姉』からだ。時刻が並ぶ。私が二階でアルバムを見つけ、階段に足をかけ、音を聞いた、あの時間帯に重なるように、姉は何度も何度も呼び出している。

私は乾いた喉を鳴らし、震える指で姉に発信した。コール音は一度しか鳴らなかった。

『……もしもし』

昨夜と同じ、乾いた声だった。

「俺だ。……ごめん、電話気づかなかった」

『……あったの?』

答えを待たない言い方だった。私は一瞬ためらい、短く言った。

「ばあちゃんが、階段から落ちた」

受話器の向こうで衣擦れの音がした。何かがゆっくり沈むような気配。

『……そう』

「昨日の電話といい、今日の着信といい、何なんだよ。お前、何か知ってたのか」

沈黙が続いた。姉の呼吸だけが細く聞こえる。

『……今夜、見たの』

「何を」

『……父さん』

十年前に死んだ父のことを、姉がそのままの呼び方で言った。私の胸の奥に、ひどく嫌なものが落ちた。

『夢の中で、部屋の隅に立ってた。何も言わないで、ただこっちを見てた』

「それだけで、こんな時間に?」

『……指を差したの』

「指を」

『そう。誰かを。……あんたの方を』

私は一瞬、笑いそうになった。怖さを誤魔化すための反射だ。

「偶然だろ。そんなの」

『偶然ならいいね』

姉の声は平坦だった。そこが逆に気味悪い。泣いても怒ってもいないのに、何かだけが確かに決まっている。

『だから聞いたの。「変わったことはない?」って』

私は言い返せなかった。祖母の転落は、確かに「変わったこと」だった。けれど、昨夜の時点で、まだ何も起きていなかったはずだ。

『……ねえ』

姉の声が少し近づいた気がした。

『今度、もし見たら。もし父さんを見たら、すぐ電話して。何時でもいいから』

「わかった」

逃げるように返事をして、私は通話を切った。切ったはずなのに、耳の奥のツーツーという電子音が残り続けている気がした。

部屋の四隅を見た。誰もいない。壁紙の染みと、カーテンの皺があるだけだ。それでも、空気が少し重くなったように感じる。私は電気を消せず、煌々とつけたまま布団に潜り込んだ。

外ではまた雨が降り始めていた。

しばらくして、意識が底へ沈む直前、ピチャ、ピチャ、という水音を聞いた。雨漏りだろうか。古いアパートならあり得る。そう思いながら瞼を開くと、部屋が妙にくすんでいた。彩度が落ち、世界全体が古びた写真みたいに灰色に固まっている。体が動かない。金縛りだ。

水音は近づいてくる。

廊下からではない。枕元、放り投げたスマートフォンのあたりからだ。

視線だけを動かす。枕元に、男が立っていた。

父だった。

生前と同じ作業着姿で、直立している。ただ、全身が濡れていた。髪からも袖口からも、汚れた水が滴り落ち、畳に黒い染みを作っている。排水管の腐臭が一気に鼻腔を塞いだ。

父の顔は青白く膨らみ、眼窩の奥は暗い。それでも口元だけが笑っていた。三日月みたいに、不自然に吊り上がったまま固まっている。

父は何も言わない。ゆっくり右手を上げ、土色に変色した人差し指で、私のスマートフォンを指した。次に、私の口を指した。耳と口の間で、指先がゆっくり往復する。

喉が鳴る。ゴロゴロという、濡れた排水管が鳴るみたいな音。

その口が開いた。

『……かわった』

それが姉の声に似ている気がして、私は叫ぼうとした。

「うわぁっ!」

自分の声で跳ね起きた。心臓が暴れ、全身が冷たい汗で濡れている。部屋はいつもの色に戻っていた。夢だ。そう思いたかった。けれど、鼻孔に腐臭が残っている。枕元の畳に、濡れた染みがあるように見えた。

時計は午前三時三十三分。

その時、スマートフォンが震えた。

着信音は設定していないはずなのに、低い電子音が鳴っている。画面には『姉』の文字。私は身を引いたが、昨夜の姉の言葉が脳裏をよぎった。見たら、すぐ電話して。

私は震える手で端末を掴み、通話ボタンをスライドさせた。スマートフォンは火傷しそうなほど熱を持っていた。

「……もしもし」

『……見た?』

姉の声だった。ただ、その声には昨夜の怯えがない。奇妙に落ち着いている。息が整っている。

「ああ。見たよ。父さんが出た。枕元に立ってて、びしょ濡れで……携帯と、口を……」

『指、動いた?』

「え?」

『動いたかどうか、教えて』

私は言葉に詰まった。夢の中の指先は、耳と口の間を行き来していた。確かに動いた。私は唾を飲み込み、低く答えた。

「……動いた」

電話の向こうで、姉が短く息を吐いた。

『そう』

その一言が、妙に軽かった。

『じゃあ、もういい』

「何がもういいんだよ」

『私、ずっと怖かったの』

姉の声が、少しだけ柔らかくなった。まるで安心した時の声だ。

『父さんが出るたびに、家の中で何かが起きるから。次は私なんじゃないかって』

「それで昨日、確認の電話を……」

『ううん』

姉が言い切った。

『確認じゃない。……お願い』

私は背筋が冷たくなるのを感じた。

『私のところ、もう息ができなかったの』

受話器の向こうで、クスクスと笑う声が混じった。乾いた笑い。押し殺しきれない笑い。私はその音をどこかで聞いた覚えがあった。父の笑い方ではない。私が今さっき夢の中で見た、あの口元の形に近い。

「お前……」

『ねえ、あんた』

姉が私の名前を呼ぶのをやめ、呼びかけだけにした。距離を詰める時の声だ。

『聞こえてる?』

「……聞こえてるよ」

『じゃあ』

姉の声がふっと遠ざかった。回線の向こうが広くなったように感じた。代わりに、近づいてくるものがある。

ピチャ、ピチャ、ピチャ。

枕元のすぐ横から、水音がする。私はゆっくり視線を落とした。スマートフォンのスピーカー穴のあたりが濡れている。黒い雫が、端末の角から畳に落ちている。

耳に当てたスマートフォンが、皮膚に吸い付くみたいに離れない。

私は力を込めた。指が言うことを聞かない。関節が硬直し、端末が耳に食い込んでいく。熱い。熱いのに、雫は冷たい。

『……変わったことは、ない?』

姉の声ではなかった。

父の声でもない。

もっと低く、湿っている。口の奥に泥を含んだ声。真夜中の排水溝が、言葉を覚えたみたいな声。

私は唇を噛みしめた。喉の奥が勝手に動く。何かが、こちらの息の仕方を試している。声帯を、触っている。

部屋の隅の闇が濃くなる。誰かが立っている。立っているのに、形が掴めない。ただ、そこに「聞くための顔」だけがあるような気配がする。

スマートフォン越しに、姉の声がかすかに混じった。

『ごめんね。……ほんと、ごめん。私、もう無理だったの』

謝っているのに、どこか軽い。泣き声ではない。息を整えた声だ。

耳元で、もう一度あの声が囁いた。

『……かわった?』

私は答えたくなかった。答えれば何かが確定する気がした。けれど口が勝手に開きそうになる。唇の端が引き攣り、三日月の形になろうとしている。喉の奥から、クスクスという乾いた音が漏れた。私の意思とは無関係に、肺から押し出される空気の音だった。

その瞬間、私は理解した。

「聞くこと」をやめたくなる衝動がある。
「話すこと」で逃げたくなる衝動がある。
それがこの夜の呼吸そのものになっている。

私はスマートフォンを耳に押し当てたまま、アドレス帳を開いていた。

親しい順に並んだ名前の列が、薄い光の中でぬめって見える。友人、同僚、昔の恋人。誰でもいい。一人で抱えるには、部屋の空気が重すぎる。喉の奥が勝手に言葉を作りたがっている。

指が、勝手に通話ボタンの上に乗った。

外の雨音が、いつの間にか拍手みたいに聞こえた。

私はニタニタ笑いながら、相手の名前を選ぼうとしていた。

「変わったことはない?」と、最初に言うために。

[出典:899 :あなたのうしろに名無しさんが・・・ :03/10/20 12:35]

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