六月の半ばを過ぎた頃だった。
梅雨前線が関東平野の上空に居座り続け、私の住む木造アパートの壁紙は、指で押せばじっとりと指紋が残るほどに湿気を吸い込んでいた。
時刻は深夜二時を回っている。
窓の外では、雨足が強くなったり弱くなったりを繰り返しながら、アスファルトを叩く音が絶え間なく続いていた。それは時折、何かが這いずるような粘着質な音に聞こえ、私は読みかけの文庫本を閉じて、天井の四隅に視線を彷徨わせた。
換気扇を回しても、部屋の中には排水管から逆流してくるような微かな腐臭と、古本特有の甘酸っぱい紙の匂いが充満している。
肌にまとわりつく空気の重さに閉口し、そろそろ寝ようかと枕元のスタンドライトに手を伸ばした、その時だった。
部屋の静寂を切り裂くように、スマートフォンが震えた。
バイブレーションの低い唸りが、畳の上に置いたローテーブルを共鳴させ、まるで巨大な羽虫がのたうち回っているかのような不快な音を立てる。
画面を見ると、表示された名前は『姉』だった。
私は眉を顰める。
姉とは仲が悪いわけではないが、互いに干渉を嫌う性質で、連絡を取り合うのは年に数回の事務的な用件のみだ。ましてや、こんな非常識な時間に電話を寄越すような人間ではない。
緊急事態か、あるいは酔っ払いの間違い電話か。
一瞬の躊躇いの後、私は通話ボタンをスライドさせた。
「……もしもし」
喉が張り付いていて、声が掠れた。
受話器の向こうには、奇妙な静寂があった。
居酒屋の喧騒も、救急車のサイレンも、雨音さえもしない。ただ、真空のような無音の中に、微かな、本当に微かな衣擦れのような音が混じっているだけだった。
『……起きてた?』
姉の声だった。
しかし、私が知っている姉の声よりも半音ほど低く、そして妙に乾いていた。感情の起伏が削ぎ落とされた、無機質な響き。
「起きてたけど、なんだよ今の時間は。何かあったのか」
私は努めて不機嫌さを装った。深夜の電話という非日常が持ち込む不安を、苛立ちで上書きしたかったからだ。
『……ねえ』
姉は私の問いには答えず、独り言のように呟いた。
『変わったことは、ない?』
その言葉のイントネーションが、ひどく奇妙だった。「ない?」という疑問形でありながら、答えを求めているようには聞こえない。まるで、既にそこにある事実を確認するための作業のような、冷徹な響きを含んでいた。
「変わったこと?」
私は首を傾げ、薄暗い部屋を見回した。脱ぎ散らかした衣類、飲みかけのペットボトル、読みかけの本。
「別に、何もないけど。どうしたんだよ、急に」
『……そう。何もないなら、いいの』
姉は短く息を吐いたようだった。それが安堵の吐息なのか、落胆の溜息なのか、受話器越しでは判別がつかない。
『じゃあ、気をつけて』
「は? 何に気をつけるんだよ」
『……おやすみ』
一方的に通話は切れた。
ツーツーという電子音が、耳の奥に冷たく残る。
私はしばらくの間、暗転したスマートフォンの画面を見つめていた。
画面に反射した自分の顔が、ひどく青白く歪んで見えたのは、恐らく照明の加減だろう。
「なんだよ、気持ち悪いな……」
独り語ちて、私はスマートフォンを枕元に放り投げた。
しかし、姉のあの乾いた声が耳にこびりついて離れない。
「変わったことはない?」という問いかけが、呪文のように頭の中で反響する。
私は布団を頭まで被ったが、その夜は雨音が何かの足音のように聞こえて、浅い眠りを繰り返すことしかできなかった。
翌朝、空は重苦しい鉛色をしていた。
寝不足の頭には偏頭痛が鈍く響いていたが、今日は実家の祖母の様子を見に行く約束をしていた日だ。
実家は都心から電車で二時間ほど離れた、埼玉の山間部にある。
電車に揺られながら、私は昨夜の電話のことを反芻していた。
姉の様子が気になり、メッセージアプリを開いて『昨日は何だったんだ?』と送信してみたが、既読になる気配はない。
車窓を流れる景色が、コンクリートのビル群から次第に緑の濃い山肌へと変わっていく。
トンネルを抜けるたびに、耳の中の気圧が変わる。そのたびに、昨夜の姉の声が、鼓膜の奥で再生される気がした。
『変わったことは、ない?』
あの言葉は、私に向けられたものだったのだろうか。それとも、私の背後にある何か別のものに向けられたものだったのだろうか。
そんな脈絡のない妄想を振り払い、私は駅に降り立った。
実家までのバスは一時間に一本しかない。
湿気を孕んだ生暖かい風が、バス停の錆びたトタン屋根を揺らしている。
三十分ほど待って現れたバスに乗り込み、さらに二十分。
「古宮橋」というバス停で降りると、そこから祖母の家までは徒歩で十分ほどの距離だ。
祖母は数年前に祖父を亡くしてから、古い日本家屋で一人暮らしをしている。
足腰はまだ丈夫だと言い張っているが、八十を超えた老人の一人暮らしには、常に危うさがつきまとう。
砂利道を歩きながら、私は妙な胸騒ぎを覚えていた。
昨夜の姉の電話と、今日のこの重苦しい天気、そして山間部に特有の、土と草いきれが混ざった濃密な匂い。
それらが相まって、私の神経を逆撫でする。
祖母の家が見えてきた。
黒い瓦屋根に、煤けた板壁。庭の植木は鬱蒼と茂り、昼間でも家の中は薄暗いだろうことが想像できる。
玄関の引き戸を開けると、カラン、と乾いた音がした。
「ばあちゃん、来たよ」
声をかけるが、返事はない。
土間の空気はひんやりとしていて、線香の匂いが微かに漂っている。
「ばあちゃん?」
靴を脱いで上がり框に足をかけた時、奥の居間から、ガタン、という音が聞こえた。
誰かが椅子を引いたような、あるいは重い物が落ちたような音。
私は心臓が跳ね上がるのを感じながら、廊下を早足で進んだ。
廊下は昼間でも薄暗く、磨き込まれた床板が黒光りしている。
左手には仏間があり、開け放たれた襖の奥で、仏壇の金色の装飾が鈍く光っていた。
私は無意識に仏壇の方へ目をやった。
そこには祖父の遺影が飾られている。
厳格だった祖父の顔。白黒の写真の中で、祖父はこちらをじっと見据えているように見えた。
その視線が、昨夜の姉の言葉とリンクする。
『変わったことは、ない?』
私は背筋に冷たいものが走るのを感じ、視線を逸らして居間の方へ向かった。
「ばあちゃん、いるんだろ?」
居間の襖を開ける。
そこには、いつも通りの光景があった。
ちゃぶ台の前で、祖母がテレビを見ていたのだ。
「ああ、来たのかい。耳が遠くなっててねえ、気づかなかったよ」
祖母はゆっくりと振り返り、日焼けした顔に深い皺を寄せて笑った。
私は張り詰めていた糸が切れたように、大きく息を吐いた。
「なんだ、脅かさないでくれよ。呼んでも返事がないから心配したじゃないか」
「ごめんごめん。さあ、お茶でも入れようかね」
祖母はよっこいしょ、と腰を上げ、台所へと向かった。
その背中を見ながら、私は自分がいかに過敏になっているかを自覚した。
姉の電話一本で、ここまで神経質になっている自分が可笑しい。
私はちゃぶ台の前に座り、急須から湯気が立つ音を聞きながら、ようやく落ち着きを取り戻しつつあった。
しかし、その平穏は長くは続かなかった。
日が暮れかかり、家の中の影が濃くなり始めた頃だった。
私は二階の物置部屋で、祖母に頼まれた古いアルバムを探していた。
階段は急勾配で、手すりもない古い造りだ。
埃っぽい物置からアルバムを見つけ出し、私はそれを抱えて階段を降りようとした。
その時、階下から異様な音が響いた。
ドスン、という鈍い衝撃音。
続いて、ゴロゴロゴロ……という、何かが転がり落ちる音。
そして最後に、ビタン、という肉が床に叩きつけられるような湿った音がした。
悲鳴はなかった。
ただ、物理的な衝突音だけが、静寂な家の中に響き渡った。
私は全身の血が逆流するのを感じた。
「ばあちゃん!?」
アルバムを放り出し、私は階段を駆け下りた。
心臓が早鐘を打ち、視界が明滅する。
階段の下、廊下の突き当たり。
そこに、祖母が倒れていた。
不自然な方向にねじれた足。床に広がる赤黒い液体。
白髪混じりの頭部から流れる血が、黒光りする廊下の板目をゆっくりと浸食していく。
「ばあちゃん!」
駆け寄って抱き起こそうとしたが、祖母の体はぐにゃりと力なく、まるで骨が抜かれたかのように重かった。
意識はない。呼吸も浅い。
私は震える手でポケットからスマートフォンを取り出した。
指が滑って、なかなかロックが解除できない。
「くそっ、くそっ!」
ようやく『119』を押した時、私の脳裏に、再びあの声が蘇った。
『変わったことは、ない?』
昨夜の姉の言葉。
あれは確認だったのか。それとも、これから起こることへの宣告だったのか。
救急車のサイレンが遠くから聞こえてくるまでの永遠のような時間、私は祖母の冷たくなっていく手を握り締めながら、廊下の闇の奥に、誰かが立っているような気配を感じ続けていた。
救急車の中の記憶は、断片的な映像の羅列としてしか残っていない。
赤色灯が回転するたびに明滅する車内の壁、隊員の怒鳴るような確認の声、そして酸素マスクの下で微かに上下する祖母の胸。
それらが、タイヤが路面の継ぎ目を踏む振動とともに、脳味噌の中でシェイクされていた。
搬送先の総合病院に到着したのは、夜の帳が完全に下りた頃だった。
救急外来の待合室は、深夜特有の重苦しい静寂と、それを無理やり照らし出す蛍光灯の白すぎる光に支配されていた。
消毒液のツンとした刺激臭と、どこかから漂ってくる古い雑巾のような湿った匂いが混ざり合い、鼻腔の奥にへばりつく。
私はパイプ椅子に深く腰掛け、自分の手を見つめていた。
指先には、祖母の赤黒い血がまだこびりついている。
洗面所で何度も洗ったはずなのに、爪の隙間に入り込んだ鉄錆のような匂いが取れないのだ。
それはまるで、祖母の生命力が私の皮膚を食い破って侵入しようとしているかのような、不快な錯覚を抱かせた。
「ご家族の方ですか」
白衣を着た医師が現れ、私は弾かれたように顔を上げた。
診断の結果は、大腿骨の骨折と頭部の打撲。
高齢者にとっては命取りになりかねない重傷だが、幸いにも脳への深刻なダメージは見られず、一命は取り留めたという。
「今夜は集中治療室に入りますが、とりあえずは落ち着いています」
医師の事務的な口調に、私は安堵というよりは、脱力感に襲われた。
手続きを済ませ、入院の準備のために一度自宅へ戻ることになった。
病院の自動ドアを出ると、夜気は昼間の湿気をそのまま孕んでおり、肌にじっとりとまとわりついた。
タクシーを拾い、自分のアパートへと向かう車中、私は泥のように重い疲労感の中で、ふとあることを思い出していた。
祖母が階段から落ちた、あの一瞬。
あの時、私は確かに音を聞いた。
ドスン、という衝撃音の前に、何かが「囁いた」ような気がしたのだ。
それは風の音だったのか、それとも古家の軋みだったのか。
あるいは、昨夜の電話の声が、幻聴として再生されただけなのか。
アパートに帰り着いたのは日付が変わる頃だった。
部屋の空気は澱み、昨日読みかけにしておいた本が、死骸のように床に転がっている。
私は上着を脱ぎ捨て、何気なくスマートフォンを手に取った。
救急車を呼んで以来、バッテリーの消耗を気にして画面を見ていなかったのだ。
スリープを解除した瞬間、私は息を呑んだ。
通知センターを埋め尽くす、異常な数の着信履歴とメッセージ。
そのすべてが『姉』からだった。
『18:02 不在着信』
『18:05 不在着信』
『18:15 メッセージ:電話出て』
『18:20 不在着信』
……
履歴は、私が祖母の家で階段の音を聞いた時刻と、恐ろしいほどに一致していた。
さらに言えば、祖母が落ちる数十分前から、姉は執拗に私を呼び出し続けていたことになる。
背筋を冷たい指でなぞられたような感覚に襲われる。
ただの偶然で片付けるには、あまりにもタイミングが符合しすぎていた。
姉は「何か」を知っていたのではないか。
いや、知っていたというよりは、「見ていた」のではないか。
私は乾いた喉を鳴らし、震える指で姉の番号をタップした。
コール音は一度しか鳴らなかった。
『……もしもし』
昨夜と同じ、感情の抜け落ちた声。
しかし今夜はそこに、明らかな焦燥と、諦めにも似た重い響きが混ざっていた。
「俺だ。……ごめん、電話気づかなくて」
『……あったんでしょ?』
姉は私の謝罪を遮り、食い気味に尋ねてきた。
『何か、あったんでしょ? やっぱり』
その口調は確信に満ちていた。
私は深呼吸をし、努めて冷静な声を出そうとした。
「ああ。……ばあちゃんが、階段から落ちた」
電話の向こうで、姉が息を呑む気配がした。
衣擦れの音がして、何かが倒れるような微かな物音が続く。
『……やっぱり』
姉の声が震えている。
「やっぱりって、どういうことだよ。昨日の電話といい、今日の着信といい、姉ちゃん何か知ってるのか?」
私は語気を強めた。この不気味な状況の理由が欲しかった。
長い沈黙があった。
受話器越しに聞こえる姉の呼吸音が、次第に乱れていくのがわかる。
『……夢を見たの』
ようやく絞り出された言葉は、あまりにも唐突で、そして非現実的だった。
「夢?」
『そう。父さんの夢』
死んだ親父の夢。
それがどうしたというのだ。親父が死んでからもう十年になる。夢に出てくることくらいあるだろう。
しかし、姉の次の言葉が、私の思考を凍りつかせた。
『あんたは知らないかもしれないけど……父さんが夢に出てきた時は、必ず何かあるの』
姉の語るところによれば、それは我が家における絶対的な「凶兆」なのだという。
『父さんは、守ってくれるために出てくるんじゃないの。……知らせに来るのよ。連れて行く相手を探しに』
姉の声は、恐怖に引き攣っていた。
私は半信半疑で聞き返した。
「偶然だろ? そんなの」
『偶然じゃない!』
姉が叫んだ。受話器のスピーカーが割れるほどの金切り声だった。
『従姉妹の京子ちゃんが流産した時も、おじさんが癌で見つかった時も、その前日に必ず父さんが夢に出てきた。ただ立って、こっちを見ているの。無言で、じっと』
姉の呼吸が荒い。
『昨日もそうだった。夢の中で、父さんが私の部屋の隅に立ってた。……そして、指を差したの』
「指を?」
『そう。どこかを指差して、ニタニタ笑ってた。目が覚めてから、怖くて怖くて、あんたに電話したの。「変わったことはないか」って』
私は言葉を失った。
昨夜の、あの事務的で冷淡な声の裏には、そんな恐怖が張り付いていたのか。
『今日も……一日中、胸騒ぎがしてたまらなかった。だから何度も電話したのに、あんたも母さんも出ないし……。そしたら案の定、ばあちゃんが』
姉の言葉が途切れる。
すすり泣くような声が聞こえてくる。
私は握りしめたスマートフォンが熱を持つのを感じながら、部屋の隅に視線を走らせた。
何もいない。
ただ、湿気を吸った壁紙が薄汚れて見えるだけだ。
だが、姉の話を聞いてから、部屋の空気が変質してしまったように感じる。
親父。
生前は厳格で、あまり笑わない人だった。
しかし、死んでから「ニタニタ笑って」夢に出る?
それは本当に、私の知っている父親なのだろうか。
「……わかった。とりあえず、ばあちゃんは命に別状はない。怪我はひどいけど、助かったんだ」
私は姉を、そして自分自身を落ち着かせるように言った。
「だから、もう大丈夫だ。夢の話も、たまたまだよ」
『……本当に?』
姉の声が低くなる。
『本当に、それで終わりだと思う?』
「え?」
『父さん、まだ笑ってたのよ。……夢の中で、指を差したまま、ずっと笑ってた。あれは一人を指していたんじゃない。……もっと、別の何かを』
ぞくり、と全身の毛穴が収縮する。
「やめろよ、変なこと言うな」
『今度……もしまた父さんを見たら』
姉の声が、急に真剣なトーンに変わった。
『すぐに電話して。何時でもいいから。……私が見た時は教える。だから、あんたも』
「わかった、わかったから」
私は逃げるように電話を切ろうとした。
これ以上、この話を聞いていてはいけない気がしたのだ。
「もう寝るよ。疲れてるんだ」
『……気をつけてね』
『父さんは、まだ近くにいるかもしれないから』
通話を切った後も、部屋の静寂は戻らなかった。
姉の最後の言葉が、耳の奥で腐臭を放っている。
『父さんは、まだ近くにいるかもしれない』
私は無意識に、部屋の四隅を確認した。
誰もいない。
しかし、視界の端に何かが引っかかるような違和感が拭えない。
それは、天井のシミかもしれないし、カーテンの揺らぎかもしれない。
あるいは、もっと別の……。
私は電気を消すことができず、煌々と明かりをつけたまま、布団に潜り込んだ。
外ではまた雨が降り始めていた。
雨音に混じって、遠くで何かが笑う声が聞こえたような気がしたが、私は耳を塞いで、意識を無理やり闇の中へと沈めていった。
意識が泥沼の底へと沈んでいくような感覚の中で、私は奇妙な音を聞いていた。
ピチャ、ピチャ、という水音だ。
雨漏りだろうか。古いアパートだからあり得る話だ。
そう思いながら重い瞼をこじ開けると、そこは私の部屋だった。
しかし、彩度が極端に低い。
世界全体が古びたモノクローム写真のように灰色にくすみ、空気はセメントのように重く凝固している。
私は布団の上に体を起こそうとしたが、指一本動かすことができない。金縛りだ。
視線だけが動く。
部屋の四隅。
タンスの隙間。
カーテンの裏。
何かがいる気配が、部屋の空気を振動させている。
ピチャ、ピチャ。
水音は近づいてくる。
廊下の方からではない。
枕元のすぐ横、私が放り出したスマートフォンの位置から聞こえてくるのだ。
私は眼球を限界まで動かして、枕元を見た。
そこに、男が立っていた。
父親だった。
十年前に死んだはずの父が、生前と同じ作業着姿で、私の枕元に直立している。
ただ、全身が酷く濡れていた。
髪からも、衣服の端からも、汚れた水が滴り落ち、畳の上に黒いシミを作っている。
あの腐臭だ。排水管から逆流してきたような、有機物が腐った甘い匂いが、強烈に鼻を突く。
父の顔は青白く膨張し、眼窩の奥は空洞のように暗い。
しかし、口元だけは確かに笑っていた。
唇の両端が不自然に吊り上がり、三日月のような形状で固定されている。
「……」
父は何も言わない。
ただ、ゆっくりと右手を持ち上げた。
土色に変色した人差し指が、真っ直ぐに伸びる。
指先が向けられたのは、私ではない。
父の指は、私の耳元で明滅する、スマートフォンを指していた。
そして、指先をくるりと反転させ、今度は私の口を指した。
耳と、口。
父の喉がゴロゴロと鳴り、割れたスピーカーのようなノイズ混じりの声が漏れ出した。
『……かわった』
言葉の意味を理解するより早く、父の顔が眼前に迫った。
眼窩の闇が、視界を埋め尽くす。
「うわぁっ!」
私は自分の叫び声で跳ね起きた。
心臓が肋骨を叩き折らんばかりに脈打ち、全身が冷たい汗で濡れている。
部屋はいつもの薄暗い色彩に戻っていた。
夢だ。
しかし、鼻孔に残る腐臭はあまりにもリアルで、畳の上には本当に濡れたシミがあるように見えた。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
荒い呼吸を整えようと胸を押さえる。
時計を見ると、午前三時三十三分。
不吉な数字の羅列に、理性が削られる音がした。
その時、枕元のスマートフォンが震えた。
ブブブブブ、ブブブブブ。
着信音は設定していないはずなのに、聞いたこともない低い電子音が鳴り響いている。
画面には『姉』の文字。
私は反射的に身を引いたが、昨夜の姉の言葉が脳裏をよぎった。
『今度、もしまた父さんを見たら、すぐに電話して』
姉は知っていたのだ。父が来ることを。
そして、これは警告なのだ。出なければならない。
私は震える手で端末を掴み、通話ボタンをスライドさせて耳に当てた。
スマートフォンは火傷しそうなほど熱を持っていた。
「……もしもし」
私の声は酷く掠れていた。
『……見た?』
姉の声だった。
しかし、昨日のような焦燥感も、怯えも感じられない。
むしろ、期待に満ちたような、弾むような響きを含んでいた。
「あ、ああ。見たよ。父さんが出た」
私は夢の内容を伝えようと、必死に言葉を継いだ。
「枕元に立ってて、びしょ濡れで……俺の携帯と、口を指差して……」
『そう。指差したんだ』
姉の声が、一段低くなった。
『ねえ、知ってる?』
「え?」
『父さんが指差すのはね、次に“移る”場所なの』
思考が停止した。
移る? 何が? 誰が?
『私、ずっと怖かったの。父さんが夢に出るたびに、周りで誰かが怪我したり病気になったりするから。次は私かもしれないって、ずっと怯えてた』
姉の口調が、滑らかになっていく。
まるで憑き物が落ちたかのように、軽やかに、楽しげに。
『でもね、わかったの。父さんは災厄を知らせに来てるんじゃない。父さん自身が、災厄そのものなのよ。誰かに憑きたくて、居場所を探して彷徨ってるの』
背筋が凍りつく。
昨夜、姉が言った言葉。
『変わったことは、ない?』
あれは、私の安否を気遣う言葉ではなかった。
「お前、まさか……」
『昨日、夢で父さんが私を指差した時、私思ったの。これを受け入れちゃいけないって。誰かに押し付けなきゃって』
受話器の向こうで、クスクスという笑い声が聞こえ始めた。
それは、夢の中で父が浮かべていた、あのニタニタという笑いと完全に重なる音だった。
『だから、あんたに電話したの。しつこいくらいにね。父さんの話をあんたに聞かせて、あんたに意識させて、あんたの夢に父さんを送り込もうとしたの』
「ふざけるな!」
『ごめんねえ。でも、ばあちゃんの怪我だけじゃ、父さんは満足しなかったみたいだから』
姉の声が、ノイズ混じりに歪み始める。
『あんたが電話に出た時点で、道は繋がったのよ。受話器を通して、私のところからあんたのところへ、父さんは移動したの』
私はスマートフォンを投げ捨てようとした。
だが、指が痙攣したように硬直し、耳から離れない。
まるで強力な接着剤で固定されたかのように、端末が皮膚に食い込んでいく。
『よかった。これで私は解放された』
姉の声が遠ざかっていく。
代わって聞こえてきたのは、あの水音だった。
ピチャ、ピチャ、ピチャ。
そして、耳元で直接囁くような、低い、湿った男の声。
『……かわった、ことは、ないか?』
それは姉の声ではなかった。
亡き父の声でもなかった。
もっと冒涜的で、形を持たない何かの集合体のような響き。
夢の中で父が指差したのは、私の「耳」と「口」。
それは、「聞くこと」と「話すこと」で伝染するというルールの提示だったのだ。
私は理解した。
姉は助かるために、私を生贄にしたのだ。
そして私は今、この話を聞いてしまった。
部屋の隅、灰色の闇の中に、誰かが立っている気配がする。
今度は夢ではない。
現実に、そこにいる。
電話は切れていない。
いや、切っても無駄なのだ。
回線は既に、私の内側へと繋がれてしまったのだから。
不意に、口元が勝手に歪むのを感じた。
頬の筋肉が引き攣り、三日月のような形を作ろうとしている。
喉の奥から、クスクスという乾いた音が漏れる。
それは私の意思とは無関係に、肺から押し出される空気の音だった。
私は今、猛烈に誰かに電話を掛けたくてたまらない衝動に駆られている。
この重苦しい「何か」を、誰かの耳に注ぎ込みたくて仕方がない。
アドレス帳を開く。
友人、同僚、昔の恋人。
誰でもいい。
「変わったことはない?」と聞いて、もし「ない」と答えたら。
その平穏な日常に、少しだけこの黒い水を垂らしてやればいい。
そうすれば、私は楽になれる。
姉がそうしたように。
私はニタニタと笑いながら、通話ボタンに指をかけた。
外の雨音は、いつの間にか、大勢の人間が拍手するような音に変わっていた。
今夜は、長い夜になりそうだ。
[出典:899 :あなたのうしろに名無しさんが・・・ :03/10/20 12:35]