中学一年の春、自分は朝刊の配達をしていた。
小遣いが欲しかっただけだ。任されたのは、地域でも一番高い団地だった。十数階建ての棟が一本、周囲の建物を見下ろしている。朝の霧のなかでは、建物の上半分だけが浮かび、下の階は白く溶けて見えた。
その団地では、何度か飛び降りがあったと聞いていた。何階からだったのか、何人だったのかは誰もはっきり言わない。ただ「上のほうで」という曖昧な言い方だけが残っていた。
配達は単純だ。最上階まで上がり、そこから階段で一階ずつ降りながら新聞を入れていく。毎朝同じ順路をなぞるうち、怖さは薄れた。建物はただのコンクリートの箱になった。
ある朝、一件だけチケットを入れ忘れたことに気づいた。十一階だった。エレベーターを呼ぶと、表示は最上階を示している。扉が開き、無人の箱に乗り込む。用事を済ませ、再び呼び出した。
表示は動かない。最上階のままだ。
ボタンを押して待っていると、数字が一つ下がった。十二階で止まる。カチリ、と乾いた音だけが廊下に響いた。そこには階段がある。もし誰かが乗ったのなら、足音がするはずだ。だが何も聞こえない。
数字はそのまま止まり、しばらく動かなかった。
自分は十一階の廊下で、エレベーターの扉を見続けていた。背中に汗がにじむ。誰もいないのに、誰かがこちらを見ている気がした。
やがて表示が変わり、箱は降りてきた。
扉が開く。
中に二人立っていた。
一人は背の高い影、もう一人はそれより小さい。どちらもこちらに背を向けている。手が触れているのかどうかも分からない。濡れた布の匂いがした。雨は降っていない。
二人は微動だにしない。こちらを見ない。自分がそこにいることを前提にしていない立ち方だった。
自分は乗らなかった。
扉が閉まる瞬間、表示を見る。行き先の数字は変わらない。十一階のままだ。だが、箱は上へ動き始めた。振動が足元から伝わる。表示は十一のまま、揺れだけが増していく。
最上階の数字は点灯しなかった。
どこまで上がったのか分からないまま、振動が止まった。
その日、自分は配達を辞めた。理由は言わなかった。団地の前を通らないようにして生活した。
だが、別の場所で働き始めてからも、時々エレベーターの表示が動かないことがある。数字は変わらないのに、上昇の感触だけがある。扉が開くと、誰もいない。だが、床には濡れた跡が二つ並んでいる。
上に向かう感触だけが、いつも残る。
どこが一番上なのか、自分はまだ知らない。
(了)