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境目に置いてきたもの rw+7,174-0117

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小学生の頃のことだ。

三十年以上前になるが、冬が来るたび、あの一日の感触だけは薄れない。

私は毎年、長期休みになると父方の祖父の家に預けられていた。東北の山間にある小さな集落で、雪に閉ざされる季節になると、時間の流れ方そのものが変わるような場所だった。囲炉裏の火、獣の皮の匂い、外の静けさ。祖父の家は、私にとって現実から少しずれた世界だった。

祖父は農業をしながら、かつてはマタギとして山に入っていた人だ。多くを語る人ではなかったが、夜になると、ときどき昔の話をした。熊を仕留めた話もその一つだった。矢を放った瞬間のことや、山に残った気配の話はするが、肝心な部分になると必ず言葉を切った。私はそれを、子どもに聞かせる話ではないからだと思っていた。

その年の冬も、祖父は私を迎え入れた。

「健太、大きくなったな」

それだけ言って、いつものように頭を撫でた。祖母はもういなかった。家には祖父と私だけで、夜は風の音が家全体を揺らしていた。

滞在して一週間ほど経った朝、私は集落の同い年の子ども二人と、山に入ることになった。秘密基地を作るつもりだった。

出がけに祖父が声をかけた。

「健太。《中つ森》だけは行くな」

その言い方は、いつもと違っていた。理由は言わない。ただ名前を出して、目を逸らした。

《中つ森》は、村の誰も近づかない森だった。子ども同士では名前を出すことも避けていたが、何があるのかは誰も知らない。ただ、大人も山に慣れた人間も、そこだけは避けていた。

その日は雪が止み、妙に静かだった。山に入ってしばらくすると、鳥の声が途切れ、代わりに音のない空間に包まれた。

「変じゃないか」

誰かが言った。確かに、寒くも暖かくもない。風が吹いているはずなのに、木の枝が揺れていない。

気づくと、鹿が斜面を駆け下りてきた。その後を追うように、鳥の群れが一斉に飛び立った。何かから逃げているようだった。

帰ろう、という話になり、引き返した。だが、歩いても歩いても、景色が変わらない。同じ倒木、同じ岩、同じ雪の割れ目。夕方になり、雪が再び降り始めた。

懐中電灯の光が、古い鳥居を照らした。色の剥げた木製で、傾いていた。

誰も口に出さなかったが、全員が分かっていた。
ここが《中つ森》だ。

鳥居をくぐった瞬間、空気が変わった。音が消え、雪の冷たさだけが強くなった。

そのとき、声がした。

「デテイケ」

耳元ではない。頭の中に直接、重く落ちてくる声だった。男とも女とも分からない。

次の瞬間、強い衝撃を受けた。身体が宙に浮いたような感覚と、右腕に走る激痛。何かに引かれ、叩きつけられ、そこから先の記憶が途切れた。

次に目を覚ましたとき、私は祖父の家の布団にいた。外は夜で、囲炉裏の火が赤く揺れていた。

祖父は何も聞かなかった。ただ、私の顔を見て、何度も「よかった」と繰り返した。

右手は、手首から先がなかった。

雪崩に巻き込まれたと聞かされた。詳しい状況は誰も教えてくれなかった。友人二人は無事だったが、何が起きたのかは語らなかった。

祖父だけが、ぽつりと言った。

「あそこは、山の中でも境目だ。踏み込んだものは、何かを置いてこなきゃ戻れん」

それ以上は話さなかった。

祖父が亡くなり、集落は開発され、《中つ森》はなくなった。鳥居も祠も、どこかへ移されたと聞いた。

今でも、冬になると、右手が冷える。失ったはずの指先が、雪に触れている感覚が残る。
夢の中では、あの森から、まだ呼ばれている。

置いてきたのは、手だけだったのか。
今も、分からない。

(了)

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