あの話を聞かされた夜から、峠という言葉を目にするだけで、喉の奥がわずかに乾く。
木村さんは、もともと怖がりではない。むしろ合理的で、山道を自転車で越えることも、閉まったドライブインの駐車場で一晩明かすことも、「計算のうち」だと言い切る人だった。
問題の夜も、計画は単純だった。峠の上にある古いドライブインで仮眠し、夜明けとともに町へ下る。夏とはいえ標高は高く、夜気は冷える。だが月は明るく、空は澄みきっていた。巨大な建物はすでに営業を終え、照明も落ち、ただ黒い塊としてそこに在るだけだったという。窓ガラスが月光を鈍く返し、内部の空洞を想像させる以外は、何も主張しない。
彼は自転車を壁際に立て、寝袋を広げた。舗装の冷たさが背中越しに伝わる。遠くで山鳥が鳴き、やがてそれも途絶えた。車の往来はなく、人の気配もない。音のない夜だった。
「こんな夜に、何か起きるはずがない」
そう思ったと、彼は後から淡々と語った。
眠りに落ちるまでの短い時間、彼は月を見ていた。白い円が稜線の上に静止し、風はほとんど動かない。静寂は、安心に似ていた。
目が覚めた瞬間、まず耳に触れたのは、空気の揺れだった。
風ではない。動物でもない。喉の奥から押し出される、人の音。
ひゅう、と裂け目を通るような声が、遠くから伸びてきた。
「……たす……」
言葉かどうかも判然としない。だが、人間の発声だと、身体が先に理解したという。
彼は半身を起こした。遭難者かもしれない。山中では珍しくない。助けを求める声なら、応じるべきだ。そう判断した自分を、彼はいまも否定していない。
「どうしました!」
声を張る。だが返答はない。
代わりに、その声は、わずかに近づいた。
最初は山の向こうから反響しているように聞こえたそれが、次第に位置を持ちはじめる。言葉は崩れ、意味を失い、ただ擦れるような音に変わる。助けを呼んでいるのか、何かを拒んでいるのか、判別できない。
そして、理解より先に、確信が訪れた。
――こちらへ向かっている。
耳で聞いたのではない。背中の内側で知った。
彼はもう一度叫んだ。返事を求めた。確認のために。
その瞬間、声は途切れた。
不自然なほど、きれいに。
夜が、膨らんだ。
山の闇が一段と濃くなり、駐車場の空間が急に狭まったように感じられたという。何もいないはずの背後に、密度が生じる。
振り向けば確かめられる。そう分かっていた。
だが、身体は動かなかった。
次の瞬間、耳元で、破裂した。
「おいで……くな……いでえぇぇぇぇぇ……!」
首筋のすぐ後ろ。息がかかる距離。
叫びは意味を含みながら、同時に否定していた。招いているのか、拒んでいるのか、どちらとも断定できない。声は喉を引き裂くように震え、すぐに消えた。
音が消えたあとも、そこに在る気配だけが残った。
木村さんは振り向かなかった。
振り向けば、何かを確定させてしまうと分かったからだと言う。
彼は這うように自転車へ手を伸ばし、ペダルを踏み抜いた。ライトを点ける余裕はなかった。月明かりだけを頼りに、坂を滑り下りる。背後を見ない。耳も塞がない。ただ前だけを見る。
それでも、追われている感覚は消えなかった。
声は聞こえない。だが、来るな、と言われた直後に、自分はその場から逃げている。その事実だけが、妙に引っかかったという。
峠を抜け、町の灯りが見えたとき、ようやく足を止めた。汗で手のひらが滑り、唇は乾ききっていた。
数年後、酒の席でこの話が出たとき、ある男がぽつりと言った。
「その裏手、昔から人が入るなって言われてる場所だよ」
理由は語られなかった。事故だとか工事だとか、具体的な説明は誰も持ち出さなかった。ただ、「入るな」という言葉だけが共有された。
あの夜の声は、「おいで」と呼んでいたのか。
それとも、「来るな」と拒んでいたのか。
もし後者だったなら。
木村さんが耳にした絶叫は、彼を引き込もうとする声ではなく、すでにそこにいる何かが、自分の側へ踏み込ませまいとする警告だったのかもしれない。
だとすれば、彼は何から逃げたのか。
そして、何を踏み越えかけていたのか。
それを確かめるために、もう一度あの峠へ行くという選択肢は、彼の中には存在しない。
存在しない、ということだけが、いまも残っている。
(了)