これは、自転車が趣味の木村さん(仮名)から聞いた話だ。
木村さんは週末ごとに長距離サイクリングに出かけるのが好きだった。少しでも空気の良い山間や海沿いを走り、時には夜を越えて走り続けることもある。あの夜も、ただの予定違いが、彼を奇妙な夜の出来事へと誘ったのだった。
あの晩、木村さんは山中の峠にあるドライブインで野宿をすることになっていた。そもそも峠を越えた先の町に宿を予約していたのだが、予想外に時間がかかり、到着が深夜を過ぎてしまった。
山中の道は人気がなく、次の町までの道のりを無理に進むのは危険だと判断した木村さんは、ドライブインの駐車場で仮眠を取ることにした。
閉店後のドライブインは静寂そのもので、車も人も通らず、月明かりに照らされた峠は不気味なまでにひっそりしていた。木村さんはサイクリング用の寝袋に潜り込むと、すぐに眠りに落ちていった。
どれくらい眠ったのだろうか。急に目が覚めた時、彼は周囲の暗さに少し驚きつつも、耳を澄ませた。何かが聞こえた気がした。薄暗い闇の中で再び耳を澄ませると、確かに遠くで誰かの叫び声が微かに聞こえる。
「・・・!・・・て・・・!・・・!」
何度も繰り返されるその声は、どうやら男性のもので、悲鳴というよりは言葉のように感じられた。
「こんな夜中に?」不気味さが胸をよぎったが、考えてみればこの山には有名なハイキングコースもあるし、道に迷った登山者が助けを求めているのかもしれない。木村さんは何とか声を届けようと、大声で呼びかけた。
「だいじょうぶですかー!どこですかー!」
だが、彼の声に応えるようにその男性の叫びは返ってこなかった。ただ、叫び声は相変わらず続き、少しずつ近づいてきている気がする。
「て・・・お・・・!」
言葉はかすれて、意味を成さない。ただ確かにこちらに向かってくる気配だけが、薄闇の中で確信に変わりつつあった。
不安に襲われた木村さんは、寝袋の中から起き上がり、もう一度全力で声を張り上げた。「けがはないですか? 返事をしてくださーい!」そしてまた耳を澄ませるが、次の瞬間、声は一旦ぴたりと止んでしまった。
辺りは再び静寂に包まれ、ただ山風の音だけが木村さんの耳に響く。今度こそ誰もいないのでは、と胸を撫で下ろしかけたその瞬間だった。
「お・・・い・・・!おいで・・・くな・・・いでえぇぇぇぇぇ!」
突然、背後からその声が再び響いた。木村さんの背後だ。間違いなく、今まで叫び声が聞こえていた方向と真逆の方から、その男の声がする。
「おいでくな・・・ないで・・・ぇぇぇぇ!」
その叫びは先ほどよりもはっきりと聞こえ、声の距離がすぐ近くにあるように感じられた。
反射的に寝袋から飛び出した木村さんは、その場を振り返ることなく、近くに置いた自転車へ駆け寄った。無我夢中でペダルを漕ぎ始める。全身が恐怖で固まり、叫び声がまるで背後からついてくるような錯覚に陥った。暗い峠の下り道を、全速力で駆け抜ける。月明かりがほのかに照らす細い山道の中、彼はただ必死に進むしかなかった。
その夜以降、木村さんは峠を通るルートを避けるようになった。再び夜の山道で耳を澄ますこともない。彼があの男の声が幻覚だったのか、あるいは本当に遭難者だったのか、その真相を確かめることは、二度となかったそうだ。
[出典:801 名前:あなたのうしろに名無しさんが…… 投稿日:2001/06/27(水) 15:24]