夜ごと、名前を呼ばれる。
低く、湿った声で、確かに私の名を。
盲目の住職、無庵和尚に随行し、恐山を訪れたのは十年以上前のことだ。あの巡礼から戻って以来、私は眠りの底で必ず同じ場所に立つ。硫黄の匂いが鼻腔を刺し、足元には無数の小石が積まれている。そしてその中のひとつから、女の声がする。私の名を、ゆっくりと呼ぶ。
当時の私は、まだ僧として未熟だった。経文は覚えていたが、死者の存在など半ば観念の産物だと考えていた。恐山という土地も、信仰と民俗が混ざり合った象徴的な空間にすぎないと、どこかで侮っていた。僧としての修行よりも、経験談として語れる逸話のほうに関心があった。
恐山の地は、想像よりも荒れていた。灰色の岩肌が露出し、草木はまばらで、風は乾いている。地面のあちこちに小石が積み上げられ、それぞれが小さな墓標のようだった。硫黄の匂いは強く、長く息を吸えば胸が焼けるようだった。
無庵和尚は、その石積みの前で立ち止まった。白濁した眼を空へ向け、静かに言った。
「ここにある石には、願いがある。怨みもある。冥界への橋渡しだ。触れてはならぬ」
声は穏やかだったが、命令だった。
私は頷きながら、心の奥で反発していた。石など、どこにでもある。ただの岩片だ。そう思っていた。
そのとき、ひとつの石が目に入った。ほかよりも小さく、角が丸く削れている。なぜかそれだけが、私を見ているように感じた。理由はない。ただ、妙に意識に残った。
私は周囲の視線を確かめ、さりげなくそれを袂に滑り込ませた。誰にも気づかれなかったはずだった。石は冷たく、軽かった。こんなもので何が起きるものかと、内心で笑っていた。
帰路の車中、異変は起きた。
舗装された一本道をバンが走っているとき、無庵和尚が突然、呻いた。
「……来ている」
車内の空気が止まった。誰も言葉を発せず、ただ和尚の次の言葉を待った。
「女だ。後ろを追ってくる」
運転手がバックミラーを覗き、助手席の先輩が振り返った。誰もいない。乾いた道路が続くだけだ。
「石を持ち帰った者がいる」
その瞬間、袂の石が重くなった。手を入れると、さきほどよりも冷えている。震える指で取り出し、掌に乗せる。
裏面に、文字があった。
墨のように黒く、滲んだ筆跡。女の名だった。知らぬ名だが、読み取れた。なぜ読めたのかは分からない。だが確かに、名だった。
「捨てよ」
和尚の声が響いた。
私は窓を開け、石を投げ捨てた。アスファルトに叩きつけられた石は、乾いた音を立てて割れた。
「割るな!」
無庵和尚が叫んだ。その声を聞いたのは初めてだった。
「元へ戻さねばならなかった。壊せば……帰る場所を失う」
車内の温度が急に下がった。息が浅くなり、手足の感覚が鈍る。
「女が……這ってくる。顔が潰れている。血を流しながら、まだ追ってくる」
誰も何も見ていない。だが、全員が同じ方向を見ていた。見えない何かを。
私はすべてを告白した。軽い気持ちだったと。記念に持ち帰ろうと思っただけだと。
無庵和尚はしばらく沈黙し、やがて言った。
「願いは、重さを持つ。触れれば、触れた者のものになる」
それ以上、何も言わなかった。
その夜から、私は高熱を出した。体温は四十度近くまで上がり、医者は原因不明と言った。喉が焼けるように痛み、水を飲むと血の味がした。
眠ると、部屋の床を擦る音がした。畳の上を、何かが這う。目を開けても、姿は見えない。ただ、布団の端がゆっくりと引かれる感触だけがある。
ある夜、喉元に冷たいものが触れた。指のようだった。力が入らず、声も出ない。耳元で、あの名が囁かれた。
朝、布団には赤黒い染みがあった。血のようにも見えたが、医者は鼻血だろうと言った。
私は僧院を去った。修行の継続は困難と判断された。体調不良が理由とされたが、私は知っている。あの女が、まだ近くにいることを。
十年経った今も、声は消えない。夢の中で、あの石の破片が散らばる。女はそれを拾い集めている。欠けた部分を探している。私の胸の内側に、まだひとつ残っているのだと告げる。
あの石は、外にあったのではないのかもしれない。
割ったのは、石だったのか。
それとも。
いま、背後で畳を擦る音がする。振り返らない。振り返れば、目が合う気がする。
私は逃げない。ただ、謝罪の言葉を繰り返している。
だが声は、私の名を呼び続ける。
石の裏に刻まれていたあの名と、私の名とを、同じ声で。
(了)