昔話だと思ってくれていい。そうやって笑ってくれたほうが、たぶん安全だ。
だが、これはじいちゃんの話であり、そして今は、俺の番の話だ。
じいちゃんは山で生きていた。遊びではなく、生活として山に入っていた。獣道の位置、茸の出る湿り、鳥の通り道。山の機嫌を読むことが、呼吸と同じだったらしい。
俺はその話を、ずっと武勇伝だと思っていた。
あの夏の話を聞くまでは。
*
じいちゃんがまだ子供だった頃。東海の山間の集落。六人兄弟の末っ子で、食い扶持を減らさないために山に入っていた。
その日、じいちゃんはいつもより奥へ入った。理由はない。ただ、今日は違う場所へ行こうと思っただけだと言っていた。
獣道を外れ、湿った草をかき分け、踏まれていない土を踏んだ。山は静かだった。風もなく、虫も鳴いていなかったという。
後ろで草が鳴った。
振り返ると、一羽の鶏がいた。
白く、妙に整った鶏だった。羽に泥がついていない。目だけが濡れているように光っていた。
鳴かない。
羽音も立てない。
ただ、首を傾けてじいちゃんを見る。
その奥に、屋敷があった。
二階建ての大きな家。門が開いている。庭に牛と馬が十頭ずつ並び、五羽の鶏が門前に立っている。
すべて黙っていた。
匂いがなかった。土の湿りも、獣の体臭も、糞も、花の甘さも。
音もなかった。
屋敷は、そこに“置かれている”ようだった。山の中に建っているのではなく、後からはめ込まれたように。
じいちゃんが一歩踏み出したとき、玄関が開いた。
音はしなかった。
内側は暗く、光を吸い込んでいた。
その瞬間、じいちゃんは理解したと言っていた。
「見つかった」と。
走った。獣に追われるより速く。だが、進むほどに下っていく。屋敷は背後のはずなのに、足は麓へ向かっていた。
気づいたら、山の入口に立っていた。
家に駆け込んで話すと、ひいばあちゃんの顔色が変わった。
「挨拶せんかったな」
その言葉だけだった。
すぐに神社へ連れていかれた。山の麓の、小さな社。
「黙って謝れ」
じいちゃんは頭を下げた。
それ以来、屋敷は見えなかった。
見えなかっただけだ。
*
俺は笑っていた。
だが先週、母ちゃんが言った。
昭和の終わり頃、家族で故郷に帰ったときの話だ。じいちゃんは突然、山へ登りはじめたという。
あの場所へ。
開けた草地で、じいちゃんは膝をついた。
「すまんかった……わしは出来なんだ……」
何を。
何が。
それを、母ちゃんは知らない。
だが、そのとき母ちゃんは見たと言った。
草が風もないのに揺れた。
白いものが、奥で動いた。
屋敷はなかった。
けれど、門だけがあった。
*
母ちゃんの話を聞いた夜、夢を見た。
山道を歩いていた。
俺は知っているはずの道を外れていた。
草の奥に、白い鶏がいる。
鳴かない。
目だけが濡れている。
その向こうに、門がある。
屋敷は見えない。
門だけがある。
門の内側から、声がした。
謝りに来たのか。
目が覚めた。
朝、玄関の外に泥が落ちていた。
山の土だった。
俺は山に入っていない。
入っていないはずだ。
じいちゃんは「出来なんだ」と言った。
何を出来なかったのか。
挨拶か。
連れて行かれることか。
それとも、誰かを渡すことか。
サイ〇〇サマ。
名前は曖昧なままでいい。
あれは呼ぶための音ではなく、こちらを区別するための音だったのかもしれない。
屋敷は消えていない。
見えないだけだ。
門はある。
あの山は、今もそこにある。
俺はまだ、挨拶をしていない。
次に山へ入るのは、俺だ。
そしてもし、お前があの辺りの山に入るなら。
門を見ても、近づくな。
挨拶を求められても、返事をするな。
あれは、見つけた側が選ばれるのではない。
見た側が、数に入る。
[出典:313 :本当にあった怖い名無し :2009/04/29(水) 17:53:45 ID:NX8Hv8u50]