昔2ちゃんに書いた話なんだけども、前職を辞めて起業するまでの生活費を稼ぐべく、パン工場で深夜のバイトをした際の話。
練りから、一個あたりの分量は機械がやってくれる。
バイトはそれを成形して鉄製の焼皿(パン)に載せる。
紛らわしいから『焼皿』で統一します。
定数の生パンを載せた焼皿は、キャリアと呼ばれる台車に乗せる。
一台に五〇皿。
それが一杯になったら発酵室に入れて、イースト菌がパンを膨らませてくれるのを待ち、その後ベルトコンベアーの焼窯に焼皿毎、押し込む。
鋼鉄の網に乗った焼皿は、三〇メートルほど移動する間に電熱で、こんがりと焼き上がるわけ。
楽なのは成形係。
せわしないけれど別に筋力は使わないから。
大変なのが焼窯に入れる係。
キャリアを引き出して焼皿を両手にそれぞれ持ち、五皿まとめて窯に一列で押し込まなきゃならない。
生パンが載った焼皿は普段持つには大した重量じゃない。
でもそれをタイミングを合わせて延々と繰り返しつつ、空になったキャリアを片付け、新しいキャリアの支度をするからせわしないし、筋力も使う。
(特に手首への負担は著しい)
白衣の下は汗まみれ。
マスクが呼吸を邪魔してくれるんだ。
次に大変なのは焼き上がったパンを焼皿からおとし、焼皿をある程度纏めて回収用コンベアに乗せる係だ。
熱気をもろに喰らうし、うっかりすると火傷する。
バイト連中は女性は成形担当。
男で筋力がありそうな奴が交代で窯入れと取り出しをやらされて選抜された。
器用貧乏が祟って俺が窯入れ担当にされちまって。
きついが生活のため。
一番大変なのに給料は変わらず、焼き上がるのを待つ間成形は休憩を取っているのに、窯入れと窯出しは休憩一切無しという差別にも耐えて頑張っていた。
手首が腱鞘炎になったな。
そのうち、夜出勤した俺は社員から怒られた。
「終了後、窯の電源を落とさなかっただろ。朝三時に食パンを焼いた班から文句言われたぞ。真っ黒になっちまって時間が遅れたぞ」と。
罵倒をすべて省いての意訳。
んなばかなと思った。
前職の習慣で指さし確認する癖をつけていたから。
でも現実は現実。
腑に落ちないが謝った。
それが数度続いた。
普通配置換えか首になるはずだが続行。
優男ばかりだから我慢しているんだろうと想像していた。
でも繰り返される電源落とし忘れには正直首を傾げていた。
ある夜、釜入れを終えた俺はトイレに走り、そして袋詰め兼クリーム入れ加工場に急いでいた。
でも途中で少し馬鹿らしくなった。
誰もいない休憩室に急ぎ戻って、缶コーヒーを流し込んだ俺は加工室に向かって小走り。
途中で釜の前を通る。
と、社員専用の作業服を着た若い男が、俺が落とした電源を入れ直していた。
あれ?と壁の時計をみれば一時五分すぎ。
『三時まで使わないのになぜだ?』と正直首を傾げた。
と、はめ直していたゴム手袋の片方を落としてしまった。
舌打ちしながら拾い上げ、焼窯に目を戻したときその社員はいなくなっていた。
でもうるさい社員が監督しているからと先を急いだ。
床におとしたゴム手を交換するためにちょっと寄り道はしたな。
結果文句を言われた。
少々鬱憤がたまっていた俺は、
「トイレと缶コーヒーを駆け足で済ませました。生理現象はしょうがないでしょう。全く休憩無しで続けられると思いますか」
と文句を言ったさ。
そうしたらキレられた。
窯の電源云々も持ち出して怒るから、
「指さし確認もしてから離れていますよ。誰かがそのあとブレーカーを入れているんじゃないんですか?そういえば今も社員が電源入れてましたよ」
とつっけんどんに返した。
急に言葉を飲み込んだ社員、仕事をしろと言い捨てて加工場から出ていった。
周りのバイト仲間は
「逆らうな、俺たちまでとばっちりを食らうじゃないか」
とか言っていた。
文句を言わないのは窯出しの彼だけだったな。
戻ってきた社員が俺に「社員が電源を入れていたんだな」と詰問。
あなたと同じ服を着てましたよ、と答えた俺はもう一つ思い出した。
「黒縁の眼鏡を掛けた若い男ですよ。痩せていて、身長はあなたくらいの」
いつも怒ってばかりいるその監督役、それを聞いて少し顔色を変えた。
その日はそれでお終い。
三日ぐらいしてまた怒られた。また電源入れっぱなしだとね。
延々と繰り返される罵倒に向かっ腹が立つ。けど何とかこらえた。
その日の窯入れと後片付けを終えた俺はトイレを悠々と済まし、普段は縁がないと諦めていた喫煙ブースでゆったりとタバコを吹かし、コーヒーを味わってから加工場に向かった。
と、先日見た若い社員がまた釜のブレーカーをあげている。
『この人が点検か何かしたあと、切るのを忘れているのかも!』
閃いた俺は、その人の背中に呼び掛けた。
「点検ですか?」
背中を向けたままその人は電源を入れ、ダイヤルを弄り続ける。
ブレーカーは八個。温度調整ダイヤルは七個。
ブレーカースイッチの一つはベルトコンベアの電源。
速度は一定なので温度を調整して焼加減を決める。
『ゴウン』とコンベアが動き出した。
無視されて更に気分がささくれた俺は、その人の真後ろへ。
「寺島班で釜入れやっている首藤です。失礼ですが点検後電源カットしていますか?入れっぱなしだと何度も注意されているんですが、私は切っているんですよ!」
ゆっくりと男が振り向いた。
分厚いレンズを古くさい黒いセルフレームが取り巻いている。
その奥の目は俺を見ていない。表情もない。
色白な肌に伸び始めたヒゲが目立っていた。
男は私を無視して歩き始める。
なんだこの小僧、とむかついた俺は左胸の名札を確認。
『松木』だ。
低く唸るコンベアの音に負けじと声を張り上げた。
「答えて下さい。電源落としていたのをあなたが作動させたんですよね!」
完璧に無視された。
松木はそのままスイッチパネルのある側の反対側に歩き、釜の入り口側側面にパネルがあるD型倉庫を長くしたような焼鎌の向こう側に行った。
床近くのパネルを開けてリレーを確認しはじめた。
こうまで無視されたら仕方がない。
ぶつくさ言いながら加工場に。
案の定怒鳴られた。
「なにしていた!」
「我慢していた小便をして、それから手首を冷やしながらタバコで一服し、ここに来る前に釜を弄っていた松木さんに無視されてー」
「誰だって?」
「松木さんですよ。先日、黒縁眼鏡の社員と私が言ったその人ですよ。今日は名札も確認しました。松木さん、また電源入れていましたよ。窯の温度は最強で」
まじまじと見詰められたがどうでもよかった。
両腕パンパン。
手首の鋭い痛みは一日中続く。
挙句にこの社員も成形担当も休息しているのに俺たちは。
窯出し要員も俺と同じ不満を抱いていた。が、彼は我慢強かった。
「松木?」
耳が遠いのか?
自分の怒鳴り声で鼓膜を痛めたかと言いたくなったが頷く。
「今も釜にいるのか?」
「反対側のボックス開けてリレーを覗き込んでいましたけど、今はどうだか知りませんよ」
真っ青になった社員はドアを開け、釜とは逆方向に走っていった。
作業を終えてもその社員は戻らず。
普段は見ない壮年の社員が来て俺たちをねぎらい、俺だけを話があると休憩所に誘った。
面倒くさい、さっさと帰宅して風呂に入りたいと思うが我慢し付いていく。
休憩所で缶コーヒーと、俺たちが作った焼たてのパンを振る舞われた。
俺は缶コーヒーだけ流し込んで社員が話しかけるのを待った。
「さっきの件だけど。松木という名札をつけた男を見たんだね」
またあの眼鏡か、と面倒くさくなった俺は頷いて返事に替えた。
「そうですか」と呟くように言った社員はまじまじと俺を見る。
「昼の部に異動してほしいんだけど」
「昼は起業準備で忙しいのでちょっと。なぜですか」
溜息を吐いた社員はぼつりぼつりと話した。
・松木という社員は今は居ない。五年ほど前まではいたが、交通事故で死んだ。
・たまに焼窯の電源が入っていて早朝番が大変な目に遭う。(生パンは必要数の一割増しで用意する。不良品がどうしても生じるから、少し多めに作ると必要数を満たせるわけ。でも窯が過熱しているとオシャカが連続して、員数を満たせないから)
・いままでは不注意だとしていた。(つまりは窯番に責任を押しつけてお終いだったんだろう)
・窯以外でもトラブルが時たまあった。
・時々、死んだはずの松木を工場内で見たという話はあった。(でもあり得ない話だし、見たという人は古い社員に限られていた。だからつまらない怪談だとして無視した)
・でも君の話は今までと違う。特徴も正しい。(眼鏡と身長体格程度の報告だけど)
……などなどね。
「昼への移動は無理か。でも君は菊地君と合わないみたいだし。困ったな」
ああ、と鈍い俺も、ようやくわかった。
確かに俺はあの社員とそりがあわない。
皆は我慢しているけれど、どうも俺は無理っぽい。
それに噂になると困るから、早々に今のシフトから俺を外したい。
でもそれが無理なら……
俺はその日でバイトを辞めた。
シフト仲間には話さないでと言われて頷いた。
十年ほど過ぎた今、思い返してみて。
本当に松木が幽霊だったかどうかは知らない。
監督に嫌われすぎた俺を排除するための芝居かもしれない。
腱鞘炎は、三年ほど前に漸く完治した……
(了)