私は自分のことを、自分で説明できない。
記憶というものは、私の中では粗末な布切れに似ている。少し力をかけるだけで縫い目が裂け、縫い留められていたはずの中身が、音もなく零れ落ちていく。
小学校の記憶は、ほとんど残っていない。
教室の窓から差し込む光の角度や、廊下に漂っていたワックスの匂い、机の天板に刻まれた無数の傷。そうした断片だけが、無関係に浮かんでいる。
友達がいたはずだという事実だけは理解している。運動会も、学芸会も、百人一首もあった。だが、誰と並んで座り、誰の声を煩わしく感じ、誰の笑顔に救われていたのか。そこだけが、きれいに削り取られている。
まるで、私という存在の輪郭だけを残し、中身を少しずつ消していく作業が、どこかで続けられているようだった。
中学に入ると、それはさらに顕著になった。
教室の空気の重さや、制服の布が肌に擦れる感触は思い出せるのに、顔が浮かぶ人間が一人もいない。
卒業アルバムを開いたことがある。並んだ写真には、確かに自分が写っていた。だが、隣にいるはずの級友たちは、名前だけが印刷され、人物としての実感が伴わない。
私は、誰とも関係を結ばずに、そこに「在籍」していたのだろうか。そう考えると、胸の奥が冷えていった。
高校生になり、アルバイトを始めた。自由に使える金が増え、私は映画にのめり込んだ。
週に何本もビデオを借り、夜通し観続けた。胸が熱くなり、涙で視界が滲むほど感動した作品も確かにあった。
だが翌朝になると、タイトルが思い出せない。ストーリーを語ろうとすると、言葉が空回りし、要点が抜け落ちる。
映画館の暗さや、椅子の硬さだけが記憶に残り、肝心の映像は、幕が上がった瞬間から黒く塗り潰されている。
ある日、友人に聞かれた。
「昨日観た映画、どうだった?」
私は沈黙し、俳優の名前と舞台になった街の名前だけを絞り出した。
内容が出てこない私を見て、友人は笑いながら言った。
「お前、記憶力ヤバくない?」
その場は笑ってやり過ごしたが、私の背中には冷たい汗が流れていた。
恐ろしかったのは、意識して記憶しようとした時だ。
友人と衝突し、その場で何度も謝罪し、反省の言葉を繰り返し、和解したことがある。
「もう同じことはしない」
そう誓った翌日、私は気づいた。
何について反省したのか、思い出せない。
約束だけが残り、その理由が丸ごと消えている。
結果、私は同じ過ちを繰り返した。
「また同じことを言ってる」
「前にも聞いた」
そう言われるたび、私の中で何かが凍りついた。自分が信用を失っていく過程だけは、異様なほど鮮明だった。
電話で友人と話す時、私は紙に書きながら会話をするようになった。
口では笑い、相槌を打ちながら、手元では必死に言葉を記録する。
通話が終わったあと、そのメモを見返して、ようやく理解する。
私は、こういう話をしていたのか、と。
私自身が、私の行動を後追いで確認している。その事実が、ひどく気味が悪かった。
最初は、単なる物覚えの悪さだと思っていた。
だが、これは健忘とは違う。
一つをはっきり覚えようとすると、それ以外が消える。
映画の台詞を暗記した翌日、誰と観に行ったのか思い出せない。
友人の顔や声が、輪郭ごと霧に溶ける。
空白は、静かに広がっていった。
一度失われたものは戻らない。
削り取られた部分は、最初から存在しなかったかのように扱われる。
先日、奇妙な夢を見た。
教室に座っている。黒板、机、椅子。夏の光。
だが、私以外に誰もいない。
私は確かに誰かの名前を呼んでいた。
声を出した瞬間、黒板に文字が浮かび上がった。
削除完了

それを読んだ途端、目が覚めた。
シーツは汗で濡れていた。
何が削除されたのか。
それを考えようとした瞬間、思考が途中で途切れた。
最近、鏡を見るのが怖い。
映っている顔に、確信が持てない。
この顔が自分だと、どうして分かるのか。
そう考えた瞬間、違和感が生じる。
目鼻立ちではなく、「一致している」という感覚そのものが、揺らぐ。
今も、何かを書いているという自覚だけがある。
だが、これを書いている理由は、すでに曖昧だ。
ページを埋めている文字列が、本当に自分のものなのかも分からない。
もし、これを読んでいる誰かがいるなら。
私が、ここに存在していたという事実だけは、覚えていてほしい。
それさえも、いつ消えるか分からないのだから。
[出典:689 :あなたのうしろに名無しさんが……:02/07/07 23:42]