長編 定番・名作怖い話

【名作・定番】オオカミ様 宮大工シリーズ・まとめ【1~14話/全話コンプリート・【ゆっくり朗読】11980-0113

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(1)オオカミ様の神社の修繕

俺が宮大工見習いをしてた時の話。

だいぶ仕事を覚えてきた時分、普段は誰も居ない山奥の古神社の修繕をする仕事が入った。

だが親方や兄弟子は、同時期に入ってきた地元の大神社の修繕で手が回らない。

「おめぇ、一人でやってみろや」
親方に言われ、俺は勇んで古神社に出掛けた。

そこは神社とはいえ、小屋提程度のお堂しかなく、年に数回ほど管理している麓の神社の神主さんが来て掃除する位。

未舗装路を20km程も入り込んで、更に結構長い階段を上って行かねばならない。

俺は兄弟子に手伝ってもらい、道具と材料を運ぶのに数回往復する羽目になった。

そのお堂は酷く雨漏りしており、また床も腐りかけで酷い状態だった。

予算と照らし合わせても中々難しい仕事である。

しかし、俺は初めて任せられた仕事に気合入りまくりで、まずは決められた挨拶の儀式をし、親方から預かった図面を元に作業に掛かった。

この神社はオオカミ様の神社で、鳥居の前には狛犬ではなくオオカミ様の燈篭が置いてある。

俺は鳥居を潜る度に、両脇のオオカミ様に一礼する様にしていた。

約一ヶ月経過し、お堂がほぼカタチになってきた。

我ながらかなり良い出来栄えで、様子を見に来た親方にも、「なかなかの仕事が出来ているな」と褒めてもらった。

それで更に気合が入り、俺は早朝から暗くなるまで必死で頑張った。

ある日、内部の施工に夢中になり、ハッと気付くと夜の10時を過ぎていて、帰るのも面倒になってしまった。

腹が減ってはいるが、まあいいかと思い、「オオカミ様、一晩ご厄介になります」とお辞儀をして、お堂の隅に緩衝材で包まって寝てしまった。

どれくらい眠っただろうか。

妙に明るい光に「ん……もう朝か?」と思って目を開けると、目の前に誰か座っている。
あれ?と思い身体を起こすと、日の光でも投降機の光でもなく、大きな松明がお堂の中にあり、その炎の明るさだった。

そして、明るさに目が慣れた頃に、目の前に座っていたのは艶やかな長い髪の巫女さんだった。

「○○様、日々のご普請ご苦労様です」
鈴の鳴るような澄んだ声が聞こえると共に、彼女は深々とお辞儀をした。

「ホウエ?」
俺は状況が飲み込めず間抜けな声を返しながら、お辞儀でさらっと流れた黒髪に見惚れてしまった。

「我が主から、○○様がお堂にお泊りなのでお世話をする様にと申し付けられ、ささやかでは有りますが、酒肴をご用意して参りました」
彼女が料理と酒の載った盆を俺の前に置く。

盆の上には大盛りの飯、山菜の味噌汁、大根や芋の煮物、渓流魚の焼き物、たっぷりの漬物。

そして、徳利と杯が置いてある。

「さ、どうぞ」
彼女が徳利をもち、俺に差し出す。俺は良く解らないまま、杯を持ちお酌をしてもらった。

くっと空けると、人肌ほどの丁度良い燗酒で、甘くて濃厚な米の味がした。

「……旨い!」
俺が呟くと、巫女さんは「それはようございました」と、涼やかな微笑みで俺を見つめた。

途端に腹がぐうと鳴り、俺は夢中で食事をした。

巫女さんは微笑みながら、タイミング良くお酌をしてくれる。

食べ終わり、巫女さんがいつの間にか用意してくれたお茶を飲みつつ、「ご馳走様でした。ところで貴女は、ココの神主さんの身内の方か何かですか?」と聞いてみた。

「ふふ、そのような物です。お気になさらず」
巫女さんは膳を片付けながら答えてくれた。

突然俺は猛烈に眠くなってきて、もう目を開けているのも苦痛なくらいになった。

「お疲れのようですね。どうぞ横におなり下さいませ」
巫女さんはふらつく俺の頭を両手でそっと抱え、彼女の膝の上に乗せてくれた。

彼女の長い黒髪が俺の顔にさらっと掛かる。

彼女の黒髪に似合う髪飾りってどんなのだろう、と柄でもない事を考え、暖かく柔らかな感触を頭に感じつつ、俺は深い眠りに落ちていった。

「おい、○○。起きろや」
親方の声で目を覚ました俺は、バッと飛び起き時計を見る。

朝の7時。目の前には、ニコニコした親方と神主さんが居る。

「あ、すみません親方。昨夜遅くなったんで、泊まっちまいました」
俺は親方にどやしつけられるかとビクビクしながら謝った。

「ふ。お堂の中で一晩過ごすなんざ、おめぇもそろそろ一人前かぁ?」
なぜか嬉しそうな親方。なんとか怒られずに済んだようだ。

「あ、神主さん、昨夜はありがとうございました。食事届けていただいて」
「はぁ?なんですかそれは?私は存じませんが?」
「え?だって神主さんのお身内だっていう巫女さんが、酒と食事を持ってきてくれて…」
「いやあ、あなたがお堂に泊まってるのに気付いたのは今朝ですよ。

朝、様子を見に来たら、あなたの軽トラが階段の下に止まっていたので、何か有ったのかと思って親方に連絡して、一緒にお堂に来たのですが…」
「え?そんなはずは…?」
戸惑う俺を見て、親方が大笑いしながら言った。

「大方、腹減らしながら寝ちまったから、そんな夢を見たんだろうよ。

それか、オオカミ様がおめぇの働き振りを気に入って、ご馳走してくださったかだ。

まあ、後でお礼の酒でも納めれば良いんじゃねえか」

一週間後、無事に竣工した神社を奉納する儀式も終わった。

俺は休日に一人で神社に行き、酒と銀細工の髪飾りを納めた。

帰りに鳥居を潜ろうとしたとき、お堂の前に間違いなく誰かが居る様な濃厚な気配を感じて、振り向きそうになったが、そのまま一礼して階段を降り始めた。

(2)稲荷神社の修繕

俺が宮大工見習いを卒業し、弟子頭になった頃の話。

オオカミ様のお堂の修繕から三年ほど経ち、俺もようやく一人前の宮大工として仕事を任されるようになっていた。

ある日、隣の市の山すそにある神社の神主さんが現れ、その神社で管理している山奥の社の修繕を頼みたいと依頼してきた。

俺は親方からその仕事を任され、弟弟子を連れて下見に出掛けた。

その社も相当山奥にあり、依頼してきた神社の裏山に三十分ほど入り込んだ場所にあった。

その神社は稲荷神社で、もちろんお狐様を奉っている。

社の状態は相当酷く、また神主さんもこの一年掃除にも来れなかったと言うだけ有り、汚れ方も大層なもので、最初の掃除だけで丸一日掛かってしまった。

それから一週間ほど修繕の計画を立て、図面を引き、神主さんと打ち合わせをして、4トントラックに道具と材料を積み込み弟弟子一人と作業に出掛けた。

何時も通りに着工の儀式をしていると、先ほどまで晴れていた空が掻き曇り、大粒の雨が振り出した。

神主さんと俺たちは急いで社の中に逃げ込み、一次祈祷は中断した。

その時、弟弟子が「社に入る前に大きな尻尾の狐を見た」と話し、俺は「修繕するのを待っていたお狐様が様子見に来たのだろう」と半分冗談で返した。

しかし、神主さんはなぜか青い顔をしてガタガタと震えており、不振に思った俺が「どうかなさいましたか?」と聞くと「い、いやなんでもない。ちょっと気分が悪いだけだ」と答えた。

そして、雨が止んだあと、神主さんは大急ぎで祈祷を済まし逃げるように帰ってしまった。

俺と弟弟子は、そのまま作業に掛かった。

一週間ほどは平穏に作業が進み、痛んだ箇所を粗方剥ぎ終わり、思ったより酷く痛んでいるので俺は修繕の為の計画を再構築する為に一日現場に行かず、弟弟子を一人で片付けにやらせた。

ところが、5時には事務所に帰るように言っておいた弟弟子が帰ってこない。

今の様に携帯電話が普及してる頃ではないので連絡も取りようが無く、6時まで待って帰ってこないので仕方なく俺も社まで行くことにした。

薄暗くなる頃に社に着くと、ヤツの軽トラが未だ停まっている。

俺は階段を上り、いつも通りお狐様に一礼をしてから鳥居をくぐり、歩き出した。

と、その時俺の背中にに何かが「コツン」とぶつかった。

「?」俺が振り向くと、別に何も居ない。

足元を見ると、多分俺の背中に当たってであろう小石が落ちている。

何気なくそれを拾い上げてみると、それは小石ではなく蛇の頭だった。

「うおっ!」驚いた俺はそれを取り落とし、もう一度周りをよく見回してみた。

しかしやはり誰も居ない。

急に不安に駆られ、俺は社に向かって駆け出した。

社の戸を開けた瞬間、何かが猛スピードで俺の脇をすり抜けた。

俺はとっさにそれを捕まえようと振り向き様に掌で掴もうとした。

長い毛を掴んだ感触が有ったが、スルリとすり抜けて捕まえ損なってしまった。

しかし、俺の目にははっきりとした姿は全く見えなかった。

ふと掌を見て見ると、其処には金色の長い毛が数本握られていた。

社の中で、弟弟子は昏倒していた。

急いで抱き起こし、喝を入れたが意識は戻らない。

俺は彼を抱き抱え、急いで神主さんの居る本社へ車を走らせた。

神主さんに事情を話し、神主さんに救急車を呼んでもらうようお願いし、電話を借りて親方に連絡を入れた。

親方は直ぐにこちらへ向かうと答え、電話を切った。

まもなく救急車と親方がほぼ同時に着き、救急車には親方と一緒に来た別の弟子が同乗していた。

俺は親方に今日有ったことを報告し、親方は青い顔をして振るえている神主さんを緩やかに問い詰めた。

神主さんが語り始めたのは、夢の話。

半年ほど前から神主さんの夢枕に時々大きな狐が現れ、社を放ったらかしている事を詰り始めたという。

しかし、神主さんは忙しいのに紛れ更に放置していた所、一ヶ月ほど前に恐ろしい形相の狐が現れ もう待てないから祟ってやる と言い放ち、それからは夢に出てこなくなってしまった。

その後直ぐに神主さんの娘さんが交通事故で大怪我をし、未だ入院中である事。

奥さんが階段から落ち、やはり大怪我をしてしまった事。

そして飼い犬が何者かに攫われ、翌朝 耳と鼻が ポストに入っていた事。

その辺りで神主さんは祟りが始まったと感じ、ウチに修繕を依頼してきたそうだ。

親方は話を聞き終えると目を瞑って考えていたが、目を開くと俺に向かって「○○、この仕事は断った方が良いかもしれんな」と言ってきた。

神主さんは驚いて「そ、そんな!一度受けたのを今更!」と叫んだが

「あなたがそういう事情を話してくれなかったのは重大な違反だ。うちらの仕事は、人様の為だけではなく神様・仏様にも喜んでもらう為の仕事。

そういう事情がハナから解ってれば色々と手の打ち様も有ったが、今からじゃ遅いかもしれん。それはあなたも良く解ってるはずだ。神主の端くれであれば、な」

俺はこんなに怖い親方を見たのは初めてだった。

見習いの頃、怒鳴られたりぶっ飛ばされたりした時も怖かったが、それとは種類の違う怖さだった。

親方の迫力に押され、しょぼんとした神主さんを見ていると俺は無性に可哀想になってしまった。

そして、「親方の言う事も尤もですが、一度受けた仕事、俺はやり遂げたいと思います」と答えた。

親方は またも目を瞑りしばらく考えていたが、「うむ。お前はオオカミ様に気に入られたことも有るしな」と言い、「よし、それじゃあやれる所までやってみるか。但し、もし異常が続くようなら即座に中止だ。神主さんもそれで良いですね?」と続けた。

神主さんは「は……はい」と救われたような表情で頷いた。

俺は、オオカミ様の一件を親方が覚えていたのに驚いた。

弟弟子が入院している病院に行き、まだ意識の戻らない彼を見舞って帰る途中、親方が「……おめぇ最近オオカミ様の所に詣でてねえだろ?」と聞いてきた。

「……オオカミ様って、前に俺が一人で修繕した?」
「そうだ。おめぇがご馳走になったオオカミ様だ」
「はあ……もう二年ばかり伺ってませんが……」
「明日、夕方に詣でて来い。で、神主さんには連絡しとくから、まず神主さんトコ行って守り札二枚貰ってからオオカミ様のお堂に行くんだ。こういう時の守り札は貰っただけじゃダメだ。それを持って直接お堂にお願いに上がって、魂を込めてもらわにゃな。もちろん、酒を忘れんなよ。あと、おめぇが良いと思う女向けの飾りモノでも買ってけ」
「はい、解りました。ところで、稲荷様の工事はいつから再開しますか?」
「おめぇが明日の夕方、守り札を無事に持って帰れたら、明後日から掛かることにしよう」
「無事にって……?」
「二枚のうち一枚はおめぇが持て。もう一枚は入院したXXに届ける。いいな」
親方はそれ以上口を開かず、黙って目を瞑ってしまった。

翌日の夕方、俺は神主さんから守り札を頂き、久しぶりにオオカミ様のお堂へと向かった。

相変わらず舗装されていない道を走っていると、道の端にさっき守り札を頂いたばかりの神主さんが立って手を振っている。

あれ、いつの間に?と思いつつ車を停め、「どうしたんですか?」と聞くと「いやあ、さっき渡したお札、間違えたやつを渡してしまったんだ。こっちが正しいヤツだから取替えよう」と新しいお札を出してきた。

「はあ、そうですか。それでは……」とお札を出そうとしたら突然森の中から「ぐるるるる……」と犬が唸る様な声が聞こえてきた。

「ひっ!」神主さんは跳びずさり、辺りをキョロキョロと見回している。

その顔が明らかにおかしい。

正面を向いているときには普通なのだが、横を向いたときの鼻と口が妙に尖がっている。
俺はハッと我に返ると、神主さんに「後で社務所に伺います!」と叫び車を急発進させた。

「まて!そのお札ではオオカミは守ってくれんぞ!」この声で俺は確信した。

あの神主さんがオオカミ、などと呼び捨てになどする訳がない。

また、俺に対してもですます調の丁寧な言葉使いだった筈だ。

俺は車を走らせ、何とかお堂下の階段まで辿り着いた。

そして車を停め、階段を駆け上がろうとした。

しかし、なぜか妙に足が重い。

そして、幾ら階段を上がっても頂上が見えてこない。

俺は立ち止まると、お札を頂くときに神主さんに教わった通り大きく深呼吸をして、目を瞑って大声で叫んだ。

「オオカミ様!お助けください!」
「ーーーーーーっんん…………」
俺が叫ぶのと重なるように、聞こえるかどうか、耳鳴りに近い位に遠吠えのような声が聞こえた。

そしてそっと目を開けると、階段の頂上が見えている。

階段を上りきり懐かしいオオカミ様の燈篭に一礼し、鳥居を潜ると今まで重かった足が嘘のように軽くなった。

そしてお堂の前まで行くと、お札を二枚お堂の前に捧げ神主さんに教わったとおりに祈祷をした。

そしてお酒と新しい髪飾りを納めて帰るために鳥居を潜った。

すると、鳥居の真下に光る物が落ちている。

それを拾い上げると、なんと以前俺が納めた銀細工の髪飾りだった。

所々に撫で回して出来たようなスレた跡が有るが、それはピカピカに光っていてずっと落ちていたとは思えない。

はっと思い、お堂の前まで戻ってみると酒はまだ有ったが、一緒に納めた髪飾りは無くなっていた。

帰り道、俺の車に沿うようにして森の中を何かがついてくる気配がしていた。

しかし、それは全く怖くなく、逆に安心感と懐かしささえ覚える程だった。

その後、工事は無事に進み、また入院した弟弟子の意識も戻った。

ただ、彼には倒れる前の記憶が全くなく、まさに狐につつまれたようだった。

後日、親方が料亭で彼の退院祝いと稲荷様のお堂の竣工を祝って内輪で宴会を開いてくれた。

その席で、酔った弟弟子がこんな話を始めた。

「○○さん、実は昨夜夢を見たんです。銀の髪飾りを付けた髪の長い巫女さんが、○○さまによろしくお伝えくださいませ、と言ってニコニコしてる夢。

あと、切れ長の眼をしたちょっと怖そうなおねえさんがその巫女さんに踏んづけられてて。変な夢でした」
それを聞いていた親方は口に含んだ酒をぷっと吹き出し大笑いして、「そりゃおめぇ、稲荷さんが、オオカミさまに、コテンパンにやられちまったんじゃねえのか?明日、俺も行くからオオカミ様と稲荷さんの所に挨拶にいくべえよ」とまた酒を口に含んだ。

俺はちょっと不満だったが、巫女さんの涼やかな笑顔を想い出し、きゅっと酒をあおった。

(3)A村の氏神様

とある秋の話。

俺の住む街から数十キロ離れた山奥に有るA村の村長さんが仕事場を訪れた。

A村の氏神である浅間神社の修繕を頼みたいという。

A村は親方の本家が有る村であり、親方は直ぐにその仕事を引き受けるかと思いきや、なにやら難しい顔をしている。村長さんが必死で頼み込んでいるのを横目にしながら、俺は欄間の仕上げをしていた。

村長さんが帰った後、俺は親方に呼ばれた。ちょうど担当の現場を終えた所で手が空いていたので、きっとA村の仕事を指示されるんだなと思いつつ親方の前に座った。

「○○、頼みてぇ事が有る」

「はい、A村の浅間神社の修繕ですね」

「バッケやろう!先走るんじゃねぇよ。……済まねぇが、俺が今やってる現場を引き継いでくれ」

「えっ!」
俺は愕然とした。親方が、自身の手がけている現場を途中で止めるなんて有り得ない。

数年前、交通事故で大怪我し、入院した時でさえ車椅子に乗って現場に来て、終いには這うようにして仕事して医者を呆れさせた御仁である。

「引き受けたからにゃあ、死んでも半端な事は出来ねぇ。それが男ってもんじゃねえか」
親方の口癖だ。俺はそんな親方に惚れ込み、弟子入りしたのだ。

「親方、どうしたってんです?親方らしくないじゃ有りませんか」

「うるせぇ!んなこたぁ俺が一番解ってる!おめぇは黙って従ってりゃいいんだ!」

もうこうなったら親方は梃子でも動かない。

「……解りました。じゃあ現場の状況を教えてください」

「おう、今は柱を仕上げた所までだ。床張りは……」

A村は人口数百人の過疎村で、住人は老人が多く周辺を山に囲まれた小盆地で、どこから行くにも一つ二つ山を超えねばならないので、普段は村外の人間はあまり出入りしない。
また、それだけに排他的な村でもあり、仕事でも無ければ足を踏み入れる事は無い場所だ。

A村の氏神である浅間神社は本当に村の山裾どん詰まりに有り、裏手は鬱蒼とした深い森である。

その夜、帰ろうとした俺はおかみさんに呼び止められた。

「○○、ちょっといいかい?」

「あ、おかみさん。なんでしょう?」

「実は、ウチの人の事なんだけど……」

おかみさんの話を聞いた俺は驚いた。親方の本家はA村で一番の旧家で、現村長さんは親方の実の長兄だという。

また、次兄は浅間神社の神主だとの事。ただ、その浅間神社というのが実はちょっと性質の悪い神様で、普段は良いのだがちょっとした不手際等があると一族や村に不幸を起こす事が有るという。

そして、どうも最近不手際があったらしく、そうとう怒っている様なのだと。

その怒りを鎮めるには社の修繕をして鎮蔡を行うしかないと。

しかしその修繕作業の最中に、必ず職人が一人連れて行かれてしまうらしい。

「ここ何十年も不手際はなく、氏神様も静かだったんだけどねぇ……」

「それで、親方はどうする積りなんです?」

「一人で修繕をするって言ってんだよ。そうすりゃ、連れてかれるとしても俺だけで済むじゃねえかって……」

「親方……」
俺は胸が熱くなった。そう言うことか。それなら、親方だけにやらせはしない。

「おかみさん、この件、俺に任せてくれませんか?」

「お前さんにしか頼めないんだよ、こんな事……」

俺は一晩案を練り、おかみさんにいくつかお願いをし、準備に取り掛かった。

三日後、親方は一人でトラックに乗り、「しばらく帰らねぇ。留守中は○○に全て任せる」

とだけ言い残し、A村へ向かって出発した。

その後、俺は直ぐに弟弟子のX(お稲荷様に取り憑かれた男)に

「それじゃあ、各現場は打ち合わせた通りにな。なんか有ったら、おかみさんに本家に俺宛で電話してくれるようお願いしろ」
と指示し、オオカミ様の社を管理している神社へと向かった。

そして神主さんに事情を話し、以前頂いたお守りをもう一度祈祷して頂き、魂を込めて貰う為にオオカミ様のお社を目指した。

数ヶ月ぶりに訪れるお社。ここに来ると本当に落ち着く。長い階段を上り、オオカミ様の灯篭に挨拶し、落葉の絨毯で紅く染まった地面を踏みしめながらお堂の前まで行く。どこからか微かに良い香りが漂ってきた。

そして、俺はお堂の前に守り札と酒と、新しい髪飾りを納め、祈祷を済ませた。

髪飾りは、以前奈良に出張した時に発注しておいた、とある女職人さんの手作業で創って貰った蓮の花をデザインした純銀の髪飾りだ。

何時も髪飾りばかりで能が無いとは自分でも思うが、俺にとっての彼女のイメージは美しく長い黒髪である。

何処に出掛けても彼女に似合う髪飾りを何時も探していて、結局一流の職人さんに手創りしてもらったものを手に入れたのだ。

守り札を持ち、帰ろうとするとさあっと一陣の風が吹いた。

俺は階段を下り始めた所で風に晒され、あの時と同じ気配を感じた。

確信を持ちながらすっと振り向くと、紅い落葉が風に舞い踊る中、お堂の前に真白な彼女が佇んでいた。

いつかと同じ代わらぬ姿で、いつかと同じ涼やかな微笑みで。

彼女の美しく長い髪には、先ほど納めた蓮の髪飾りが光っている。

俺は駆け寄りたい気持ちを押さえ、深く一礼した。頭を上げると、たおやかなその姿は消えていた。

俺は車を走らせ、A村の浅間神社へ着いた。

親方のトラックはまだ無い。おそらく、まず本家に寄っているのだろう。

俺は自分の車から道具を出すと、早速傷んでいる個所をチェックし始めた。

一時間も経った頃、親方のトラックが坂道を上ってきた。

「あっ!」

親方の声が響く。俺の車を見つけたのだろう。

ドドドと言う足音を立てて親方がお堂まで掛けて来る。そのままの勢いで俺はぶっ飛ばされた。

「何やってやがるこの大馬鹿野郎がぁぁっ!」

親方が鬼の形相で怒鳴る。

「てめぇ、かかあに聞きやがったな…!」

真っ赤な顔でぶるぶる震える親方に俺は言った。

「俺は仕事始めちまいました。もう遅いですよ。さあ、とっとと片付けちまいましょう」
「この…馬鹿がぁ」

「親方、俺は貴方を親父と想っています。親父が命懸けの仕事すんのに、息子が何もせんなんて許されんでしょう」

「この…馬鹿野郎……おめぇなんざ、日本一の大馬鹿息子だぁっ!勝手にしろいっ!」

「はい!勝手にしますとも!」

ふうとため息をつきながら「道具を取ってくらぁ」と背を向けかけた親方に、「あ、親方、これを」と俺は守り札を手渡す。

「おお、参ってきたのか……あれ?おめぇの分が無えじゃねえか?」

「俺には、お札は必要無いんですよ」
なぜかちょっと照れながら俺は答えた。

「けっ!惚気やがって……」
親方はふっと微笑い、道具を持ちにトラックへと向かった。

俺と親方の息の合い方は半端ではない。お互いに、声を掛ける必要も無く仕事は進んでいく。

また、親方は通常の修繕仕事であれば図面をまったく必要としない。

ほぼ目測で切る板が、全く隙間無くピタッと嵌りこむ。修繕作業は見る間に進んで行った。

夜は親方の本家に泊まり、打ち合わせの後は毎晩宴席だ。俺は家族同然に接して貰った。
数日後の夕方、何時ものように俺と親方が社に篭り、天井裏の作業をしていると突然親方の乗っていた梁が落下した。

しかし床に叩きつけられる瞬間、親方と梁が一瞬ふわっと浮き、静かに着地した。

「始まりやがったかな……」

という親方に
「問題無いですよ。俺たちは守られてるんだから」
と答えると親方は頷いた。

夕方、社から帰ろうとする俺と親方の車の前を塞ぐように、道に太く長い蛇がとぐろを巻いていた。

蛇は鎌首をもたげ、シャーと威嚇してきた。クラクションを鳴らしても、全く退く気配は無い。

仕方ないので俺が追い払おうと車を降りた瞬間、蛇が俺めがけて飛び掛ってきた。

「うおっ!」

俺は飛び退いたが、足を取られ転んでしまった。

「○○っ!」

親方が叫び、俺が起き上がろうとしたとき、再度飛び掛ろうとした蛇が突然弾き飛ばされ、ぐったりとなった。

近寄ってみると、頭を完全に潰され息絶えている。

直後、突然ガサガサっ!と草叢を掻き分ける音がし、何者かが深く茂った森の中へ掛けていく音がした。ダッ!更にそれを追って掛け出す気配。

俺と親方が息を飲みつつ耳を欹てていると、森の中から獣同士が争うような、しかしとてもこの世のものとは思えない雄叫びが聞こえてきた。

「ゴルルルルルルル……グルワァッ!」

「ウオキャーッツ!キーッ!キーーッ!」

しかし間も無く
「ギキキィーーーーーーッ!」
というつんざく様な叫び声を最後に、夕闇の中に静寂が戻ってきた。

「……勝ったのかぁ……?」親方が呟く。

「ええ、恐らく……」

「……○○、帰ろうや」

「……はい」

俺と親方は車に乗り込み、本家へと向かった。次の日は日曜であり、昨日の今日なので親方が
「今日は休もうや」と言って、二人でゴロゴロと寝て過ごした。

その夜、A村の長老でもある親方のお袋さんが珍しく宴席に降りて来た。

そして、俺の顔をまじまじと見つめながら

「神様が惚れる男はやっぱ面構えが違うのう。よく見りゃあG(親方の名前)に良く似とるわい」
と言い、かかかと声無く笑った。

親方が
「そりゃあ俺の息子みてえなもんだからな。似るのは当然だぁ」と答えた。

少し間を置き、お袋さんが「G、もうお宮さんの修繕で誰かが連れてかれる事は無いじゃろ」と呟く。

次兄の神主さんも「うむ、そうだな。やはりおっかさんも見ましたか」と頷いた。

「ああ、見たよ。面白いもんをなぁ」

「しかし、まさか社の神様があんなことになってたとはなあ……」

俺と親方はちんぷんかんぷんだ。

「おい、兄貴!おっかさん!いったいなんだってんだ?」

「ふむ。話してやろうかねえ」
お袋さんが語り始めた。

昨夜、おふくろさんと次兄の神主さんの夢枕に
古事記に出てくるスサノオの様な男を従えた髪の長い巫女様が立ったそうだ。

その左手はボロボロになってしょぼくれている大猿の首根っこを掴んでいて、「この悪猿が氏神を騙して封じ、300年ほど自分が氏神として収まっていたのです。

しかし先ほど取り押さえ、きつく戒めましたのでもう大丈夫です。

これからは本来の氏神である彼がお社を守っていくでしょう」
と仰ったと。

お袋さんと神主さんは、ははーっと平伏した。しかし、お袋さんは気になった事を尋ねてみた。

「しかし、貴方様はこの土地に縁の有るお方とは思えんのですが、何故わしらの氏神様を助けてくださったのですじゃ?」

神主さんは真っ青になって「おっかさん!何言っとるんじゃ!」と諌めた。

「いいえ、私は有る方の身を守る為に来て、その結果この悪猿を懲らしめる事になっただけです」

「ほう、そうでしたか。その有る方ってのは、貴方様が御髪に飾っとる銀蓮を納められたお人ですかのう」

神主さんは、もう夢の中で卒倒するかと思ったそうな。

「するとな、巫女様は見る見る真っ赤になって、「と、とにかく、もう心配ありませんので!」と言って消えてしまったんじゃ。後には気まずそうな氏神様とヘロヘロの悪猿が残っとった。

じゃが、赤くなって恥かしがる神様を見られるなんて、ほんに長生きはするもんじゃのう」

と言って、かかかかと声無く笑った。

「ぶはっ!」

突然親方が噴出す。それと同時に、聞き耳を立てていた宴席の面々が一斉に笑い出した。
俺は、多分真っ赤になっているだろう顔色を隠す為、コップ酒をきゅっと煽った。

(4)公園も併設している神社の建替

年号が変わる前年の晩秋。

とある街中の神社の立替の仕事が入った。

そこは、幼稚園を経営している神社で、立替中には園児に充分注意する必要が有る。

また、公園も併設しているので、遊びに来る子供たちやお母さんにも気を付けねばならない。

この現場は親方から全面的に任せられているので、弟子たちにしっかりと通達しておいた。

工事が始まると、やはり園児たちは物珍しさで直ぐに集まってくる。

保母さん達もてんてこ舞いで大変な事だ、と思いながらも
子供好きな俺はたまに子供たちの相手をしながら仕事をしていた。

仕事は基本的に日曜は休むが、責任者としてはそうも言ってられない。

また、日曜日は自分一人で細工などをするのに都合がいいので現場に出る事も間々有る。
この日も、一人で現場に出て、更地になった社址で新しい社をイメージしながらスケッチをしていた。

冬直前の寒さに加え幼稚園も休みなので公園に来る子供たちや母親もまばらで静かな時が流れている。

有る程度のイメージスケッチが出来てきて、缶コーヒーでも買いに行こうかと顔を上げると
ちょっと離れたベンチに可愛らしい少女が座ってこちらを見ているのに気付いた。

俺と目が合ったらはっと驚いて顔を逸らしたが、チラチラとこちらを伺っている。

俺は立ち上がると、少女に近付きながら声を掛けた。

「こんにちは、今日は寒いね」

「こ、こんにちは。そうですね……」

頬をピンク色に染めてもじもじするのが可愛らしい。

「この辺に住んでるのかな?」

「はい。近くです……」

「良ければ、暖かいものでも一緒に飲まないかい?」

少女にミルクセーキ、俺はダイドーブレンドを買いベンチに座る。少女は直ぐに打ち解けて、色々と話してくれた。

小学校五年生である事、昔この神社の幼稚園に通っていた事、絵を描くことが好きな事、お父さんは海外に赴任してる事、ウサギを二羽飼っている事、そして、最近ちょっと病気がちである事。

少女は俺がスケッチをしていたので興味を持ったらしい。イメージスケッチを見せてあげると、「今は建物が無いのに、まるで建物が有るみたいな絵だね!」と目を輝かせた。

「うん、この絵をイメージしながら社を建てていくんだよ」

「これからも見に来て良い?」

「ああ、もちろん。いつでもおいで。」それ以来、少女は毎日のように遊びに来るようになった。

師走に入り忙しさが増してきた頃、少女の姿をぷっつりと見なくなってしまった。

現場のアイドルだった少女を心配し、弟子たちが俺に少女を探すように頼んできた。

俺自身も寂しかったので、まずは幼稚園の保母さんに聞いてみると一発で身元が解った。
直ぐ近所なので仕事帰りに少女の家に寄って見ると、対応に少女のお祖母さんが出てきた。

そして、少女が白血病であり、治療の為に入院した事を知った。

俺は病院名を聞き、お見舞いを持って病院に向かった。

病室に入ると、痩せてしまった少女が驚きの笑顔で迎えてくれた。

「○○お兄ちゃん!」

「びっくりしたよ。でも元気そうで良かった」

少女のお父さんも帰国しており、ご両親と挨拶をした。

そして、少女が書いてくれた弟子たちの似顔絵をみんなが宝物にしている事や
親方はまだ書いてもらってないので早く元気になって書いてあげて欲しい事、また少女が元気になったら遊びに来てくれるのを皆で待っている事などを話した。

夕食の時間となったので、病室から失礼した俺をお母さんが追いかけてきて、父親が居ない時に俺たちに可愛がってもらい、寂しそうだった少女が明るくなった事、病気のことで不安だったことも俺たちのお陰で忘れることが出来た事等について
お礼を言われた。そして、少女の命がもう間もないであろうという事も聞かされた。

俺には、返す言葉も無かった。

数日後、俺は酒と病気回復祈願のお札を持ってオオカミ様の社に向かった。

社へとむかう林道には、もう雪がちらほらと積もり始めていた。

長い階段を上り、鳥居を潜る。何時ものようにお社の前に立ち、手を合わせて声を出して祈願する。

少女の病が、全快する様に。そして、また俺たちの所へ遊びに来れる様に。

しかし、何時もならお祈りをすると何故か暖かい気持ちになり、近くに居るような気配を感じるのに、今日に限って何故か気持ちは寒く、何の気配も感じない。俺は必死で祈りを繰り返したが何も感じる事は出来なかった。

お札を持ち、トボトボと帰ろうとして鳥居を潜った刹那、背後に気配を感じた。

バッと振り向いたが、そこには誰も居ず、粉雪が風に舞い散るだけだった。

翌日、俺はお札を持って少女の病室を訪れた。そして、お札がオオカミ様のお守りである事、オオカミ様の化身はとても綺麗なお姉さんである事、俺はオオカミ様に何度も助けてもらってる事、お稲荷様に取り憑かれたのを助けてもらった弟子の話など、物語のように面白おかしく話してあげたら
少女はとても喜んで、病気が治ったらオオカミ様のお社にお礼に連れてってあげると約束した。

俺と弟子たちは出来る限り少女のお見舞いに行き、また親方もお見舞いに行って似顔絵を貰って帰ってきた。

「あんな可愛い子が不治の病だなんて、この世に神も仏も有るものかよ!」
親方は似顔絵を見つめ、泣きながら酒を煽った。

オオカミ様のお守りを渡してから、少女の顔色はかなり良くなってきた。

また、吐血や発熱などの症状も相当抑えられ、医者が不思議がっていたそうだ。

しかし年が明け、更に月が替わる頃に少女は安らかに天に帰っていった。

報せを聞いて駆けつけた俺たちに、両親は涙ながらに礼を言ってくれた。

少女は、夜に眠りに付き、翌朝に微笑を浮かべたまま亡くなっていたと。そして遺体は確かに微笑んでいた。

母親が、少女が亡くなる前日に描いた絵を見せてくれた。そこには、ご両親、俺や親方、弟子たち、そして少女と手を繋いでいる長い黒髪の巫女が描かれていた。

もう一つ、少女からの手紙が俺とオオカミ様宛に書かれていた。

俺宛の手紙には、毎晩夢の中で長い黒髪のお姉さんが出てきて、遊んでくれたり色々お話をしてくれた事、そして俺へのお礼と、今度生まれ変わったら俺のお嫁さんにして欲しいと書かれていた。

葬儀が終わり、俺はオオカミ様のお社へ酒と少女の手紙を持って参りにいった。

そしてお祈りを捧げているとボロボロと涙が溢れ、俺は跪いて咽び泣き出してしまった。
その直後、背中から抱き締められるような感触が有り、体が暖かくなった。

そして俺の首筋に熱い雪が数滴、はらはらと落ちて来た。

(5)オオカミ様の涙

ある年の秋。

季節外れの台風により大きな被害が出た。

古くなった寺社は損害も多く、俺たちはてんてこ舞いで仕事に追われた。

その日も、疲れ果てた俺は家に入ると風呂にも入らずに布団に倒れこんで寝てしまった。
「○○様、○○様……」

どこかからか懐かしい声が聞こえる。

この、鈴の鳴るような声は……俺はのそのそと起き上がると廻りを見廻した。

すると、枕元に懐かしい姿があった。

「オオカミ様……」
夢か現か、幾年振りかに見る姿。

「○○様、お久しゅうございます」

彼女は泣き笑いの様な不思議な表情で俺を見つめている。

良く見ると、白い顔と着物は泥にまみれ、長い黒髪もバサバサである。

そして、俺の納めた銀の髪飾りも見当たらない。

「申し訳ございません。○○様に頂いた髪飾りを失くしてしまいました……」

彼女の瞳から大粒の涙が零れ落ちる。

俺は取り乱し、どうして良いか解らなくなってしまった。

「そんな、泣かんで下さい。また新しい髪飾りを、貴女にもっとお似合いの髪飾りを見つけてきますから……」

彼女はポロポロと涙を零しながら
「お許しください……」と言い、ふっとかき消す様に居なくなってしまった。

「オオカミ様!待って、待って下さい……」

はっと目覚めると、窓の外は白みつつあった。

出勤し事務所に入ると、直ぐに親方に呼ばれた。

「おう○○!実はな……」

「オオカミ様の社に何か有ったんですね!」

親方の声を遮るように俺が叫ぶ。

「お、おお。良く解ったな。先日の台風で、オオカミ様の社が地滑ったらしい。

さっき神主さんから連絡が有った。社は下の林道辺りまで落ちて土砂に埋まっているそうだ」

「親方!俺は今日からオオカミ様の社に行かせて下さい!」

「バカヤロウ!地滑ったばっかで社の修復なんぞまだまだ先だ!それに、お前が掛かってる現場はどうすんだ!」

親方に怒鳴られたが、俺は喰い下がった。

「お願いします!なんなら今日は休みでも良いんです。様子を見るだけでも!」

親方は凄い形相で俺を睨んでくる。しかし、昨夜のことも有り、俺は負けずに睨み返した。何分ほど睨みあっていただろうか、突然おかみさんが口を挟んできた。

「おまえさん、行かせておやりよ。○○、昨夜夢枕にオオカミ様が立ったのかい?」

「……はい、おかみさん」

「で、社を早く直して欲しいとでも言われたのかい?」

「いえ、泥だらけの姿で出て来ましたが、社の事は何も……」

「じゃあなんで出てきたんだい?」

「俺が納めた髪飾りを失くしちまったと。泣きながら謝るんですよ……」

「ふう……」

親方が溜息をつく。

「やれやれ、相思相愛かよ。しかし神様相手じゃキスも出来んだろうによ。まあ良いや。
行っていいぞ○○。ただ、無理すんじゃねえぞ」

「はい!ありがとうございます!」

俺は軽トラにスコップや鋤簾を積むと、急いで社へと向かった。

途中の林道は予想以上に荒れており、四駆にしなければ越えられないほどの場所が何箇所も有った。

何時もの倍以上の時間を掛け、なんとか社の付近まで近付いたが、其処には目を覆うような惨状が広がっていた。

社へと上る長い階段は跡形も無く、社の建っていた広場は殆どが削られてしまっている。
鳥居は見当たらず、恐らく土砂に埋もれている。

そして、社は土砂に半ば埋もれかかった無残な姿を晒していた。

俺は四苦八苦しながら社へと近付き、状態を確認した。

とりあえず社の周りを探し回るが、髪飾りなどは見付からない。

四時間ほども探し回ったが見つけられず、途方に暮れながら軽トラに戻ろうとした時、目の端で何か光るものを見た。

急いで当たりを付け、駆け寄って見る。

そしてその周辺をスコップで掘り返してみると、数回の後に土砂の中から鈍く光る髪飾りを掘り出す事が出来た。

とりあえずお社に向かって一礼し、先ほど掘り出した狛狼様二体を軽トラの荷台に固定し、このお社を管理している麓の神社へと向かい、神主さんに事情を話して引き渡してきた。

ただ、髪飾りは俺が持ち、お社の修復後に改めて納める事となった。

事務所に帰ってから、急いで現場に向かう。

仕事を終えて戻ると、親方は他の現場から既に戻っていた。

「おう、○○。髪飾りは見付かったか?」

俺は一通り報告し、地滑りの修復が終わった後のオオカミ様のお社は俺に任せてくれるようにお願いした。

「ああ、言われんでも解ってる。どっちにしろ来年の話だぁな」

「そうですね。役所がとっとと動いてくれるといいんですが……」

俺はそう答えながら髪飾りを握り締めた。

(6)心帰旅

オオカミ様のお社を修理し終わった後の年末。

親方の発案で親方とおかみさん、そして弟子達で年末旅行に行く事になった。

行き先は熱田神宮と伊勢神宮。

かなり遠い所だが、三種の神器が一つずつ納められている場所であり、また自分たちの仕事上一度くらいは見て置きたい所だということで勉強と慰安を兼ねて、の旅行だ。

オオカミ様のお社も無事奉納できた事だし、オオカミ様の総本社でも有るので丁度良いだろう、と言う事もあった。

出発の前日、薄暗くなり始めた夕方に一人でオオカミ様の社にお参りに行き酒を納めてお祈りをした。あれ以来、新築されたお社には誰の気配も感じない。だが俺はオオカミ様が帰ってきてないかを確認する為に周に一回は訪れている。この日もやはり帰ってきては居ないようだと思いつつ立ち上がり、踵を返して鳥居を潜ろうとした時。

唐突に気配を感じて、俺はバッと振り向いた。

お社の前に、神官服に身を包んだ少年が立っている。涼しげな目元、高い鼻、薄い唇、細く尖った顎。雅な顔立ちの美少年だが、その瞳は吸い込まれそうな程に深い。そう、まるでオオカミ様の様な………

「オオカミ、様……?」

俺は自分に言うように呟いた。しかし、雰囲気は似ているが明らかに違う。

少年はふっと表情を和らげ微笑を浮かべると、何も言わずに振り返りお社の中に入っていった。

一瞬後を追おうかと思ったが、思い直して振り返り、鳥居を潜って階段を降り始めた。

翌朝早く、俺たちを乗せた貸切りバスは出発した。今日は走り詰めで走り、夜に名古屋で一泊。翌日は名古屋市内で観光及び熱田神宮見学。夕方から移動し、伊勢で一泊。伊勢神宮を見学して海の幸を堪能し、バスの中で寝ながら地元へ帰ってくる日程。

皆楽しそうに飲んで騒いでいるバスの中で、俺一人が昨日の事が気になり集中できずに居た。

帰ってからまたお参りに行って確認してみればよい、と気を取り直して名古屋で楽しい一日を過ごし、伊勢へと移動。

親方も弟子たちも飲んだ呉れての大騒ぎである。自分も気を取り直した積りでは有ったが、移動中はなんとなく考え事をしてしまう事が多くなってしまった。

伊勢での夜は大宴会で、ホテルの中での一次会だけで弟子の八割が討ち死に。夜の街へ飲みに出たのは結局親方とおかみさん、そして俺だけになってしまった。

伊勢はおかみさんの出身地であり、実家もまだ有るそうだが勘当同然で飛び出してしまったので帰ろうとは思わないとの事。

しかし、親方と俺の説得によって翌日実家へ寄る事に承知した。

翌朝、妙に朝早く目が覚めた俺は五時過ぎの暗い中なんとなく伊勢神宮へと向かった。もちろん後で皆と来る訳だが、何故か妙に行かなければならない様な気がした。伊勢神宮には外宮と内宮が存在し、外宮から内宮まではかなり距離が有るのでホテルで自転車を借りて来た。未だ薄暗い中、まずは外宮でお参りをする。敷地内を掃除している人や散歩している人と挨拶を交わしつつ歩いていると、身も精神も清められていくようだ。そして自転車を漕ぎ、内宮へと辿り着く。お社までの道をゆっくりと歩いていく。廻りは木々に囲まれ、静かな世界の中自分の息遣いだけがこの世の音の全てで有る様だった。

皇大神宮に辿り着き、手順どおりのお参りをする。そして、オオカミ様の事を想いつつ一心にお祈りを捧げた。

十分ほどの後に踵を返して来た道を歩き出す。まだ早いからか、参道には相変わらず俺以外は誰も通っていない。ゆっくりと歩を進めるうち、今まで感じた事のない気配を右手方向から感じて顔を向けた。

そこには、神服を着た女性が立っていた。

圧倒的な存在感と、神々しいまでの波動、とでも言えば良いのか、自分の足がガクガクと震えるのを感じた。目はその御方に釘付けなのだが、真正面から見詰めてしまうのを恐れるように焦点が全く合わない。震えているのが足ではなく全身なのだと理解するのにどれほど掛かっただろうか。動く事も出来ずにただ震えているしかなかった。

「そなた、か」
声が聞こえた。耳にではなく、直接精神に響くように。

「そなたが、○○、ですか?」
俺の名を呼ばれたようだ。震える体と精神を抑え付け、俺は震える声で辛うじて答えた。
「は、はい、私が○○です……」

「そうですか……」
その御方は穏やかなお顔で微笑んだ様に見え、ふっと掻き消すように居なくなってしまった。

俺はその場にへたり込み、しばらくは立ち上がることも出来なかった。

そしてなんとかホテルに辿り着くと、ぶっ倒れるようにして眠ってしまったらしい。自分の記憶は内宮から自転車で漕ぎ出した所から後は、ホテルで目を覚ますともう夜だった所しか記憶が無かった。

俺が眠っている間、午前中は皆でお伊勢参りし、午後からは弟子たちは観光、親方とおかみさんは実家へ行ってきたそうだ。

実家では突然の娘の帰郷に驚いた様だが暖かく迎えてくれ、今までのわだかまりも解けておかみさんもとても喜んでいたとの事。ただ、最近実家の玄関前に女の子の捨て子が有ったらしく、その子をどうするか相談中だったそうで、おかみさんは実家に数日間残って手伝ってくる事になったそうだ。

帰りのバスの中、俺は親方に内宮で有った事と出発前にオオカミ様の社で逢った少年に着いて話した。

親方は驚いたように聞いていたが
「おめぇがお伊勢さんでお逢いしたのは……おそらく……」
と言ったきりそれ以上は言わなかった。

オオカミ様の社については、「もしかすると、代わったのかもしんねぇな……」
と言ったきり、またも黙ってしまった。

ただ、俺は何かの確信を持った。自分でもそれが何か全く解らなかったが、とにかくこれからも俺に出来る事を一つ一つこなして行けば必ず良い結果が出る、という確信を。

弟子たちが疲れて眠りこける中、俺と親方は無言で酒を酌み交わした。

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(7)新代神

年末旅行から帰り、正月を迎える。

仕事納めまでは忙しく、オオカミ様のお社へ行く暇は無かった。

大晦日の夜、俺は除夜の鐘が鳴り始めるのと同時に家を出てオオカミ様のお社へ向かった。

色々と想う事は有るが、とりあえずは伊勢から無事に帰ってきた報告と新年の挨拶を兼ね、またもしかすると戻って来られているのではないかとの淡い期待も込めて新酒と髪飾りを持って来た。

さすがにかなり山の中にあるオオカミ様の社まで来る人は居ない。

神主さんにより灯火が点され酒樽が奉納されていたが、誰も居ない境内は雪の中で静寂に包まれていた。

鳥居を潜り、お社の前まで行き、酒樽と髪飾りを置いてお祈りをする。

しばらくの後に目を開けると、目の前にあの少年が立っていた。

俺はちょっと驚いたが、静かに落ち着いた気分のまま彼に話し掛けてみた。

「貴方は、どなたですか?」

少年は数瞬の後に想像していたより低めの声で応えた。

「私は、代わりに使わされた者です」

「それは、貴方がこの社の主となったと言う事ですか?」

少年は少し首を傾げ、困ったような顔をした。俺は質問を変えてみた。

「オオカミ様は、どこに行かれたのですか?」

「……貴方は心静かにお待ちになると良いでしょう。これはお渡しておきます」
彼はいつの間にか銀の髪飾りを手に持っていた。俺はちょっと途惑ったが、「……お願いします」
と言い、深く一礼した。

身体を起こした時には、既に彼の姿はどこにも見えなかった。

そのまま親方の所へ新年の挨拶に向かう。

親方の所へは既に年始周りのお客が何人も訪れていた。

また、俺にも縁の有る人も結構来ていたのでそのまま親方の家でお相手をする事になってしまった。

元旦は結局親方の家に泊めてもらい、二日の朝、部屋に帰り実家へ帰るための支度をした。此処から実家までは片道三百キロは有るが、親方が七日まで休みを呉れたので久しぶりにゆっくり出来そうだ。

車に荷物を積み込み、オオカミ様のお社の有る山へ向かって一礼すると車に乗り込みアクセルを踏み込んだ。

(8)狐誘幻

お伊勢参りの翌年、梅が開き始める頃。

山の奥にあるお稲荷様の神主さんから、お社の修繕依頼が入った。

そう、弟弟子の一人が憑かれたあのお稲荷様の社だ。

親方に呼ばれ、「まあ、おめぇにやってもらおうか」と任される事になった。

とりあえず久しぶりに様子を見に行くと、昨年の台風で結構痛んでいる。

一通り見積もって、一休みしようとお社の縁に腰を下ろすと左横に女が座っていた。

俺が座った後から座ったのではなく、俺が座った時には既に女が座っていた。

もちろん、俺が座る前には姿など見えなかったし、境内には俺以外の誰も居なかったはずだ。

驚きはしたが、とりあえず気付かない風を装って直視せずに様子を見る事にした。

俺も女も何も喋らず、ただ時間だけが経過していく。

どれほど経っただろうか、女がつ、と立ち上がった。

長い髪が風に揺れているのが視界の端に映る。女が俺を見下ろしているのが気配で感じられた。

どうやってこの状況から脱するべきなのかと考え始めた時、鳥居の向こうに人影が現れ、こっちに向かって声を掛けてきた。

「やあ、○○さん!ご苦労さん」
このお社の神主さんだ。俺が一瞬あちらに気を取られた瞬間、女の気配は無くなっていた。

ふう、と大きく息を吐き立ち上がる。神主さんが一人の女性を連れてこちらへやってきた。

連れの女性は神主さんの娘さんだそうで、長い黒髪の中々の美人。

以前、お稲荷さんの祟りの一件では交通事故で入院していたので今回が初見だった。

しかし、彼女は父親から話を聞いていて俺の事を良く知っているようで、親しげに話し掛けられた。

その後、本社に移動してからとりあえず見積もりを説明する。

神主さんは前回の事で相当懲りているらしく、「キミに任せるからお稲荷様が満足するように仕上げてください」と言ってくれた。

それでは、と失礼しようとするともう夕方だから夕食でもと引き止められ、親方に叱られますからと言うと神主さんはウチの事務所に電話して親方から「今日は直帰で良い」との許可を取り付けてしまい、結局夕食をご馳走になる事に。

その日は娘さんが腕を振るい、とても美味しい家庭料理をご馳走になった。

神主さんご夫婦は食後にいつの間にか俺と娘さんの二人を残して退散してしまい、娘さんと俺は二人で遅くまで話しこんでしまった。

十一時を廻ってしまった帰り道。俺が山際の道を急いでいると、左手の森沿いに人が手を上げているのを見つけた。

車でもエンコしたのかと思い、人影の前で車を止める。ヘッドライトに浮かび上がったその姿は、髪の長い女だった。

瞬間、全身総毛立つ。人では無いものの様な気がしてそのまま通り過ぎようかと思ったが、もしホントに困っているのなら放っておく訳には行かないと思いなおして車を停めた。
助手席側の窓を少しだけ開け、「どうかしましたか?」と声を掛ける。「ちょっと置いてけぼりにされちゃって……」ハスキーな声で女が応える。ああ、人間だったかと胸を撫で下ろして「良ければお送りしましょうか?」と聞くと「良いんですか?じゃあ、お言葉に甘えさせて頂きます」と乗り込んできた。

気の強そうな切れ長の瞳、つんと上を向いた形の良い鼻、少々厚めな紅い唇、きゅっと尖った顎。

乗り込んだ女の顔を見た俺は、その美貌にちょっと驚き見つめてしまった。

「私の顔に何か付いてます?」小首を傾げながら女が聞く。彼女の甘ったるい体臭が鼻に付く。

普通の男ならイチコロでやられてしまうのだろうな、と考えながら
「いや、貴女の様な美人を置いてけぼりにする男が居るなんて、と感心したんですよ」と平静を保ちつつ答えた。

「まあ、お上手」唇に手を当てて、コロコロと笑いながら女が答える。切れ長の瞳が俺を見詰めているが、俺は運転に集中して気付かないフリをした。

この視線、どこかで感じた覚えが有る。それも、ごく最近……?
おっと、彼女の行き先を聞かなければと思い出し聞いてみると、なんと今辞したばかりのお稲荷様の神主さん宅だとの事。

俺が驚くと、彼女も神主さんの娘だと言う。俺がさっきまで談笑していたのは、彼女の妹だそうだ。

とりあえずUターンして今来た道を帰る。そして神主さん宅に着くと、彼女は「またお会いしましょう」とウインクして家の中へ入っていった。

なにか、どこかに違和感を覚えながら俺は家路を急ぐ。

しばらく走り、先ほど彼女を拾った辺りまで差し掛かるとまたも人が手を上げて立っている。

一体今日はどうなってるんだと思いつつ車を停めてみると、そこにはなんとオオカミ様の社で会ったあの少年が立っていた。

助手席側の窓を開けると、少年は屈んで顔を近づけて「努々、惑わされませぬ様……」と言い、助手席に何かをポトっと置き、さっと森の中に姿を消してしまった。

俺はしばらく呆けていたが、彼が助手席に置いていったものを手に取ってみるとそれはオオカミ様のお守り。

ハッと気が付き懐を探る。しかし、そこにはいつも身に付けている筈のオオカミ様のお守りが入っていなかった。

家に戻ってから、あの少年から貰ったお守りを開けて見る。

中には、艶やかな一房の黒髪。

確かに、俺のお守りだ。なぜ、いつの間に無くなっていたのか。

そして、なぜあの少年が持っていたのか。

混乱しながらも、考えを纏めて行くうちにあの時感じた違和感の正体が閃いた。

神主さんのお子さんは、一人娘のはずだ!
と言う事は、山際で拾った切れ長の瞳の美女はだれだ!?
しかし、確かに神主さんの家に送り届けたし、普通に家に入って言った。

俺は布団の中で考えながら、いつの間にか眠ってしまっていた。

……俺は見たことも無い大きな神社の境内に居る。

その広さも、建っているお社の巨大さも驚くほどだ。

大木の根に腰を下ろし、境内を歩くたくさんの巫女や神官の姿をボーっと見つめていると、大きな鳥居を潜ってあの少年が歩いてきた。

俺に気付く風も無くお社に近付いていく。

すると、幾つも有る戸の一つが開いて見覚えの有る艶やかな黒髪が顔を覗かせた。

「オオカミ様!」俺は叫んで、立ち上がろうとした。が、声も出ず、身体も動かない。

少年がオオカミ様に話し掛けているが遠過ぎて声も聞こえない。

なんとか動こうともがいてみるが、辛うじて手指の先が動くくらいだ。

俺は動く指の先に全神経を集中し、動け動け動けと念じていた。

すると、なんとか腕までが動くようになった。丹田に気合を集中して呼吸を錬る。

「ふっ!」気合を入れ、一気に立ち上がると全身が辛うじて動くようになった。

ノロノロと足を出し、オオカミ様と少年が話している方へ歩き出す。

通り過ぎていく巫女達が不振気に俺を注視するが、お構い無しに歩みを進めた。

果てしなく長い距離を徐々に詰めていくとようやく二人の話し声が聞き取れる程の距離まで辿り着いた。

「……ありがとう。貴方には苦労を掛けますね」
鈴の鳴るような澄んだオオカミ様の声が聞こえる。俺はいつの間にか涙を流していた。

「では、これをお渡ししておきます」
少年がオオカミ様に何かを手渡す。ああ、あれは銀の髪飾りだ。少年は約束を守ってくれたのだ。

オオカミ様はそれを受け取ると、胸に抱くようにして手を交差させた。

オオカミ様の瞳から、涙が流れるのが見えた。

「しかし、あの方は惑わされないでしょうか?人は弱い者ゆえ……」少年が呟く。

「あのひとは……強く、優しいひとです。人ゆえに、迷う事は有りますが、あの方が惑う事は有りません」
オオカミ様が静かに、ハッキリと答えるのを聞きながら俺の意識は闇に落ちていった。

翌朝目を覚ますと、俺は夢の内容をもう一度反芻した。

そして、親方に電話を入れ、直接神主さんの家へ向かう。

俺が到着した時、ちょうど娘さんが出勤の為に玄関から出てきた所だった。

まあ、と驚く彼女に昨晩のお礼を述べ、出勤するのを見送る。

彼女は家の中へ俺の来訪を告げると名残惜しそうに出勤していった。

「やあ、おはよう。今朝も早いね」神主さんが玄関に顔を出した。挨拶を済まし、中へとお邪魔する。

奥さんが出してくれたお茶を頂きながらお社の事について少し相談した後、俺は意を決して昨晩のことを話した。

「そんなバカな。ウチには一人しか娘は居ないよ。何かの間違いじゃ……」
「いえ、確かにこちらへお送りして、玄関を開けて入っていく所まで確認しました」
「その時間はもう家族全員眠っていたはずだ。誰も家に入ってきた跡など無い……」

俺は一つ、思い当たる事が有る旨を伝え、電話をお借りして事務所に連絡した。

おかみさんにまだ現場に向かっていないはずの弟弟子の一人を呼んで貰う。

ヤツは、例の一件でお稲荷様に取り憑かれた男だ。

イヤな事を思い出させてすまない、と断った上であの時夢の中でオオカミ様に踏み付けられていた女の人相を聞いてみた。

気の強そうな切れ長の瞳、カタチの良い鼻、少し厚い紅い唇、きゅっと尖った顎。

やはり、間違いない。昨晩拾ったのは、おそらく………
「もしかして、今度は腹いせに○○さんに祟る積りじゃあないか……?」
神主さんが不安気に呟く。確かに、今現在オオカミ様は留守だ。しかし、あの少年も少なくとも敵では無い。

それに、俺には伊勢神宮で手に入れた確信が有る。

「大丈夫です。ご心配には及びません」俺が力強く答えると、神主さんは安堵の表情となった。

「そうだな、キミがそう言うなら大丈夫だな……ところで、突然話が変わるが○○さんにはお付き合いしている女性は居るのかな?」
本当に突然の問いに俺はビックリしたが、ハッキリと答えた。

「はい、お付き合いしているのでは有りませんが強く想っている女性が居ります」
「ふーむ。そうか……いや、ヘンな事を聞いた。忘れてください」

俺は神主さん宅を辞すと、これからやるべき事を整理しながら事務所へと向かった。

番でオオカミ様の社に酒を持ってお礼に行く。

鳥居を潜り、お社に酒を奉じてお祈りをする。

そしてそのまま稲荷様の社へ修繕に向かった。

途中で弟弟子達と合流し、お社で荷物を下ろす。

弟弟子達は荷物を下ろすと自分たちの割り当てられている現場へと散っていく。

社の中へ入り、図面を見ながら大まかなイメージを創り、早速仕事へ掛かった。

俺は仕事に夢中になると時間のたつのを忘れる事が多く、また集中力を途切れさせたくないので
一人で行う現場の時には昼飯を抜くか、夕方近くなって一段落着いてから食べる事が多い。

この日も仕事に興が乗って、気がつけばもう夕方の五時近くなり夕焼けが見え始めていた。

ふう、と一息つくと腹がぐうと鳴る。

この辺りで切り上げて事務所に戻るか、それとも弁当を食べてからもう一息頑張るか迷っていると突然社の扉が開いた。

「○○さん、ご苦労様」
入って来たのは例の美女。

妖艶な笑みを浮かべながら俺の左横へ立つと甘ったるい体臭が鼻を突く。

俺はオオカミ様のお守りが胸に有る事を確認たが、確かに入れておいたはずのお守りがなくなっている。

狼狽してしまった事を隠すように平静を装いながら俺は答えた。

「こんにちは。どうしました?」
「うふ、貴方の仕事振りを見てみたくて。お邪魔だったかしら?」
小首を傾げながら聞く彼女に迷惑だと言える男はほとんど居ないだろう。

「いいえ、散らかっていますが、宜しければ見ていってください」
女は社の中を見廻すと、「まあ……とても綺麗になってるのね。いいわぁ……」
本当に嬉しそうに満面の笑みを浮かべている。

俺が道具を片付け、立ち上がった瞬間に女が後ろから抱き付いてきた。

「貴方って、素敵な方ね……」背中に豊かな胸が押し付けられる感触が広がる。

頭の中が熱くなり、欲望が湧き上ってくる。思考が停止し、振り向き様に女を抱き締めてしまう。

「優しく、ね……?」勝ち誇ったような笑みを浮かべた女の顔が目の前にある。

目を瞑り、紅い唇を近付けてくる。俺の理性は跡形も無く崩れようとしていた。

次の瞬間、俺の脳裏に髪飾りを抱き締めながら涙を溢れさせていたオオカミ様の顔が甦った。

熱くなった脳髄がすーっと冷え、理性があっという間に戻ってくる。

俺は女の肩を掴むと、体から強引に引き剥がした。

「ーっ!?」彼女は目を開け、呆けたようにポカンとした後、夜叉の様な顔となった。

「私に恥を掻かせるなんて……どういう積り……?」
切れ長の眼が夕日を受けて赤く光る。その迫力に、俺は竦んでしまった。

なんとか後ずさりしつつ扉へと近付く。女の顔は、既に人のそれではない。

鼻が尖り、口からは尖った歯が覗き始めている。

「なぜ……?そんなに想える……?此処には居ない方を……人の癖に……」
ぶつぶつと呟きながら徐々に近付いてくる。

俺は本能から来る恐怖に慄きながらも、オオカミ様を想い祈り始めた。

今にも女が俺に向かって飛びかかろうとした瞬間、俺の真後ろから声が響いた。

「その辺になさいませんか?岩倉之眷属殿」
この声は、あの少年の声。俺はふっと安堵し、そのまま意識が遠のいてしまった。

意識が戻った時、俺は布団の中で見覚えの無い天井を見上げていた。

ふと横を見ると、其処には神主さんの娘さんが座っていた。

「よかった……気が付いたのね……」
彼女は涙ぐんでいる。彼女が呼ぶと、神主さんご夫婦と親方が部屋に入ってきた。

「俺は……一体どうしたんです?」俺が呟くと親方が答えた。

「夜になってもおめぇが帰ってこないんで、お社へ行ったら中でおめぇがオオカミ様のお守り握り締めてぶっ倒れてたんだ。

こりゃ以前と同じ事になっちまったかと救急車呼ぼうとしたら妙な子供が現れて、○○様は寝かしておけば心配ないと言うのでとりあえず神主さん家にお邪魔したんだ。

一体何が有った?あの子供、ただもンじゃねえな?あと、お社から泣きながら駆け出てきた女が居たが誰なんだ?」
矢継ぎ早に質問してくる親方に途惑いながら、俺は明日、オオカミ様の社へお礼に参らなければと考えていた。

そして、オオカミ様の社はおそらくあの少年が主となったのだ、と漠然と感じた。

(9)邂逅の時

~俺が初めてオオカミ様のお社を修繕してから永い時が経過した。

時代も、世情も変わり、年号も代わった。日本も、日本人も代わったと言われる。

しかし俺を取り巻く世界はそれほど大きく代わっては居ない。

昔からの気持ちの良い仲間。家族。

そして見守ってくださる神仏。

俺の生活は、仕事を中心に穏やかに過ぎて来た。

一度、縁を得て所帯を持ちかけたが、諸事情により断念した。

しかし、その時にも心の中にはあの方が居り、乱れる事は無かった。

いや、だからこそ断念したのかもしれない。

今だから、そう思えるだけなのかもしれない、が。

俺は隠居した親方の後を継ぎ、宮大工の棟梁となる事が出来た。

様々な神仏、様々な神職・住職の方々、様々な弟子達と出逢い、別れて来た。

そして、今も天職として毎日を忙しく過ごしている。

俺が独り身なのを心配して、様々な方から縁談を持ち込んで頂いたが、仕事の多忙さを主な理由に断り続けてきた。

自分でも寂しいと思うことは多かったが、自分は神仏に殉じればよいと独身を通した。

あの時までは。

親方が隠居を決めた年の翌正月、親族や縁者を集めて引退の宴が開かれた。

といっても、親方がお世話になった人へ感謝の気持ちを込めてお礼の為に行うもので、親方が祝ってもらうと言う趣旨ではない。

いかにも親方らしい、と俺も皆も思い、俺たちは全力で手伝いをした。

おかみさんの実家の伊勢からもご両親が見え、非常に大きな宴となった。

宴会中は招いた方全てに宴会場である旅館の部屋へ泊まっていただくのだが、親しい親族や遠方から来られる方の中には宴会期間外に数日滞在する方も居る。

その為、年明け前にそう言った方の為の部屋をおかみさんと一緒に手配していた時。

おかみさんの実家から来られるご両親と一緒の部屋に泊まる予定になっている家族が居る。

どこかで見たようなその"榊"と言う苗字に、俺が首を傾げているとおかみさんが教えてくれた。

「○○、その榊さんご家族を覚えているかい?」
家族構成は父、母、そして娘。住所は名古屋だ。

「……どこかで聞き覚えの有る苗字なんですが……?」
「ほら、かなり前だけどお前に懐いていて、白血病で亡くなった娘さんが居たろ?」
「ああ!確かに!引越し先は名古屋でしたね!思い出した思い出した!」
あの娘が亡くなった翌年、ご両親は転勤によりこの地を去ったのだ。

「そうか……あの後また娘さんが生まれたんですね。良かったなあ……

でも、なんでおかみさんのご両親と一緒の部屋に泊まられるんですか?」
「ん、色々有ってねぇ。おまえ、お伊勢さんに旅行行った時の事覚えてるかい?」
そう、オオカミ様のお社が地滑った年末の事だ。

あの時、おかみさんは久しぶりに実家へと顔を出し、ご両親と仲直りをした。

そして、実家の前に捨てられていた女の子の処遇を手伝う為に二ヶ月くらい実家へ残ったのだ。

「あの時、実家じゃあ乳飲み子の面倒は見られないし、警察からは連絡ないし、いっそウチで引き取っちまおうかと親方に相談しようと思ってたんだよ。そしたら偶然、お伊勢参りに来た榊さんご夫妻とバッタリ逢っちまって、榊さんご夫妻がこれもなにかの縁だ、って言ってその女の子を引き取る事にしたんさ。おまえにも話した筈だけどねぇ」
……確かに、思い出した。しかしあの頃の俺の頭はオオカミ様で占められていてすっかり忘れていたのだ。

しかし、数日とはいえ可愛らしい乳飲み子の面倒を見ていたおかみさんのご両親は情が移ってしまい、それからはちょくちょく榊さんと行き来するようになり、その娘にとっては祖父母同然だと言う。

「なるほど、それで同じ部屋ですか。納得しました」
「うん、だから大きめな部屋を用意してあげておくれね」
そして宴の為の手配は全て終わり、年が明けた。俺は例によって除夜の鐘を聞きながらオオカミ様のお社へと向かった。

最近は忙しさに感けて半年に一遍ほどしか参っていない。

あの少年にも、最後に逢ったのはもう何年も前になる。俺も歳を取ったなあ、と思いつつ
舗装路となったお社への道を走り、階段前の駐車スペースに辿り着いた。

珍しく先客が居る様で、車が一台停まっている。中には中年の男女が乗っている様だ。もう参ったのか、これからなのか。

俺は階段を上り、鳥居へと辿り着いた。

松明の明かりの中、お社の前に誰かがこちらに背を向けて立っていた。

ひゅう、と風が鳴り、粉雪が舞い散る。

松明に照らされて立っているその後姿には、長い黒髪が揺れている。

俺の心臓がドクンと波打つ。

早まる鼓動に促されるように俺は歩き出した。

すると俺に気付いたのかこちらを振り向いた。

涼しげな瞳、端正な顔立ち、長く艶やかな黒髪。

そして、松明の炎を写して鈍く輝く銀の髪飾り。

俺の記憶の中に有る、あの懐かしい、愛しい姿が其処に有った。

「オオカミ……さま……?」
俺は、呆然と呟いた。

(10)奇跡待つ日

~「オオカミ……さま……?」
俺が呟いた瞬間、彼女はビクッと身体を震わせた。

一瞬の後、彼女の瞳からつ、と涙が溢れた。

「○○……さま……?」
彼女の口から俺の名が紡ぎ出される。

記憶の中の、あの澄んだ鈴の音のような声で。

舞い散る雪の中、どれほどの時間が経ったろう。

彼女が困惑したように口を開いた。

「あれ……?私、なんで泣いてるの……?あれ……?○○様って……あれ……?」

俺も混乱していた。

目の前に立つ少女は、紛れも無くオオカミ様だ。

顔立ち、黒髪、声音、そして銀の髪飾り。

なによりも、俺の名前を呼んだではないか。

「貴女は……」俺が口を開き掛けた時、突然階段の方から声が掛かった。

「沙織、どうしたんだ?大丈夫か?」
どうやら、停まっていた車から男性が出てきたようだ。

「あ。お父さん!大丈夫。今行きます!」
彼女は涙を拭くと、俺の横を会釈しながら小走りに駆け去って行った。

車のドアが閉まる音が聞こえ、エンジン音が遠ざかっていく。

俺は呆然と立ち尽くす他無かった。

突然聞こえてきた笛の音で我に返る。

お社を振り返ると、見事な月明かりの中お社の屋根に誰かが座って笛を吹いている。

月明かりが逆光になりシルエットしか見えないが、直感的にあの少年だと感じた。

美しく響く笛の音をしばらく聴いていると、ふと演奏が止まった。

「時、来たれり」
朗々とした声が響く。もう一度見上げると、既にその影は消えていた。

俺はお社に酒を納め、願いを掛けた。

そして、踵を返すと鳥居を潜り、階段を降り始めた。

結局そのまま眠れずに居たので、少し早いが午前六時頃に親方の家へ向かう。

集合時間は七時なので、誰か弟子が来ている筈だ。

案の定、俺が付く頃には弟子達が半分は集まっていた。

親方とおかみさんに新年の挨拶をし、鏡割りした樽から酒を酌む。

庭で焚いた火に当たりながら酒をチビチビやっているとおかみさんが声を掛けてきた。

「○○、なんだか心此処にあらずって感じだね。なんか有ったのかい?」
「いえ、なんでもないです。もう少しでバスが迎えに来るから支度しないとですね」
言ってる傍から迎えのバスが到着した。

自分の車から荷物を下ろし、親方の荷物や祝いの品等をトランクに乗せてから乗車。

ものの十分でバスは会場の温泉旅館へと到着した。

荷物を下ろし、宴会場の状態を確認する。

親方とおかみさんには、先に部屋に行って寛いでもらった。

ほとんどの支度は旅館側でやってくれているし、今日の宴会は午後三時からなのでとりあえず温泉に浸かって汗を流した。

こんな大規模な宴は中々無いので弟弟子達もはしゃいでいる。

しかし俺はオオカミ様の事が気に掛かってはしゃぐ気にはなれなかった。

温泉から出て、与えられた部屋に入る。

弟子達は十畳ほどの部屋四つに分かれて宿泊だが、俺は一応個室を頂いた。

とんでもないと辞したのだがおかみさんが「あんたは特別だよ」と取ってくれたのだ。

茶を入れ、饅頭を食べながらこれからの段取りを思案しているとノックする者が居る。

「どうぞ」と答えると、弟弟子の一人が入ってきた。

彼はかつてお稲荷様の一件で取り憑かれて昏倒した男だ。

今では腕を上げ、俺の片腕となっている。

また、数奇な縁で例のお稲荷様の神主さん宅へ入り婿した。

「兄さん、ちょっといいですか?」
「ああ、どうした?まだ昼飯にゃ早いだろ?」
「いえ、それが……」
先ほど、温泉から出て旅館の中を歩いていると見覚えの有る女性とすれ違ったという。

その後ずっと誰だったか考えていたのだが、ようやく思い出したと。

「俺がお狐様に取り憑かれた時、意識が戻る前に見た夢でお狐様を踏んづけてた巫女さんそっくりなんです」
「ってことは……」
「そう、オオカミ様です。あの方にそっくりな女性とすれ違ったんです!」

「時、来たれり」
少年の声が俺の脳裏に蘇る。

「これは……」
その時が、奇跡の時が来たのか?
どうすればいい?探しに行くか?
……いや、焦るまい。

もう、これは運命なのだ、と感じた。

(11)奇蹟の宴

~宴が始まる少し前、俺は会場の最終チェックをする為に部屋を出た。

旅館の方に任せておけば良いとは思えど、仕事柄最終的な確認は自分の目でしないと気が済まないのだ。

自分の貧乏性に苦笑しながら会場に向かう途中、「○○さん……?」
と背後から女性に呼び止められた。

振り向くと、上品な中年女性が立っている。

どこかで逢った事が有る。俺の記憶が囁くが、名前と素性は出て来ない。

俺が途惑っていると、女性が微笑しながら話し出した。

「何年振りでしょう……私もすっかりおばあさんになっちゃったから解りませんよね。

ご無沙汰しております。詩織の母です」
瞬間、あどけない少女の笑顔が閃く。

白血病に冒されながら、精一杯生き、微笑みながら逝ったあの少女。

「これは!こちらこそ、ご無沙汰しております。お元気そうで何よりです」
溢れるように戻ってくる記憶。懐かしさと哀しさに、ちく、と胸が少し痛んだ。

「○○さんは本当に変わられませんね。あの頃のまま……」
「いえ、自分もすっかり歳を取りました。もうすっかり中年ですよ。

おかみさんから色々と伺っておりますが、今はお幸せなんですね」
「ええ、あの時の○○さんのお心遣いは忘れません。

詩織が微笑みながら逝けたのもみな貴方と、……そしてオオカミ様のお陰ですから……」
しばらく、二人は黙った。俺は、そして恐らく女性も少女の事を想い出していた筈だ。

少しの後、女性が口を開いた。

「あ、なにかご用事だったんでしょう。呼び止めてしまって申し訳有りません」
「とんでもない。また、後ほど旦那様もご一緒にゆっくりお話させて下さい」
俺は一礼して踵を返し、宴会場へと向かった。

宴会場はきっちりと設えられており、いつでも宴が始められる状態だ。

親方夫妻は既に玄関で弟子達数人とお客様を出迎えている。

俺が女将さんと少々打ち合わせをしていると、例のお稲荷様の神主さんご家族が現れた。
「やあ、○○さん!この度はお招きいただいて……」
神主さんが上機嫌で喋りだした。どうも、既に少々飲っているようだ。

「ご無沙汰してます。お元気そうですね」俺の横に優子さん(娘さん)が来た。

「ウチの宿六がご迷惑をお掛けしてませんか?」「まあ、少しは」
顔を合わせてぷっと噴出す。今では、すっかり兄妹の様になる事が出来た。

「なにか手伝う事、有りませんか?」
「じゃあ、玄関でご亭主と一緒に受付をお願いします」
料理、飲み物、座布団……しっかり設えられているが、結局もう一度確認する。

確かに手抜かり無い、と納得して時計を見るともう三時直前だ。

そろそろ、宴席が埋まりだしている。俺は親方を呼ぶ為に宴会場を後にした。

俺はまだ到着していないお客様を迎える為、親方夫妻と交代して玄関に立つ。

本来なら親方が立つのが道理だが、宴が始まるので一番弟子の俺が代理としてお迎えするのだ。

玄関脇に立ち、まだ到着してない方を名簿でチェックしていると
弟子の一人が呼びに来た。

だが、まだ数人来られて無い方が居るから、と弟子を帰す。

女将さんが用意してくれた茶を啜っていると、今度は優子さんが現れた。

「始まったばかりなのに抜けてきちゃダメですよ」
「いえ、ウチの人からの伝言です。オオカミ様が宴会に来てるって………
私のところに飛んできて、俺は手が離せないからとにかく兄さんに伝言してくれって」
「……そう、ですか」
俺は玄関を出て、空を見上げた。いつの間にか、雪が降りて来始めていた。

(12)時、来たり

~「はやく来てくださいね」
優子さんは会場へと戻っていった。

開始から既に数十分は経過している。

そろそろ出迎えを宿の方に任せて宴席に行っても失礼にはならないだろうと思う。

しかし、なぜか宴席に行けない。

なぜだ?そう、俺は怖いのだ。

おそらく宴席に来ている「オオカミ様」は晦日にお社で会った、あの少女だろう。

彼女はオオカミ様に間違いない。俺は既に確信を持っている。

しかし、あの時彼女は俺のことを覚えていなかった。

どのような形でオオカミ様が現世に顕在したのかは想像も出来ないが、俺の事を覚えていないという事が衝撃だった。

オオカミ様が俺の事を覚えていないという事実。

この状況を冷静に分析すれば、彼女にとって俺は見知らぬ中年男性でしかない。

この宴席で出逢えたという事は、縁がまったく無いわけではないだろうが
現実的にこれからの状況を考えると目の前が真っ暗になってくる。

こんな事ならば、あの頃のまま、精神で触れ合えたままでいた方が良かったのではないか?
生まれてからこんなに不安に、絶望に苛まれた事は無いほど俺は憔悴し切っていた。

「○○、様……?」
オオカミ様の声が聞こえる。どうやら、憔悴の余り幻聴まで聞こえてきたようだ。

「あの、○○様……?」
……幻聴、では無い!ばっと振り返ると、そこにはオオカミ様の姿があった。

「きゃっ!?」
すごい勢いで振り返った俺に驚いたようで、びくっと身をかわす彼女。

そこには、晦日の夜に出逢った、そして俺の記憶の中に住み続けている姿がハッキリと容を取っていた。

「貴女は……」俺が呟く。

「あ、はじめまして、ですよね。でも、大晦日にオオカミ様のお社でお逢いしましたね。
私は、榊 沙織と申します」
深々と頭を下げる彼女。艶やかな黒髪がさらっと流れる。

初めて逢った、あの時の様に。

「昔、○○様に可愛がって頂いた姉、詩織の妹です。

と言っても私は養女ですし、詩織姉様とは現世では逢えなかったけれど」

彼女は滔々と語りだした。

伊勢で捨てられていた事から、現在に至るまでの事を。

「でも、私は捨てられたことに感謝してるんです。

そのおかげで、父様や母様の子になれ、お祖父様やお祖母様にも逢えました。

それに、詩織姉様にも……○○様、どうなさったんですか?」
彼女が心配そうに俺の顔を覗き込む。

俺はいつの間にか、涙を流していた。嬉しさによって。

「いえ、なんでも有りません。

貴女が幸せな人生を歩んできたのが感じられて、嬉しかったんです」
俺の答えに彼女はちょっと驚き、頬を染めながらはにかんだ様に俯いた。

「……お社でお逢いしたとき、なぜか直ぐに○○様、って解ったんです。

貴方の事は、父様や母様、詩織姉様から聞いていたからかも知れませんが、それだけじゃなく、……なんていうのかな、パッと閃いたんです
貴方が、○○様だって」
そこで俺は気付いた。詩織姉様から聞いた、とは……?

「あ、ごめんなさい。変ですよね……でも、私、良く詩織姉様の夢を見るんです。

何か悩んだり、困ったりすると詩織姉様が夢に出てきて助けてくれるんです。

〇〇様の事もいつも聞いてました。

詩織姉様は○○様のお嫁さんにしてもらうんだって言ってました。

でも、沙織ちゃんになら○○様を譲っても良いよって言うんです……」
ココまで言い、彼女はハッとした様に顔を真っ赤に染めて
「ご、ごめんなさい!変な事を言って!
あ、そういえば私○○様をお呼びするように言われてたんです。

親方のおじ様が早く来い、って仰ってました。さ、行きましょう!」
彼女は俺の手を取ると、会場へと歩き出した。

その手は華奢で、心地よく冷たかった。

会場は相当な盛り上がりだった。

沙織と会場に入った俺は直ぐに親方に呼ばれ、しばらくは親方とお客様の相手をする事になった。

そのうち榊さん夫妻も近くに来て、想い出話になっていった。

沙織はちょっと離れたところで若い弟子達と談笑していたが、榊さんに呼ばれてこちらにやってきた。

想い出話が続くうち、俺は沙織がしている髪飾りについて尋ねてみた。

「沙織は銀の髪飾りを二つ持っているのです」
榊さんの奥様が答える。

「一つはおかみさんの実家の玄関に沙織が置かれていた時、最初から握り締めていました。

もう一つは三歳の時にお伊勢さんにお参りに行った際、奥の宮で不思議な少年が沙織にくれたのです」
その少年は神官服を着た玲瓏な美少年で、沙織に近づいて握らせてくれたと。

ご両親もまったく不審には感じず、ありがたく受け取ったと言う。

「今着けているのは、三歳の時にもらったものです」
沙織は髪飾りを外すと、俺に渡してくれた。

それは、間違いなく俺があの時、あの少年に預けたものだった。

(13)焦准(オオカミ様・宮大工シリーズ13)

~「この髪飾りをくれた少年は、どんな感じでしたか?」
俺は髪飾りを沙織に返しながら聞いてみた。

「私は小さかったので良く覚えて無いんですが、なぜかとても懐かしい感じがしました。まるで……」

言い淀んだ沙織の跡を継ぎ、母上様が話し出した。

「まるで、沙織の血縁者の様でした。

顔立ちや雰囲気も似ていて、後になって
もしかしたら沙織の本当の兄では、 と主人と話したものです。

しかし、とても神々しく優しげな少年でしたので、あの少年は神様の遣いで、沙織は神様が詩織を転生させてくれたのだとその時は考えました」

再び、沙織が話し出す。

「でも、私は詩織姉様の生まれ変わりではなく、妹でした。

〇〇様には先ほどお話しましたが、私の夢には詩織姉様が良く出てきてくれて、私をとても可愛がってくれました。

いつの間にか私の方が姉様よりもずっと年上になってしまったけれど」

親方も詩織の事を想い出したのか、涙ぐんでいる。

詩織の事を覚えている弟子たちも集まってきて、しんみりとした空気に包まれていた。

「最初に握り締めていた髪飾りは、今、持っていますか?」

少しの間静まっていた空気を破り、俺は沙織に聞いてみた。

「はい、ここに有ります。ずいぶんと古いものみたいで傷が多かったので、ペンダントにしたんです」

沙織は白い胸元からペンダントとなった髪飾りをを取り出し、俺に渡してくれた。

沙織の体温が残り仄かに暖かいそれを受け取ったとき、心臓がドクンと脈打った。

撫ぜ廻して出来たような擦れ痕と細かい傷が数多く残るそれは、かつて俺が二度目に納め、そして土砂に埋もれてしまったあの髪飾りだった。

「……その髪飾り、どこかで見た事が……?」

いつの間にか俺の後ろに廻り込んで覗いていたお客様が呟いた。

驚いて振り向くと、そこにはオオカミ様のお社を管理している神主さんが居た。

「あ!これは!○○さんがオオカミ様に納めたモノじゃないですか!」

その場に居た皆の視線が髪飾りと俺に集中する。

「……○○、本当なのか……?」

親方が搾り出すように問いかけて来た。

「……はい、確かに俺がかつてオオカミ様に納めたものです。間違い、有りません……」

「……え?え?どういうこと、なんですか……?」

沙織が混乱しつつ聞いてきた。いや、周りのすべての人々が混乱している。

俺と、優子さんとその夫、晃を除いて。

「……沙織さんが、オオカミ様だという事ですよ」

晃がボソッと答える。「晃!」俺が叱責するが、晃は構わず語りだした。

「兄さんはオオカミ様を愛し、オオカミ様も兄さんを愛した。

二人の余りの愛の深さに、天照大神様が心動かされ、オオカミ様はヒトへ、沙織さんへと転生なさったんでしょう。

ただ、時間を越えることまでは出来なかった。 だから……」

「やめろ、晃」

親方が静かに諌めると、さすがに晃はそれ以上口を開けなかった。

宴の席は、いつの間にか静まり返っていた。

「さ、お祝いの席が静まっちまったら仕方ないよ!」

パンパンと手を叩きながらおかみさんが声を上げた。

「そうそう、皆さんさあ飲んで飲んで!」

優子さんも声を張り上げる。

堰を切った様に止まっていた時間が動き出した。

俺も晃にコップを持たせ、ビールを並々と注ぎ込んだ。

俺には沙織がビールを注いでくれ、晃と俺は一気に喉の奥へと流し込んだ。

宴は深夜まで続き、沙織とご両親、若い弟子達は十二時前に部屋へと引き上げた。

お客様がすべて部屋に戻り、それを見届けてから親方夫妻も引き上げ、最後に残ったのは俺、そして晃と優子さんだった。

三人ともかなり酔ってはいるが、なんとか理性は繋ぎ止めている。

優子さんのお酌で静かに日本酒を飲んでいるうち、晃が口を開いた。

「……兄さん、沙織さんはオオカミ様ですよね」

「……ああ、多分、な」

「兄さん、どうするんですか?」

俺は、オオカミ様、いや沙織に自分の気持ちを伝える積りは無い事を話した。

「何故ですか!」晃が声を上げる。

俺は歳が離れ過ぎている事、俺の事を覚えてない事を主な理由として、そうなると常識的に難しいだろうからと答えた。

「意気地無し」

それまで黙っていた優子さんが俯いたままぼそっと呟いた。

「怖いんでしょう。あの方に拒否されるのが」
ぞくっと背筋に寒いモノが走る。

違う。いつもの優子さんじゃ無い……?

「優子……?」

晃も何かを感じたらしい。

優子さんがすーっと顔を上げる。その顔は優子さんのモノではなかった。

目尻はきゅっと吊上がり、高い鼻梁の下には厚めな紅い唇。

そして、微かに紅く光る瞳。この、刃物のように尖った美貌は………

「お狐様……」晃が息を呑む。

俺の背中にも冷たい汗が流れた。

(14)想い還りし夜(最終話)

お狐様の突然の発現に息を呑む俺達。

優子さんがお狐様に憑かれたのは何年振りだろうか。

もう、十年以上前になるのだな、等と脈打つ心臓とは裏腹に
思考は妙に冷静に過去を想い出していた。

「お久しぶり、ね。○○さん……そして、あなた(晃)も……」

口の端を上げ、微笑う彼女。

ぞくりとするほど妖艶なのだが、同時に冷たい戦慄を覚える。

俺は、頭を振りながら精神を統一し、大きく息を吐いた。

「なぜ、出てこられたのですか?」
俺が尋ねると同時に、晃がビクッと震える。

「ご挨拶ね。久しぶりに逢えたのに。

あの方に対しては弱気なのに、私には随分とキツく当たるのね」

甦る、苦く切なく、そして少しだけ甘い記憶。

お狐様に憑かれた優子さんを晃が抱きしめて鎮めた夜。

あれ以来、彼女が現れる事は無かったのだが………

「なぜ出てきたのかは解っているでしょう?
あの時の私の言葉、忘れていない筈よね。貴方達なら」

……確かに、覚えている。彼女は言った。

俺の心が変わった時、また逢いに来ると。

「覚えています。だけど俺の心は変わっちゃいない。

俺はオオカミ様だけを愛し続けている」

彼女の微笑が、嘲笑う様に変わった。

「そう。その答えがあの方を見守っていくって事なの?
自分の気持ちを伝える事無く」

ふん、とせせら笑う。

「触れてはいけない時には抱きしめたくせに
触れられるようになったら諦めるなんて、貴方と結ばれるために御身をヒトにまで落としたあの方が報われないわね」

その言葉に俺は驚愕した。

俺と、結ばれる為に……

その時、がた、と物音が聞こえた。

俺と晃はビクッと驚き、物音のした方を見る。

そこには、沙織が見覚えのある少女と手を繋いで立っていた。

記憶の中から愛らしい姿が甦り、その少女と重なった。あれは、詩織………

「詩織ちゃん……」
俺が呟く。

詩織は俺の記憶の中に有るままの天使の様な微笑を見せ、すっと消えてしまった。

「優子!」晃が叫んだ。

驚いて振り返ると、倒れこんだ優子さんを晃が抱きとめた所だった。

その顔はお狐様のものではなく、既に優しげな優子さんのものに戻っている。

呆然と立ちすくむ沙織。消えてしまった詩織。

倒れこんだまま意識の無い優子さん。

あまりの急な展開に俺と晃は混乱した。

俺は深呼吸をして、優先順位を確認する。まずは優子さんの状態だ。

「晃、優子さんはどうなっている!?」

とりあえず正常に息をし、脈も大丈夫。心臓も動いている。

ほっと胸を撫で下ろしたが、万が一という事もある。

「沙織さん、救急車をお願いします」

俺が沙織に向かって声を掛けると、晃が答えた。

「いえ、大丈夫です。折角の宴の初日にそんな縁起の悪い事は出来ません。

俺が自分で病院に運びます」

「馬鹿野郎!お前も酒飲んでるだろうが!そんな事言ってる場合か!」

晃を睨み付ける俺の横を沙織が通り過ぎ、優子さんを抱く晃の前に座り込んだ。

沙織は晃から優子さんを抱き受けると、自分の白い額を優子さんの額に当てた。

数分の後、沙織が顔を上げる。

「大丈夫です。彼女はもう奥様の中には居りません」

呆気にとられる俺と晃。

「お部屋で横にさせて上げたほうが宜しいでしょう。

〇〇様、お手伝いしてあげて下さい」

しかし晃は一人で優子さんを抱き上げ部屋に帰って行き、広間には俺と沙織が残された。
「○○様、少し散歩しませんか?」

沙織が俺を見つめながら聞いてくる。

そして数分後、俺と沙織は旅館の庭に有る池の辺をゆっくりと歩いていた。

空を見上げると見事な月が光っている。

沙織の歩みが止まる気配を感じ、俺は月明かりに照らされて白く浮かぶ沙織に目を向けた。

「……宴会から部屋に戻ってうとうとしていたら久しぶりに姉様の夢を見たんです」

そして、夢から覚めると詩織がそのまま存在していたのだという。

詩織は微笑みながら沙織の手を取って俺達の居た宴会場へと導いた。

そして、お狐様が優子さんに憑いている所に出くわしたと。

「彼女の言葉を驚きながら聞いていたら、姉様が私をとん、と押したんです。

そうしたら、私の中に、爆発したように、全てが、戻って……」

沙織は漆黒の瞳から、宝石の様に輝く涙を溢れさせた。

「貴方と、初めて、逢った時の事、貴方に、抱き締められた時の事……」

もう言葉になっていない。俺の両目からも、驚くほどの涙が溢れてきていた。

両手を顔に当て、泣き笑いのような表情をしている沙織。

俺は両手を広げ、辛うじて声を絞り出した。

「お還りなさい」

沙織は俺の腕の中に飛び込んで来た。

そして、はっきりと応えた。

「ただいま、還りました」

抱き締めたその華奢な肉体は、あの時と同じ様に熱かった。

どこからか微かに流れてくる笛の音を感じながら、月明かりに照らされた二人の影は重なったままだった。

(完)

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