七月の蒸し暑い午後だった。
彼がその駐屯地に配属されてから、まだ三か月も経っていない頃の話だ。高校を出てすぐ入隊し、右も左も分からないまま訓練と雑務に追われる日々が続いていた。身体は慣れ始めていたが、頭の中は常に余裕がなかったという。
その日、彼は数名の同期とともに、駐屯地内にある小さな資料館の清掃を命じられた。駐屯地祭で一般開放されるため、その事前準備だった。
資料館といっても、観光施設のような派手さはない。薄暗い室内に、ガラスケースがいくつも並び、旧い制服や装備品、写真、書類が静かに収められている。空調は効いているはずなのに、どこか湿った空気がこもっていた。
彼自身、歴史に特別な興味はなかった。戦争の話も、教科書で習った程度の知識しかない。正直なところ、気が重かった。ただ、炎天下での訓練よりは楽だろうと思い、黙って指示に従った。
作業は単調だった。ガラスケースを拭き、床を掃き、埃を取る。それだけだ。同期の中には、展示物に見入って手を止める者もいたが、彼は余計なことを考えないよう、ひたすら作業を続けていた。
問題のケースを任されたのは、その日の後半だった。

奥まった場所に置かれた、小さなガラスケース。中には、紙の束のようなものが収められていた。白い布の上に置かれ、さらに透明なシートで包まれている。説明文はあったが、彼は読まなかった。ただ、ケース内を拭こうとして、手を伸ばした。
その瞬間だった。
胸の奥に、強い圧迫感が走った。
息が詰まるような感覚。理由もなく、喉が熱くなった。次の瞬間、視界が歪み、ぽたりと床に水滴が落ちた。自分の涙だと気づくまでに、少し時間がかかった。
涙は止まらなかった。
悲しいとも、怖いとも違う。ただ、何かが決壊したように、感情が溢れ出してくる。理由は分からない。目の前にある紙の束を見ているだけなのに、身体が勝手に反応している。
彼は慌てて顔を伏せた。同期に見られたくなかった。だが、涙は拭っても拭っても溢れてきた。呼吸が乱れ、足元がふらつく。
そのとき、不意に思ったという。
――これは、自分の感情じゃない。
なぜそう感じたのか、今でも説明はできない。ただ、胸の内側に流れ込んでくるものが、自分の人生とは噛み合っていないように感じた。知らない記憶。知らない重さ。知らないはずの後悔。
頭の奥で、誰かが何かを伝えようとしている気配があった。
次に意識が戻ったとき、彼は医務室のベッドに横になっていた。
白い天井。消毒薬の匂い。身体は重く、喉がひどく乾いていた。付き添っていた同期の話では、彼は突然泣き出し、その場で崩れるように倒れたらしい。声をかけても反応がなく、医務室へ運ばれたという。
「お前、何があったんだ」
後日、別の班の班長に呼び出された。直接の上官ではないが、妙に顔が広く、古いことに詳しい人物だった。彼は事情を聞くと、しばらく黙り込み、資料館の名前を口にした。
「あそこ、時々そういうのがある」
それだけだった。
詳しい説明はなかった。ただ、「触ったもの」「立っていた場所」「時間」を細かく確認された。そして最後に、ぽつりとこう言った。
「気をつけろよ。あそこにあるのは、展示品だけじゃない」
それ以上、何も教えてはくれなかった。
後になって、同期から噂を聞いた。彼が触れようとした紙の束は、寄贈品のひとつで、来歴がはっきりしないものらしい。誰が持ち込み、なぜそこにあるのか、詳しい記録は残っていない。ただ、扱いには注意しろと言われている、と。
彼自身、その後、同じ場所に近づくことはなかった。資料館の前を通るたび、胸の奥がざわついた。理由もなく、息が浅くなる。
奇妙なのは、あの日のことを思い出そうとすると、感情の輪郭が曖昧になることだった。
涙を流した記憶はある。だが、泣いていたのが本当に自分だったのか、確信が持てない。まるで、身体だけがその場にあって、中身が一時的に入れ替わっていたような感覚が残っている。
今でも、彼は時々夢を見る。
知らない部屋。知らない匂い。机の上に置かれた紙と筆。書こうとしても、指が震えて文字にならない。外から、低い音が響いてくる。遠くで、誰かが名前を呼んでいる。
目が覚めると、決まって枕が濡れている。
涙を流した理由は、今も分からない。
あのとき、何に触れたのかも、はっきりしない。
ただ一つだけ、確信していることがある。
あの資料館で流れた涙は、
自分ひとりのものではなかった。
[出典:775 :本当にあった怖い名無し:2011/06/18(土) 08:30:27.05 ID:YRHnQlpi0]