まだ俺が大学にいた頃のことだ。二、三年前になる。
ある夜、実家から婆ちゃんが倒れたと連絡が入った。小さい頃から俺を育ててくれた人だ。講義もバイトも放り出して、その日のうちに帰省した。幸い命に別状はなく、数日で容体も安定したが、俺はそのまま一週間ほど実家に残ることにした。
久しぶりの家は妙に薄暗かった。家具の配置はほとんど変わっていないのに、自分の居場所だけが消えている感じがした。昔の自室は弟の部屋になっていて、居間に寝転がっても落ち着かない。時間だけが余り、夜になると頭の中がやけに騒がしくなった。
結局、県内に残っていた地元の友人たちに連絡を取った。社会人や専門学生ばかりで、全員が暇というわけではなかったが、庄司と富樫、それから途中合流の小山田が付き合ってくれることになった。
田舎は退屈だ。カラオケ、ボウリング、三十分かけて行くネットカフェ。金もないから、ファミレスでドリンクバーを頼んで長居するだけの日々が続いた。
帰省して六日目の火曜の夜も、俺たちは同じファミレスにいた。
「ほんと何もねぇな」
俺が言うと、庄司が笑って頷いた。
そのとき富樫が、急に思い出したように言った。
「じゃあさ、あそこ行ってみねぇ?」
町外れの廃病院。昔から噂だけは絶えない場所だ。幽霊だの地下だの、聞き慣れた話ばかりで、俺は正直乗り気じゃなかった。けれど話は盛り上がり、いつの間にか現地集合が決まっていた。断る理由を見つけられなかった。
病院は田んぼと畑に囲まれた集落の奥にあった。三階建ての古い建物で、入口は鎖で塞がれ、窓は割れ放題だった。街灯はほとんどなく、月明かりがやけに冷たく見えた。
庄司が、先輩から聞いたという話をした。ここで煙草を捨てたら、急に様子がおかしくなって「帰る」とだけ繰り返すようになった人がいたという。しかも、その人はもともと地元の人間だったらしい。
嫌な気分になったが、俺は何も言わなかった。
懐中電灯を頼りに、割れた窓から中に入った瞬間、足元でガラスが鳴った。その音と同時に、体の芯が一気に冷えた。鳥肌が立ち、逃げたい衝動が込み上げたが、車の鍵は庄司が持っている。置いていかれるわけにはいかなかった。
受付の広間は荒れ果てていた。倒れた棚、土にまみれた書類。光に照らされるたび、それらがやけに現実味を帯びて見えた。庄司がわざと大声を出し、反響を楽しんでいた。
地下に行こうとする二人を必死で止め、俺たちは二階へ向かった。その途中、振り返ったときだ。階段の下、壁の角から、何かが見えた。足首から下だけ。暗がりに、確かにあった。
息が詰まり、体が動かなくなった。富樫に声をかけられて我に返り、見間違いだと言い聞かせてその場を離れた。
二階も三階も、特に何もなかった。ただ壊されたままのテレビが置かれているだけだった。庄司は笑っていたが、俺の胸のざわつきは消えなかった。
結局、俺たちは一階に戻り、地下へ降りることになった。
地下は奇妙に整っていた。散乱物が少なく、車椅子や瓶が規則正しく並んでいる。空気は重く、呼吸するたび喉の奥がひっかかる感じがした。
奥に手術室の表示が見えた瞬間、富樫が駆け出した。そこから先の記憶は、水の中に沈んだみたいに曖昧だ。
富樫が転び、呻き声を上げた。庄司が笑いかけ、すぐに黙った。富樫は足を押さえ、震えていた。理由は分からない。ただ、近づきたくないと本能が告げていた。
懐中電灯の光が手術室の扉を照らした。扉は、少しだけ開いていた。
その隙間の向こうに、何かがいる気配があった。形ははっきりしない。ただ、こちらを見ていると分かった。俺は叫び、庄司も叫び、富樫を引きずって逃げた。
背後で何かが転がる音がした。振り向いた瞬間、視界がぶれ、庄司と富樫が倒れた。庄司は立ち上がり、意味の分からないことを叫びながら走り去った。
俺は富樫を引きずろうとした。そのとき、足元に気配を感じた。見下ろすと、顔があった。子供の顔だった。感情のない目で、ただこちらを見上げていた。
俺は富樫を置いて走った。
鎖で塞がれた玄関を揺さぶっていると、外から光が差した。小山田のバイクだった。彼の顔を見た瞬間、全身の力が抜けた。
その後、庄司も富樫も戻らなかった。警察は事件として扱ったが、俺の話は信じられなかった。富樫は地下で見つかった。庄司はいまだ行方不明だ。
携帯には、富樫から何度も着信が残っていた。小山田の携帯にも、同じ番号から電話があったらしい。通話に出ると、向こうは短い言葉を繰り返したという。「いる」「今」「終わらない」。
俺は今でも、知らない番号の着信音が鳴るたびに体が固まる。
もしあの夜、俺たちがあの場所に行かなければ。
もしあのとき、誰か一人でも違う選択をしていたら。
そう考え始めると、もう眠れなくなる。
(了)