僕が図書館の夜間警備を始めたのは、大学院を中退して三年目のことだった。
研究職への未練はすでに薄れていたし、人付き合いの少ない仕事を探していた。市立図書館の求人を見つけたとき、条件は悪くないと思った。週四日、午後十時から翌朝六時まで。閉館後の館内を巡回し、異常がないかを確認する。それだけだと説明された。
採用初日に教わったのは、巡回の順路と、もう一つだけ奇妙な決まりだった。閉館後の点呼である。
午後十時ちょうどに正面玄関の施錠を確認したあと、必ず館内放送用のマイクに向かって声を出す。
「本日の業務を終了します。館内に残っている方はいませんか」
誰もいないはずの建物に向かって問いかける。返事が返ってくることはない。それが正常だと、前任者は言った。ただし、これを省くと後で困ることがあるらしい。理由は教えてもらえなかった。
最初の一ヶ月は、何事も起きなかった。深夜の図書館は驚くほど静かだった。空調の低い唸りと、遠くを通る車の音だけが、時間を測る目印になる。巡回にも慣れ、むしろ居心地がいいと感じ始めていた。本に囲まれ、誰にも話しかけられない時間は、僕には都合がよかった。
違和感に気づいたのは、二ヶ月目の半ばだ。
その日はひどく疲れていた。前の晩に眠れず、仮眠も取れないまま出勤した。施錠を終え、巡回に入る前に点呼を忘れたことに、三階の閲覧室まで来てから気づいた。戻って放送するのも面倒で、そのまま続けることにした。
四階の郷土資料室に入ったとき、空気が変わった。湿度が高いわけではないのに、皮膚に薄い膜が張り付くような感覚があった。懐中電灯で棚を照らしながら進むと、床に何かが置かれているのが見えた。
読みかけの本だった。開いたまま伏せて置かれている。閉館前に職員が必ず確認する場所だ。誰かが残したと考える方が不自然だった。
手に取ると、ページには書き込みがあった。鉛筆で、薄く、何度もなぞられた跡。文字ではない。縦線と横線が、不規則に並んでいる。数を数えているようにも見えたし、何かを区切って記録しているようにも見えた。
僕はその本を棚に戻し、何もなかったふりをして巡回を続けた。翌日、日勤の職員に確認したが、誰もそんな本の存在を知らなかった。
三日後、また点呼を忘れた。今度は意図的だった。省いたときに起きたことが、偶然なのかどうかを確かめたかった。
巡回中、二階の児童書コーナーで足音を聞いた。軽く、跳ねるような音が、書架の向こうを横切っていく。立ち止まり、耳を澄ますと、今度は階段の方から規則的な音が聞こえた。誰かが下りていく足取りだった。追いかけたが、そこには誰もいなかった。
一階に戻り、カウンターの前に立ったとき、返却ボックスが目に入った。閉館時には空だったはずの箱に、本が五冊ほど積まれている。無造作に、しかし倒れないように重ねられていた。
タイトルを確認しようと手を伸ばした瞬間、館内放送のスピーカーから音が漏れた。
「……います」
途切れた声だった。性別も年齢も分からない。複数の声が重なっているようでもあり、一人の声が反響しているだけのようにも聞こえた。古い建物だ。配線の不具合だろうと、そのときは思った。
だが、それで終わりではなかった。
点呼を省くたび、何かが起きた。閲覧机の配置が微妙にずれている。書架の本が、背表紙を内側に向けて並び替えられている。誰もいないはずのトイレの個室から、紙を破る音がする。
僕は試すのをやめた。それ以降、必ず点呼を行った。マイクに向かって問いかけ、静寂を確認してから巡回に入る。その手順を守っている限り、異常は起きなかった。
三ヶ月が過ぎたある夜、ふと別の考えが浮かんだ。返事を待ってみたらどうなるのだろう。
施錠を終え、マイクの前に立つ。
「本日の業務を終了します。館内に残っている方はいませんか」
いつもならすぐに切るスイッチを、そのまま握っていた。十秒。二十秒。
スピーカーが、かすかに震えた。
「はい」「ここに」「います」「まだ」「読んで」
声は重なり、途切れ、また重なった。子どもの声、老人の声、男の声、女の声。数は分からない。それぞれが別の言葉を発しているのに、全体として一つの意思を伝えようとしているように聞こえた。
僕はマイクを切った。その夜、巡回はしなかった。事務室に鍵をかけ、椅子に座ったまま朝を待った。窓の外が白み始めるまで、館内からは何の音もしなかった。
辞表を出したのは、その週のうちだった。理由は体調不良とだけ記した。後任が決まるまで、日中の職員が夜間の施錠だけを行うことになったと聞いた。
半年後、久しぶりにその図書館の前を通りかかった。すでに閉館し、建物の老朽化を理由に取り壊しが決まったという告知が掲示されていた。
掲示板を眺めながら、あの夜の声を思い出した。あれは、問いかけに応えただけだったのではないか。
誰もいないはずの場所で、声をかけ続ける。返事がないことを前提に、呼びかける。その前提が崩れたとき、何が残るのか。
先週、新しい職場の倉庫で荷物を整理していたとき、無意識に声が漏れた。
「これで最後かな」
背後で、何かが息を吸う音を聞いた気がした。
(了)