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短編 奇妙な話・不思議な話・怪異譚 n+2026 オリジナル作品

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夜勤明けの喫茶店は、世界が少しだけ遅れている。

それは感覚の話だった。砂糖の瓶に射し込む朝の光が、どこかで止まりかけているように見えるとか、レジの電子音が鳴ったあと、音の残り香だけが空気に貼りつくとか、その程度のことだ。説明すれば気のせいで片づく。俺自身、そうやって処理してきた。

だからこの店に来る。夜勤明けの頭は、現実と夢の境目が曖昧で、少しくらい世界が歪んでいても受け入れられる。

窓際の席に、先に男が座っていた。大学時代の知り合いだ。最近は会えば必ず同じ話をする。

「それ、まだ使ってんのか」

顎で俺のスマホを指す。AIのことだ。

「使うよ」
「ズルだろ」
「電卓もズルだったな」
「それとは違う」

彼はそう言い切った。声に迷いはなかった。ズルだと断じることで、守れるものがある顔をしていた。

「じゃあ、三十秒だけ」

俺はスマホをテーブルに置いた。お題を出させて、短い話を作らせた。二百字。最後に一度だけ、背中が冷えるように。

読み上げたあと、彼は鼻で笑った。
「薄い」
「そうだな」

俺は否定しなかった。薄い。だが、それでいい。

そのとき、ドアベルが鳴った。チリン。

半拍遅れて、もう一度鳴る。

誰も入ってこない。店員も振り向かない。客も気づかない。俺と彼だけが音を聞いた。

「今の、聞いたか」
「……ああ」

レジの電子音が鳴る。ピッ。
半拍遅れて、またピッ。

店員が困ったように画面を覗き込んだ。
「すみません、いま、勝手に……」

彼が小声で言った。
「バグってんじゃねえの」
「前からだ」

俺はそう答えた。前から、少しずつ遅れていた。

店員は操作を止めて、こちらを見た。
「お客様、会計は……」
「まだ」

店員は首を傾げた。
「変ですね。注文が……」

言葉を切って、画面をこちらに向ける。
表示されていたのは、二年前の日付だった。時刻も、客単価も、当時のまま。俺がこの店に通い始めた頃だ。

「戻ってきてるみたいで」
「何が」
「注文です」

彼の顔色が変わった。
「戻るって、どういう……」
「消えていたものが、です」

店内が静まり返る。テレビは無音のまま、アナウンサーが半拍遅れて口を動かした。

俺は席を立った。伝票を持ってレジに向かう。表示された金額は、あり得ないほど安かった。

「いいんですか」
「……その値段で、処理されています」

会計を済ませた瞬間、スマホが勝手に点灯した。通知が一件。送信者も件名もない。

《あなたの注文は、すでに出ています》

背中が冷えた。

振り向くと、さっきまで俺が座っていた席に、もう一人、俺がいた。夜勤明けの顔で、砂糖の瓶を見つめている。まばたきの間隔が、ほんの少し遅い。

彼ではない。俺だ。

その俺が、口を開いた。
「それって、ズルじゃん」

声は、半拍遅れて届いた。

彼が呻いた。
「おい……あれ……」
「静かに」

俺は言った。理由は分からない。ただ、今ここで説明を始めたら、何かが確定してしまう気がした。

店員が震える声で言う。
「すみません……追加の注文が……」

画面には、同じ番号の注文が並んでいた。時間だけが、少しずつズレている。

俺はドアに向かった。外に出れば、この遅れから抜けられる気がした。

ドアベルが鳴る。チリン。

半拍遅れて、もう一度。

外に出た瞬間、冷たい空気が肺に入った。時間は正しく流れている。振り向くと、ガラス越しに店内が見えた。

窓際の席に、俺が二人座っている。

一人は砂糖の瓶を見つめ、一人はスマホを伏せている。どちらも動かない。

レジの電子音が鳴った。ピッ。

半拍遅れて、もう一度。

その音が、俺の背中に貼りついたまま、離れなかった。

(了)

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