彼が小学生だった頃の話だ。
その日は夕方から急に冷え込んだ。日が落ちる頃には、空気が張りつめるように冷たくなり、細かな雪が舞い始めた。山の方から吹き下ろす風が強く、家の瓦がときどき鳴っていた。
布団に入る前、彼は窓の外を見て、「このまま降ったら明日は積もるな」と思った。田舎では、雪が積もるかどうかは翌朝の段取りに直結する。通学路、畑、家畜の世話、すべてが変わる。
翌朝、目を覚ますと外は静まり返っていた。音が吸い取られたような静けさだった。
彼は防寒着もそこそこに、いつもの癖で新聞を取りに出た。玄関を開けると、白い世界が広がっていた。昨夜の雪は思った以上に積もっており、地面の凹凸がすべて均されている。
ツッカケを突っかけ、玄関から郵便受けまで歩く。足元で雪がサクサクと鳴る。その音だけが、やけに大きく響いていた。
新聞を取って顔を上げたとき、目の前の田んぼが一面真っ白になっているのが見えた。雪の表面はまだ荒れておらず、誰も踏み入れていないことがすぐにわかった。
彼は少しの間、その景色を眺めていた。
そのとき、田んぼの中央付近に、ぽつりぽつりと黒い点が並んでいるのに気づいた。
最初は、鳥か何かだと思った。
だが、よく見ると点は等間隔で並び、一直線に続いている。山際から田んぼの真ん中へ向かって伸びているようだった。
近寄る勇気はなかったが、目を凝らすと形が分かってきた。
それは足跡だった。
大きい。
子供の足ではない。大人の男よりも、やや大きいように見えた。
彼は一瞬、熊を連想した。だが、熊にしては形がおかしい。
肉球の跡も爪の跡もない。はっきりと、人の足の形をしている。
さらにおかしいことに気づいた。
足跡は、すべて右足だった。
右、右、右。
片足だけで歩いたように、一定の間隔で続いている。
左足の跡は、どこにもない。
雪は今朝降り積もったばかりだ。昨日までの痕跡は、すべて消えている。
つまり、この足跡は夜のうちについたものだ。
彼の背中を、冷たいものが走った。
寒さとは別の、嫌な冷え方だった。
「うわ、えらいもん見てしもうた」
声に出した瞬間、足跡がこちらに向かって続いているような気がして、彼は慌てて踵を返した。
ツッカケが雪に取られそうになるのも構わず、玄関に飛び込む。
中では祖父が囲炉裏のそばに座っていた。
新聞を落としそうになりながら、彼はさっき見たものを一気に話した。
田んぼのこと。
大きな足跡のこと。
右足しかなかったこと。
祖父は、途中で遮ることもなく、黙って聞いていた。
話し終えると、囲炉裏にくべていた薪を一度つつき、何でもないことのように言った。
「ああ、たたら様じゃの」
それだけだった。
怖がる様子も、驚く様子もない。
「気にするな。昔からおる」
それ以上、何も言わなかった。
彼はもう一度、窓の外を見た。
田んぼは相変わらず白く、足跡は見えない位置にある。
だが、あの右足だけの並びを思い出すと、雪の下に何かが立っているような気がして、目を逸らした。
その後、その足跡をもう一度見に行くことはなかった。
祖父も、たたら様について詳しく語ることは一切なかった。
今、彼は古典を教える教師になっている。
昔話や民間信仰を授業で扱うこともある。
だが、雪の夜に現れる「片足のもの」についてだけは、資料を探そうとは思わない。
名前がついた瞬間、あの足跡が、こちらへ向かって歩き出しそうな気がするからだ。
[出典:819 :元登山者:2009/11/22(日) 18:15:16 ID:NVak+ldI0]