子どもの頃、祖母の畑仕事についていくのは退屈だった。
大人が黙々と土をいじる時間は、子どもにとっては途方もなく長い。太陽は容赦なく照りつけ、蝉の声は頭の中まで入り込んでくる。やることがない。だから俺は、祖母の「山に入るな」という言葉を、いつも半分だけ聞いていた。
祖母の家の裏には、段々になったみかん畑があり、その奥に杉林が広がっていた。畑と林の境目は曖昧で、草の背が少し高くなるだけだ。杉林は昼でも薄暗く、足元は落ち葉が重なって柔らかい。子どもにとっては、ちょうどいい探検場所だった。
祖母が鍬を振るっているあいだ、俺は林の中をうろついた。虫を追いかけ、拾った枝で剣を作り、誰もいない相手と勝手に戦った。その日も同じように、杉の間を抜けて奥へ進んだ。
そこで、地面の不自然な凹みに気づいた。
最初は穴だと思った。丸く窪んだ地面の縁に、古いコンクリートが残っている。覗き込むと中は真っ暗で、底が見えない。水の気配もしない。枯れ井戸かもしれない、と子どもなりに考えた。
本来なら、上にはコンクリートの蓋がはまっているはずだった。だが、その蓋の端がひび割れて欠けていた。ほんのわずかな隙間があり、指一本がやっと入るかどうかという程度だ。
子どもは、隙間を見ると試したくなる。理由はない。俺は近くに落ちていた枝を拾い、その隙間に突っ込んだ。コンクリートの欠片がぽろぽろと落ち、乾いた音を立てて中へ消えていく。
「もう少し開けば、見えるかもしれない」
それだけだった。怖いという感覚は、まだなかった。
しばらく枝でほじっていると、音がした。
低い音だった。地面の奥から響いてくるような、腹に当たる音。最初は風だと思った。杉林では、風が吹くと木が軋み、似たような音が出る。
だが、それとは違った。音には間があり、一定の間隔で繰り返されている。
ドゥン……ドゥン……
井戸の中で反響しているような音だった。
俺は手を止め、耳を澄ました。音は消えず、むしろ少しずつ大きくなっている。下から上へ、筒の中を伝って近づいてくるような感じがした。
やがて、音は別のものに変わった。
言葉のようで、言葉じゃない。息を含んだ音が、無理に形を取ろうとしている。
「……ほう……れい……」
声だったのかどうか、今でもはっきりしない。ただ、そう聞こえた。嗄れた、年寄りの喉の奥を擦るような音だった。
意味は分からない。命令でも名前でもない。ただ、同じ音が、一定の調子で繰り返される。
「……ほうれい……」
その音が、井戸の中にある。そう思った瞬間、背中に冷たいものが走った。頭ではなく、背骨の内側をなぞられるような感覚だった。
俺は枝を放り出し、振り返って走った。足元の落ち葉が滑り、何度もつまずきそうになる。後ろは見なかった。見たら、戻ってこられない気がした。
みかん畑に飛び出すと、祖母は変わらず作業をしていた。俺は息を切らしながら「井戸が」とだけ叫んだ。言葉にならなかった。
祖母は顔を上げ、俺を見た。最初は叱るときの目だった。だが、俺の顔を一目見ると、その表情が変わった。驚きでも恐怖でもない。ただ、何かを確認したような目だった。
祖母は何も言わず、畑の端に置いてあった弁当箱を手に取った。昼に食べるはずだったそれを持ち、杉林のほうへ歩き出した。
俺は慌てて「一緒に行く」と言った。祖母は立ち止まり、首を横に振った。
「ここで待ってな」
その声は、いつも山で聞く、安心させる声じゃなかった。迷いのない、決めた声だった。
祖母が杉林に消えると、周囲の音が薄くなった。蝉の声は聞こえているのに、遠い。畑の匂いも、急に頼りなくなった。俺は畝の影にしゃがみ込み、手のひらに爪を立てた。痛みで、自分がまだここにいることを確かめた。
どれくらい経ったのか分からない。
祖母は戻ってきた。
弁当箱は、空だった。
祖母は何事もなかったように弁当箱を洗い場に置き、俺の腕を掴んだ。
「帰るぞ」
その日は畑仕事を切り上げ、山を下りた。俺は何度も振り返った。杉林の奥、井戸のあった方角。風は吹いていないのに、杉の葉が一斉に揺れた気がした。
家に戻ると、祖母は俺に言った。
「もう山に入るな」
理由は言わない。井戸のことも、杉林のことも。俺があの音について聞こうとすると、祖母は口を閉ざした。その沈黙が、どんな叱責よりも重かった。
それ以来、俺は裏山に近づかなかった。
今でも、夏の夜に水の落ちる音を聞くと、無意識に耳を澄ましてしまう。あのとき聞いたのが、本当に声だったのかどうか、確かめるためじゃない。
ただ、もしまた聞こえたら、今度は誰が弁当箱を持って行くのか。
そのことを考えてしまうからだ。
そして、考えてしまった自分が、もう境目の内側に立っている気がしてならない。
(了)
[出典:585 :本当にあった怖い名無し:2011/08/05(金) 20:17:24.41 ID:LCe5Uc1zO]