深夜の県境を跨ぐ山道というのは、どうしてこうも生き物の内臓に似ているのだろう。
車のヘッドライトが切り裂く闇はどこまでも濃く、アスファルトは湿って黒光りしている。カーブを曲がるたびに、老朽化したセダンのサスペンションが軋む音が、胃壁を擦るような不快な振動として私の背骨に伝わってきた。
時刻は午前一時を回っていた。
実家での法事を終え、翌朝の仕事に間に合わせるための強行軍だった。高速道路を使えばいいものを、数千円の出費を惜しんで下道を選んだのが運の尽きだ。ナビゲーションシステムは一時間も前から「この先、幅員減少」という無機質な警告を繰り返すだけで、沈黙を守り続けている。
車内には、コンビニで買った安いコーヒーの冷めた匂いと、微かに焦げ付いたようなゴムの臭いが漂っていた。古い車特有の排気の漏れかもしれないし、私の疲労が作り出した幻臭かもしれない。
アクセルを踏む右足のふくらはぎが、強張って痙攣しそうになる。それを誤魔化すように、私はハンドルを握る指の力を強めたり緩めたりした。掌に滲んだ脂汗が、革巻きのハンドルにじっとりと吸い付く感覚が気持ち悪い。
窓の外は杉林の壁だ。密集した木々の幹が、ライトの光を受けて一瞬だけ白く浮き上がり、すぐに後方へと流れていく。それらが無数の卒塔婆のように見えて、私は無意識に視線を正面の白線に固定した。
異変は、峠の頂上付近を越えたあたりで唐突に始まった。
最初はフロントガラスに付着する水滴が増えた程度に思っていた。ワイパーを動かすと、ガラスの上で水が油膜のように伸び、視界が滲んだ。
違う。雨ではない。
霧だ。
それも、ただの霧ではなかった。山肌から噴き出すような、質量を持った白濁した気体が、雪崩のように道路へ押し寄せてきたのだ。
あっという間に、視界が奪われた。
ハイビームにすると、光が霧の粒子に乱反射して真っ白な壁を作り出し、余計に何も見えなくなる。私は慌ててロービームに切り替え、フォグランプのスイッチを押し込んだ。
それでも、有効視界は三メートルもなかった。
ボンネットの先端がようやく判別できる程度だ。その先は、乳白色の液体の中に沈められたかのような、均一で奥行きのない「無」が広がっている。
速度を落とす。時速二十キロ。いや、十キロまで落としてもまだ怖い。
右側は断崖絶壁のはずだ。左側は側溝か、山肌か。ガードレールの白い反射板だけが、頼りない命綱のようにポツリ、ポツリと闇に浮かんでは消える。
私は窓を数センチだけ開けた。視覚が頼りにならない以上、聴覚で対向車や路面の状況を探ろうとしたのだ。
入ってきたのは、冷たく湿った空気。
そして、奇妙な静寂だった。
虫の声もしない。風が木々を揺らす音もしない。タイヤが路面を噛む音さえ、霧が吸音材となって食い尽くしているようだった。
世界から音が間引かれている。
自分の心臓の音と、エンジンの不整脈のようなアイドリング音だけが、耳の奥で不自然に増幅されていた。
背筋のあたりが、ぞわりと粟立った。
恐怖というよりは、生理的な拒絶反応に近い。この霧には、何か良くないものが混じっている。
匂いだ。
窓の隙間から、腐った土のような、あるいは古井戸の底に溜まった泥のような、生臭く重たい匂いが入り込んできていた。それが鼻腔の粘膜に張り付き、肺の奥まで侵入してくる。
私は反射的に窓を閉めたが、車内の空気はすでに変質していた。
助手席のシートに置いた鞄が、何者かの気配を帯びて鎮座しているように見える。バックミラーを見るのが怖かった。もし後部座席に、この白い霧が人の形をとって座っていたらどうしよう。そんな子供じみた妄想が、脳のひだを侵食していく。
「……おい」
私は自分の声を確かめるように呟いた。
声は車内の空気に吸われ、驚くほど平坦に響いた。
進むしかない。引き返す場所などないのだ。
私はダッシュボードに置いたスマートフォンに目をやった。電波は圏外。GPSの現在地を示す青い矢印は、灰色のグリッドの上でフリーズしたまま、あらぬ方向を向いている。
まるで、ここが地図上のどこでもない場所であるかのように。
時間の感覚が麻痺し始めていた。
十分経ったのか、一時間経ったのか、あるいは数分しか経っていないのか。
白い闇の中を泳ぐように進む車内は、外界から隔絶されたカプセルのようだ。
ただ、ひたすらに直進しているはずだった。
ハンドルを切るような急カーブは現れない。山道なら、つづら折りのカーブが連続するはずなのに、ここしばらくはずっと緩やかな直線か、微かな左カーブが続いている。
下っている感覚も、登っている感覚もない。水平に、無限に引き伸ばされたチューブの中を滑っているような浮遊感。
その時、不意に視界の端で何かが動いた気がした。
ガードレールの外側。本来なら何もないはずの虚空に、人影のような黒い棒状のものが、等間隔で立っている。
一本、二本ではない。
数十、数百。
霧の流れが一瞬途切れた隙間に、それらは群れを成して立っていた。
木ではない。
もっと柔らかく、しなやかなもの。
私が通り過ぎる瞬間、それらが一斉にこちらへ頭を垂れたように見えたのは、眼精疲労が見せた幻覚だろうか。
私は悲鳴を噛み殺し、アクセルペダルを踏む足に力を込めた。
逃げなければならない。この霧の領域から。理屈ではなく、細胞が警鐘を鳴らしていた。
不意に、抵抗が消えた。
物理的な衝撃があったわけではない。ただ、空気が変わったのだ。
フロントガラスを覆っていた乳白色の膜が、何かの合図があったかのように、すっと左右に裂けた。
視界が開ける。
私は思わずブレーキを踏み、車を停めそうになったが、後続車がいるかもしれないという理性が働き、緩やかに減速するにとどめた。
霧は嘘のように消え失せていた。
そこにあったのは、見知らぬ街の灯りだった。
山道ではない。
私は、片側二車線の広いバイパス道路を走っていた。
頭上にはオレンジ色のナトリウム灯が規則正しく並び、無機質な光を路面に落としている。
両脇にはロードサイド店舗の巨大な看板。中古車販売店、全国チェーンの牛丼屋、巨大なパチンコ店のネオン。
見慣れた日本の地方都市の風景だ。
だが、違和感があった。
空気が、乾いている。
先ほどまでの湿り気を含んだ山の冷気とは違う。潮の匂いと、乾いたアスファルトの熱気を含んだ風が、閉め切った車内越しにも感じ取れるほどだった。
私は混乱したまま、青信号の交差点を直進した。
ここはどこだ。
峠を越えた先の隣町にしては、栄えすぎている。私の知るその町は、もっと寂れた宿場町の名残を残しているはずだった。こんな大きなバイパスなど通っていない。
路肩に車を寄せて停めようとした時、頭上の青看板が目に入った。
そこに書かれた地名を見た瞬間、思考が真っ白に凍りついた。
『↑新潟40km』
『←長岡25km』
は?
声にならない呼気が漏れた。
新潟?
馬鹿な。
私は長野県の南端、静岡県境に近い山間部を走っていたはずだ。
実家から自宅のある愛知県へ向かう途中だった。
どう考えても、新潟の標識が出るはずがない。方向が真逆だ。いや、方向以前に、距離がおかしい。
長野の南端から新潟の長岡周辺まで、下道で移動すれば優に五、六時間はかかる。高速道路を使っても三時間は下らない距離だ。
私は震える手でスマートフォンの画面を点灯させた。
電波はバリ三本立っている。
画面上の時刻表示を見る。
一時四十五分。
私が山道に入り、霧に遭遇したのが一時過ぎだった。
つまり、三十分から四十分程度しか経過していない。
一時間足らずで、三つの県を跨いだというのか。
数百キロメートルの道のりを?
峠道の時速二十キロのノロノロ運転で?
背中を冷たい汗が伝う。
私はハザードランプを点滅させ、近くのコンビニエンスストアの駐車場に滑り込んだ。
広大な駐車場には、長距離トラックが数台停まっているだけで、人の気配は希薄だった。
エンジンを切る。
静寂が戻ってくる。だが、それは先ほどの山の上の「音のない静寂」とは違う、電気的なノイズを含んだ日常の静けさだった。
私はシートベルトを外し、車外へと転がり出た。
足元がふらつく。
地面のアスファルトは確かに硬く、現実のものだ。
頬を撫でる風には、微かに日本海の潮の香りが混じっている気がした。
ここは、間違いなく北陸だ。
山を一つ越えただけのつもりが、私は本州を縦断していた。
キツネにつままれた、という言葉がある。
だが、そんな生易しい感覚ではなかった。
世界そのものの継ぎ目がずれてしまったような、絶対的な「誤り」の中に放り出された感覚。
私は車の周りを一周した。
ナンバープレートは愛知のままだ。ボディには泥汚れ一つついていない。あれほどの霧の中を走ったのに、水滴の跡さえ乾いて消えかけている。
夢遊病のように自動ドアをくぐり、コンビニの店内に入った。
雑誌コーナーへ向かう。
並んでいる地方情報誌の表紙には『新潟Komachi』の文字。
レジ横の肉まんのケースからは湯気が上がっている。
店員の若い男性が、不審そうに私を一瞥した。私の顔色が、よほど悪かったのだろう。
レジで適当なガムを買い、レシートを受け取る。
店名と住所が印字されている。
新潟県長岡市……。
間違いない。物理的な証拠が手元にある。
私は車に戻り、シートに深く沈み込んだ。
神隠しか。
ワープか。
そんなSFじみた単語が頭をよぎるが、現実はもっと即物的だ。
ガソリンメーターを見る。
出発時に入れた満タンの状態から、メモリはほとんど減っていない。
数百キロを走破したなら、半分近くは減っているはずだ。
つまり、車は「走っていない」。
距離を走らず、時間もかけず、場所だけが移動した。
得をした、と考えるべきだろうか?
長時間の運転から解放され、ガソリン代も浮いたのだ。
だが、私の本能は激しく警鐘を鳴らしていた。
タダより高いものはない。
物理法則を無視した現象には、必ず何らかの「代償」があるはずだ。
私は、自分の体を見下ろした。
手足はついている。痛みもない。記憶も連続している。
では、何が失われたのか?
コンビニの駐車場で、私は改めて車内を見渡した。
助手席の鞄、後部座席のブランケット、飲みかけのコーヒー。すべてが出発時のままだ。配置すら変わっていないように見える。
しかし、何かが決定的に違うという感覚が拭えない。
それは視覚的な情報ではなく、もっと原始的な、肌で感じる違和感だった。
例えるなら、自分の部屋に帰ってきたはずなのに、家具の位置が数ミリだけずらされているような、あるいは空気が誰かに一度吸い尽くされてから吐き戻されたような、生理的な不快感。
私はダッシュボードを開け、懐中電灯を取り出した。
外に出て、もう一度車を点検する。
タイヤを見る。溝はしっかり残っている。ホイールにはブレーキダストも付着していない。
やはり、数百キロを走った痕跡はない。
安堵すべき状況なのに、私の手は震えていた。
ライトの光が、フロントグリルを照らし出した時、私は息を呑んだ。
虫だ。
ラジエーターグリルとナンバープレートの周辺に、夥しい数の虫の死骸が張り付いていた。
蛾、羽虫、甲虫。
黄色や緑の体液が潰れ、黒い外殻と共にへばりついている。
夜間の山道を走れば、虫がぶつかることはある。だが、これは尋常な量ではなかった。まるで虫の竜巻の中に突っ込んだかのように、グリルの網目が見えなくなるほどびっしりと埋め尽くされているのだ。
さらに異様なのは、その種類だった。
ライトを近づけてよく見る。
見たことのない虫が混じっている。
透き通った羽を持つ、掌ほどもある巨大な蜻蛉のような虫。腹部が赤く発光しているかのような奇妙な甲虫。
日本の在来種だろうか?
いや、それ以前に、これほどの量の虫と衝突したなら、運転中にバラバラという衝撃音が絶え間なく響いていたはずだ。
私はあの霧の中で、何も聞いていない。
あの静寂の中で、私の車は何にぶつかり、何を殺しながらここへ辿り着いたのか。
吐き気を催し、私はその場にしゃがみ込んだ。
アスファルトの冷たさが膝を通して伝わってくる。
その時、ふと視線がタイヤハウスの内側に吸い寄せられた。
泥除けの裏側。
そこに、何かが挟まっている。
私は懐中電灯を口にくわえ、手を伸ばした。
指先に触れたのは、乾いた植物の感触だった。
引き抜いてみる。
それは、長さ二十センチほどの、枯れた草の束だった。
ススキに似ているが、茎が異常に太く、葉の縁がノコギリのように鋭い。指の腹が少し切れて、血が滲んだ。
問題なのは、その草に絡みついていたものだ。
灰色の、繊維状の塊。
一見すると羊毛のようだが、指で揉むと粉になって崩れた。
匂いを嗅ぐ。
強烈な、線香の匂いがした。
葬式で焚く、あの安っぽい線香の匂いだ。
こんなものが、道路のどこに落ちているというのか。
私はとっさにその草を地面に叩きつけ、靴底で踏み潰した。見てはいけないものを見た気がした。
車に戻り、ドアをロックする。
狭い密室だけが、今の私に残された安全地帯だった。
これ以上、状況証拠を探すのはやめよう。
とにかく家に帰るのだ。ここが新潟だろうがどこだろうが、車は動く。高速を使えば朝には愛知に戻れる。この不可解な出来事は、疲労が見せた白昼夢として処理してしまえばいい。
そう自分に言い聞かせ、エンジンキーを回そうとした指が止まった。
ドライブレコーダー。
フロントガラスの上部に張り付けられた、小さな黒い筐体。
私は数ヶ月前に、あおり運転対策としてこれを前後に取り付けていた。
もし、私が本当に瞬間移動をしたのなら、あるいは記憶を失って運転し続けていたのなら、こいつにはその「空白」が記録されているはずだ。
見るべきか、見ざるべきか。
好奇心よりも、事実を確認して安心したいという欲求が勝った。
私は震える指でレコーダーのメニューボタンを押し、再生モードに切り替えた。
小さな液晶画面に、録画リストが表示される。
最新のファイルを選択する。時刻は一時間前。私が霧に突入したあたりだ。
再生が始まった。
画面の中は、私の記憶通りだった。
暗い山道。ヘッドライトに照らされた杉林。
数分後、白い霧が視界を覆い尽くす。
画面は真っ白になり、何も見えなくなる。
ここまではいい。私の体験と合致している。
問題はここからだ。
私は早送りボタンを押した。
白い画面が続く。
五分、十分、二十分。
ずっと霧だ。景色は一切変わらない。
だが、画面の隅に表示されている速度計の数値に気づいて、私は息を止めた。
『0km/h』
止まっている?
いや、私はアクセルを踏んでいたはずだ。時速十キロから二十キロで、恐る恐る進んでいた記憶がある。
しかし、映像の中の車は、完全に停止していることを示していた。
GPSの速度表示だけではない。映像の微細な揺れもない。
車は、動いていなかったのだ。
では、なぜ私は「運転している」と感じていたのか?
さらに不可解なことが起きた。
映像の再生開始から三十分ほど経過したあたりだ。
真っ白な霧の中に、ぼんやりと何かが映り込み始めた。
フロントガラスの向こう側、ボンネットの上あたりだ。
最初はノイズかと思った。
だが、それは徐々に輪郭を持ち始めた。
手だ。
白く、細長い、人間の手のようなものが、霧の中から無数に伸びてきている。
それらはボンネットを掴み、ワイパーを掴み、フロントガラスにペタペタと張り付いていく。
手のひらがガラスに押し付けられるたびに、内側から見ている私(カメラ)の視界は、白っぽい肉色で埋め尽くされていく。
音声が入った。
ドライブレコーダーは車内の音声も録音する設定にしていた。
私の悲鳴が聞こえるかと思った。
だが、聞こえてきたのは、もっと異質な音だった。
「…………」
寝息だ。
規則正しい、深く、安らかな寝息。
それは紛れもなく、私自身の寝息だった。
私は運転席で、眠っていたのか?
あの恐怖の中で?ハンドルを握りしめ、脂汗を流していたはずの私が?
映像の中で、ガラスに張り付いた無数の「手」は、ズルズルと車体を後ろへ、いや、どこか別の方向へと引きずり込んでいるように見えた。
背景の白が、徐々に赤黒い色へと変色していく。
まるで、巨大な生き物の血管の中を通されているような、脈動する赤。
私は画面から目を逸らしたかったが、体が金縛りにあったように動かなかった。
画面の中の赤い世界は、ほんの数秒で終わった。
再び白い霧が戻り、そして唐突に、あのバイパスの風景へと切り替わったのだ。
その間、わずか一秒。
編集点などない。連続した映像として、赤黒い肉のトンネルから、新潟の夜景へと「排出」されたのだ。
私はドライブレコーダーの電源を乱暴に引き抜いた。
小さな画面は暗転し、車内に再び静寂が戻った。
心臓が早鐘を打っている。
見間違いだ。あるいは機械の故障だ。
そう思いたかったが、指先の震えは止まらない。
あの「手」の群れ。そして私の寝息。
辻褄が合わない。私は確かに意識があった。霧の中を運転していた記憶がある。
だが、記録された事実は、私が眠っている間に、何者かが車ごと異界を運搬したことを示している。
私はバックミラーを覗き込んだ。
自分の顔が映っている。
疲労の色は濃いが、いつもの私だ。
目は二つ、鼻は一つ、口は一つ。
おかしなところはない。
私は頬をつねってみた。痛い。
夢ではない。
とりあえず、ここを離れよう。
理屈は後だ。まずは家に帰る。愛知の自宅に戻り、布団を被って泥のように眠れば、すべては笑い話になるかもしれない。
私はエンジンをかけ、ナビの目的地を「自宅」に設定した。
三五〇キロメートル。到着予想時刻は午前六時。
長い夜になりそうだった。
高速道路に乗り、南へ向かって車を走らせた。
新潟の平野を抜け、山岳地帯へと入っていく。
トンネルに入るたびに、背筋が凍るような錯覚に襲われたが、幸いにして霧は出なかった。
車は順調に走り続けた。
だが、運転を続けるうちに、新たな違和感が私を蝕み始めた。
体の感覚がおかしいのだ。
ハンドルを握る腕が、妙に軽い。
まるで自分の腕ではないように、スムーズに、機械的に動く。
アクセルを踏む足もそうだ。疲労を感じない。
出発前にはあれほど重かった瞼も、今はぱっちりと開いている。
眠気がない。空腹感もない。
まるで、体が「新品」に取り替えられたような感覚だった。
あるいは、燃料満タンの車のように、何らかのエネルギーで満たされているような。
ふと、口の中に違和感を覚えた。
何か、砂のようなものが混じっている。
舌で探ると、奥歯の隙間から、ジャリリとした感触が広がった。
私は片手で口元を拭った。
掌を見ると、微細な白い粉が付着していた。
塩?
いや、これは……骨の粉末のような味がした。
夜明け前、私は無事に愛知の自宅アパートに辿り着いた。
部屋に入り、鍵をかけると、ようやく人心地がついた。
シャワーを浴びようと洗面所に向かい、鏡の前に立った時、私は自分の変化の正体を突きつけられた。
鏡の中の私は、若返っていた。
いや、正確には「つるりとしている」と言った方がいいだろう。
三十代半ばの私の顔にあったはずの、目尻の小じわや、髭剃り跡の青みが消えている。
肌は陶器のように白く、毛穴が見当たらない。
髪の毛も、一本一本が人工繊維のように太く、黒々としていた。
私は戦慄した。
これは若返りなどという生易しいものではない。
「作り直された」のだ。
あの霧の中で。あの赤い肉のトンネルの中で。
私は一度分解され、再構成されたのではないか。
私はシャツを脱ぎ捨て、自分の腹を見た。
そこには、あるはずのものがなかった。
幼少期に盲腸の手術をした際の、白い古傷。
それが、綺麗に消滅していた。
代わりに、へその横あたりに、見たことのない小さな痣があった。
痣の形は、まるで無数の小さな手が集まって、何かを掴んでいるように見えた。
私はその場にへたり込んだ。
一時間で三県を跨いだ理由。
ガソリンが減っていなかった理由。
すべてが腑に落ちるのと同時に、底知れぬ恐怖が喉元までせり上がってきた。
私は「移動」したのではなかった。
あの場所で、オリジナルは終わったのだ。
霧の中の何者かが、私の車を捕獲し、私という存在を解析し、そのコピーを目的地の近くに「出力」したのだ。
三Dプリンターが物体を複製するように。
だから、車は汚れておらず、ガソリンも減っていない。
だが、完璧な複製などこの世には存在しない。
記憶の連続性は保たれているが、肉体の細部――傷跡や、人間特有の「汚れ」――までは再現しきれなかったのだ。
そして、中身も。
私は自分の胸に手を当てた。
心臓の音が聞こえない。
いや、聞こえるのだが、そのリズムはあまりにも遅く、重かった。
ドクン………………ドクン………………。
一分間に十回程度しか脈打っていない。
人間ではない何かが、人間の皮を被ってここで呼吸をしている。
それから数年が経った。
私は今も、普通に生活している。
仕事も続けているし、誰にも怪しまれていない。
この話は誰にもしていない。
話せば、私が「私ではない」ことが露見してしまう気がするからだ。
ただ、一つだけ困ったことがある。
食事だ。
普通の食べ物を口にしても、味がしない。砂を噛んでいるようだ。
その代わり、雨の日や霧の出る夜になると、無性に外に出たくなる。
湿った空気を胸いっぱいに吸い込むと、腹の底から満ち足りた気分になるのだ。
そして時折、無意識のうちに、口元から白い霧を吐き出していることがある。
タバコも吸わないのに。
あの日、私は山道で近道をしようとした。
その結果、私は確かに早く着いた。
だが、その対価として、私は「人間」という道からも、ほんの少しだけ外れてしまったのかもしれない。
今でも鏡を見るたびに思うのだ。
山道に残された「本物の私」は、今もあの霧の中で、ハンドルを握りしめたまま、永遠に彷徨い続けているのではないか、と。
(了)
[出典:867 :本当にあった怖い名無し:2014/03/04(火) 00:27:03.70 ID:4IsS8q2o0]