ネットで有名な怖い話・都市伝説・不思議な話 ランキング

怖いお話.net【厳選まとめ】

中編 奇妙な話・不思議な話・怪異譚 n+2026

受話器の底で nw+

更新日:

Sponsord Link

三十年前、私はまだ十二歳だった。地主の家々が斜面に張り付くように点在する、あの盆地のような村の空気を、私は肌で憎んでいた。

晩秋の湿った土の匂い。祭りのたびに焚かれる薪の煙。そこに混じる、削れた古木の粉のような、喉に引っかかる臭気。それらが混ざり合い、夜になると村全体が生ぬるい呼気を吐き出すようだった。

夜は常に濃かった。街灯はまばらで、月明かりは杉の梢に遮られ、地面には千切れた影ばかりが落ちる。祭りの夜は特にそうだ。家々から持ち出された提灯の橙色の光が、闇に皮膚病の斑点のように散り、光の届かない場所では、泥のような暗さが口を開けていた。

その祭りは、村の大人たちが「秘祭」と呼ぶものだった。数年に一度、若者たちが集まり、古い米俵と木組みで作られた神輿を担ぎ、村境にある最も急な斜面から放り投げる。ただそれだけの、異様な行事だ。子供心にも、神聖とは程遠く、どこか痛ましく、恥ずかしいものに感じられた。

私の家は斜面の上の方にあった。祭りの準備の喧騒は、いつも遠い潮騒のように届く。低く唸る男たちの声、木槌の鈍い音。それらが夜になると湿気と一緒に窓ガラスを震わせ、その振動が指先に伝わってきた。

神輿は代々使い回されているらしかった。祖母は「新しくすると、馴染まんからね」と呟いた。使い古されたものが持つ、摩擦と汗の染み込んだ気配が、祭りの夜の空気には充満していた。

その年は霧が濃かった。夜八時を過ぎても斜面の下は乳白色に沈み、音だけが輪郭を失ったまま響いてくる。湿った空気が窓の隙間から入り込み、私の手のひらをねっとり冷やした。私は自室で毛布にくるまり、祭りから目を逸らしていた。

祭神について、子供は何も知らされない。聞けば「大人のものだ」と追い払われる。ただ祖父が酒に酔った拍子に零した、「痛いのがお好きでな」「恥ずかしがり屋だから、言うなよ」という二言だけが、妙に耳に残っていた。

その夜、私は自室の机に置かれた黒いダイヤル式電話機に触れた。村の電話はほとんどが内線で、滅多に鳴らない。湿気を吸った受話器はひんやりとして、誰かの皮膚に触れているような錯覚を覚えた。

私は苛立っていた。恐怖よりも、羞恥に近い感情だった。村中の大人が、真面目な顔で馬鹿げた秘密を共有している。その事実が、思春期に差しかかった私の神経を逆撫でした。

受話器を耳に当てると、ノイズの向こうから祭りの音が、妙に近く聞こえてきた。鉦と太鼓、低い歌声。外の出来事が、細い線を通って直接頭の中に流れ込んでくる感覚。私はそれを、外界を支配しているように錯覚していた。

やがて、音が途切れた。

次の瞬間、男たちの雄叫びが霧を裂いた。続いて、ゴロゴロと硬いものが転がり落ち、ドスン、バキッと何かがぶつかる音。神輿が投げ捨てられたのだと、理屈ではなく身体で理解した。

その直後だった。

斜面の底、霧の奥から、「ヒッ、ヒッ……」という、か細い嗚咽が聞こえてきた。聞き間違いではない。確かに、誰かが息を詰まらせて泣いている。

受話器越しの音は、生々しさを増していた。湿った、堪えきれないような息遣い。私はダイヤルに指をかけたが、止めた。内線しか繋がらないこの村で、誰かにかけるという行為自体が、禁忌に触れる気がした。

嗚咽は続いた。やがて、その合間に、掠れた声が混じった。「うぅ……やっ……」女の声だった。苦痛を訴える、はっきりとした人の声。

祖父の言葉が脳裏をよぎった。痛いのがお好きで、恥ずかしがり屋。これが、その正体なのか。

私は受話器を離せなかった。離した瞬間、この音の意味を考えてしまう気がした。音に集中することで、思考を止めていた。

やがて嗚咽は荒い呼吸へと変わった。ハッ、ハッという息の合間に、「あぁ……」と、どこか甘さを帯びた声が混じる。悦びと苦痛が、区別のつかない形で絡み合っていく。

それは明らかに異質だった。誰かの感情が、裏返され、剥き出しになって漏れ出しているような音。私は自分の耳が汚されていく感覚を覚えた。

その声は、一際高く伸び、悲鳴とも歓喜ともつかない音になり、唐突に途切れた。

沈黙。

受話器の向こうでは、風の音と、遠くで再び始まった祭りの歌声だけが聞こえる。先ほどまでの声など、最初から存在しなかったかのようだった。

私はその場に立ち尽くした。受話器は手の汗で湿り、ねっとりと重い。数分後、カシャン、カシャンと何かを片付ける音が聞こえ、祭りは終わった。

翌朝、村は何事もなかった顔をしていた。霧は晴れ、斜面の下にも異変はない。ただ、私の耳の奥だけに、あの歪んだ呼吸が残っていた。

数日後、祖母に尋ねた。「祭りの夜、怪我した人はいないの?」祖母は即座に答えた。「誰も怪我なんかしないよ。全部、神様が受けるんだから」

その言葉は、説明ではなく、封印だった。

三日後、同級生の女の子が風邪で休んでいると聞いた。古い家の子で、祭りの時に特別な役をするという噂があった。私は何も聞けなかった。ただ、彼女が戻ってきたとき、その目がどこか遠くを見ていたのを覚えている。

それから三十年が経った。村は観光向けに整備され、祭りも公開された。資料には有名な神の名が並んでいる。痛みや羞恥の話など、どこにもない。

私は久しぶりに実家に戻り、自室で埃をかぶった黒い電話機を見つけた。受話器を手に取ると、冷たい感触が、あの夜を引き戻した。

製造年の刻印は、私の生年と同じだった。

私は、無意識に受話器を耳に当てた。

ノイズしか聞こえない。だが、そのノイズの奥で、自分の呼吸が、妙に歪んで聞こえた。ハッ、ハッ……。それが、あの夜の声と、どこまで同じで、どこから違うのか、私にはもう判別がつかなかった。

受話器を置いても、耳の奥は静まらなかった。祭りの夜に聞いたものが何だったのか、今でも名前をつけられないまま、私の中に残っている。

あの村が捨てたのは、神輿だけではなかったのだと思う。

(了)

[出典:881 :本当にあった怖い名無し:2013/12/05(木) 10:55:20.18 ID:3yuNdZwC0]

Sponsored Link

Sponsored Link

-中編, 奇妙な話・不思議な話・怪異譚, n+2026

Copyright© 怖いお話.net【厳選まとめ】 , 2026 All Rights Reserved.