夏の夜だった。
コンビニの帰りで、湿った空気が肌にまとわりつく時間帯。眠いけれど、まだ寝るには早い、頭だけがぼんやり浮いているような深夜だった。姉と従兄弟たちと、どうでもいい話をしながら家へ向かっていた。
家の前に着き、姉が玄関の鍵を探してガチャガチャやり始めた、そのときだった。
私は、何となく横を見た。
隣の家の庭。
生垣の向こうを、白いワンピースを着た長い髪の女が、音もなく横切っていった。
一瞬だった。歩くというより、地面の上を滑るような動き。
そこに、そんな人は住んでいない。
梅雨明け直前の午前一時過ぎ。月は薄雲に隠れ、街灯の橙色の光が湿気を含んだ空気をぼんやり照らしていた。人感センサーのない住宅地は暗く、数メートル先の影さえ、何か別のものに見えるほどだった。
鍵の金属音がやけに大きく響く。
カチャカチャという音が途切れた、その無音の中で、私はかすかな衣擦れのような気配を感じた。
隣家との境の生垣は低い。
その向こう、物置と植え込みの間の影が濃い一角に、白い背中があった。
背が高い。
隣の家のお姉さんにしては高すぎる。夜中に庭を歩く格好でもない。
何より、その動きには人間特有の間がなかった。
私は、なぜか腹が立った。
なぜ誰も気づかない。なぜ音がしない。
石段から飛び降り、生垣に駆け寄り、身を乗り出した。
庭には、誰もいなかった。
植木鉢の陰も、物置の脇も、逃げ込める場所はない。
私が目を離したのは、ほんの数秒だ。
年上の従兄弟に声をかけると、彼は淡々と言った。
「にーにもそっち見てたけど、誰も居なかったよ」
背中を冷たいものが走った。
私だけが見たのか。
それとも、見たのは本当に私だけだったのか。
玄関に入るとき、私は無意識に石段に触れた。
冷たいはずのコンクリートに、わずかに湿って、粘つくような感触が残っていた。水ではない。指先に薄い膜が張りつく感覚だった。
翌朝、隣の家のトイプードルが死んだ。
庭で倒れていたらしい。突然のことだった。
理由は分からない。
ただ、その犬はいつも庭にいて、私たちを見ると尻尾を振っていた。その事実だけが、昨夜の白い背中と、どうしても結びついてしまった。
数ヶ月後の昼下がり。
二階の自室で本を読んでいると、窓から入る光が、ふっと弱まった。
顔を上げた瞬間、心臓が止まった。
窓の真正面に、白いワンピースの女が立っていた。
背中を向けている。髪は長く、黒い。
距離は、数十センチ。
部屋の中だ。
私は声も出せず、ただ見ていた。
布が、風もないのに、かすかに揺れている。
女が、ゆっくりとこちらを向いた。
顔はぼやけていた。
だが、二つの光だけが、はっきりとこちらを見ていた。
私は叫んで階段を転げ落ち、姉を引きずって部屋に戻った。
そこには、誰もいなかった。
隠れる場所も、逃げる場所もない。
窓は開いたままだった。
それ以来、私はときどき思い出す。
玄関の石段の冷たさ。
指先に残った、あの粘つく湿り気。
あの夜、隣の庭を横切ったものが何だったのか。
二階の窓の前に立っていたのが誰だったのか。
私は、確かに見た。
それだけは、今も変わらない。
(了)
[出典:50 :以下、5ちゃんねるからVIPがお送りします:2019/06/20(木) 23:37:44.091ID:85jF0BEe0]