一九九七年六月二十六日。薄曇りで、アスファルトがぬめるような午後だった。
M町の繁華街。雑居ビルの壁面に設置された巨大スクリーンではJリーグ中継が流れ、実況がけたたましく響いていたはずなのに、俺の立っていた歩道の一角だけは、水を含んだ布を被せられたように静まり返っていた。
当時の俺はホストのバイトをしていた。
金よりも、くだらない承認欲求に飢えていた頃だ。金髪に黒のスーツ。真夏の日中には不自然な格好だった。
ポケットのPHSを開くと「アト二〇フンデトウチャクナリ」の表示。舌打ちしながら煙草を咥えたときだった。
通りの向こう、百メートルほど先に、ひとりの少女が立っていた。
隣には年上らしき女性。ふたりでアイスを食べている。何の変哲もない光景だ。
だが少女だけが、動かなかった。
瞬きもせず、アイスにも口をつけず、ただこちらを見ていた。
いや、俺を、ではない。俺の奥にある何かを覗き込むように。
やがて、ふたりはこちらへ歩いてきた。
すれ違う、その一瞬。
少女は、ふわりと笑った。
「あと八年後やねー」
耳元で囁かれたわけではない。
それでも、声は確かに俺の鼓膜を震わせた。
振り返ったときには、もう姿はなかった。
人波の中に溶けたのではない。
人の流れ自体が、そこだけ一瞬、途切れていた。
同伴で来た客に話すと、「何それ、気味悪い」と笑われた。
俺もそれ以上考えないことにした。
それから八年後。
二〇〇五年十一月。
俺はひとりの女と出会った。
紹介で会った、ごく普通の女性だった。
どこかで見た顔だと思ったが、思い出せなかった。
結婚した。
穏やかな生活だった。
だが二〇〇九年七月五日、彼女は亡くなった。
長い闘病の末だった。
葬儀が終わり、遺品を整理していたとき、一冊のアルバムを見つけた。
ページをめくる。
旅行の写真が並ぶ。
そして、手が止まった。
M町のKビル前。
アイスを持つ若い女性が二人、ピースサインで笑っている。
ひとりは若い頃の妻。
もうひとりは――あの日の少女だった。
裏面の日付。
一九九七年六月二十六日。
俺があの街角に立っていた日と、同じ。
写真をよく見ると、奇妙なことに気づいた。
妻はカメラを見て笑っている。
だが少女だけが、カメラを見ていない。
真正面。
レンズの奥。
撮影者の背後――そのさらに先を見ている。
まるで、そこに立っている誰かを見ているように。
その位置は、通りを挟んだ向こう側。
俺が立っていた場所と、ほぼ一致していた。
裏には妻の字で、こう書かれていた。
「なんか運命を感じた旅行かも」
生前、妻はM町の話をしても覚えていないと言っていた。
「あれ、行ったことあったっけ?」と笑っていた。
だが写真は残っている。
「あと八年後やねー」
あの言葉が、出会いを指していたのか。
それとも、結婚か。
あるいは、彼女の死か。
数えてみた。
一九九七年から八年後は二〇〇五年。
出会いの年だ。
だが、出会いから八年後は二〇一三年になる。
今年が、ちょうどその年だ。
最近、妙なことがある。
夜中に目が覚めると、誰かが部屋の隅に立っている気がする。
気配だけだ。
振り向けば何もいない。
だが、耳の奥で、あの声がくすぶる。
「あと八年後やねー」
次の八年は、何を指しているのか。
あの少女は、あのとき、俺を見ていたのか。
それとも、未来の俺の背後に立つ何かを見ていたのか。
写真の少女は、今もそこを見ている。
レンズの奥。
時間の向こう。
俺はもう、あの日の場所に戻れない。
だが、あの日はまだ終わっていない気がする。
湿気を帯びた午後の空気が、喉に張り付く。
八年後。
それが、まだ来ていないだけだとしたら。
[出典:664 :本当にあった怖い名無し:2010/03/29(月) 06:34:01 ID:nbTh4z3/0]