小学生の頃、近所に〈アイ〉と呼ばれている中年の男がいた。
誰も本名を知らなかった。
彼はいつも同じ声を発していた。「あいっ」。それだけで十分だった。
午後三時すぎ。ランドセルの列が商店街を流れ始める頃になると、ギシギシ音を立てるママチャリが現れる。カゴは空っぽ。ベルはなく、代わりに錆びた笛がハンドルにぶら下がっている。口で吹いているわけではない。風を受けると勝手に鳴る。
ひゅうっ、という音に、遅れて「あいっ」という声が重なる。遠くからでも分かった。その音を聞くと、なぜか背中が冷えた。

アイは低学年の男子にだけ近づいた。
突然、ぎゅっと抱きつく。逃げる暇はない。猫が跳びかかるみたいだった。
怒鳴らない。殴らない。むしろ嬉しそうに、「大丈夫、大丈夫」と繰り返す。何が大丈夫なのかは分からなかった。
三年生になると、狙われなくなった。
四年生になると、視界にも入らなくなった。
こちらが気づいても、向こうは何も見えていないみたいだった。
ある日、仲の良かったカズキが聞いた。
どうして女の子にはしないのか、と。
アイは少し考えてから、真面目な顔で答えた。
「それはね、来ちゃうから」
何が、とは言わなかった。
けれど、こちらは分かってしまった。
それまで「変な人」で済ませていた感覚が、音を立てて崩れた。
それでも、誰も通報しなかった。
学校も、親も、知っていたはずだ。
ただ、深く関わらなかった。「知らない人にはついていくな」と言うだけだった。
夏の夕方、用水路で遊んでいた。
全長五十メートルほど。普段は浅いが、場所によって急に深くなる。
下級生のユウキが足を滑らせた。
コマが倒れるみたいに横転して、そのまま沈んだ。
その瞬間、声がした。
「だいじょおおぶっ」
どこから来たのか分からない。
アイが走ってきて、水の中に飛び込んだ。
自転車は放り出され、笛の音だけが遅れて鳴った。
跳んだ。
まっすぐだった。
ズンッ、と鈍い音。
水が跳ね、泡が立ち、姿が消えた。
誰かが小さく言った。
頭を打ったのかもしれない、と。
泡はしばらく浮かんでいたが、やがて止まった。
ユウキは自分で岸に上がった。
びしょ濡れだったが、泣いていなかった。
「水、飲んだだけ」
手には、金色のボタンが握られていた。
その日を境に、アイはいなくなった。
ママチャリも、笛の音も、声も。
大人たちは好きなことを言った。
実家に帰ったとか、どこかに入ったとか。
確かなことは何もなかった。
しばらくして、下流で男の遺体が見つかったという噂を聞いた。
新聞には載らなかった。
名前も出なかった。
それが誰だったのか、決めたのは俺たちだ。
何十年も経った。
俺はいま、あの町には住んでいない。
先日、久しぶりに帰省して、用水路を見に行った。
水は干上がり、底が見えていた。
立ち止まって覗き込むと、こちらを見返すものがある気がした。
風が吹いた。
どこかで、ひゅうっ、と音がした。
耳元で、
「あいっ」
声がした。
振り返っても、誰もいなかった。
ただ、なぜか分かった。
年齢は関係ない。
あそこに近づく理由があるかどうか、それだけだ。
そう思った瞬間、自分が何を探してここに来たのか、分からなくなった。
[出典:450 :本当にあった怖い名無し:2021/12/16(木) 00:37:17.67 ID:KEDCB7VP0.net]