中学に上がる前の頃だったか、囲炉裏のそばで、じいさんが火箸をいじりながら話してくれたことがある。
それはどうにも頭から離れず、歳を重ねた今でも、思い出すと背筋がひやりとする。
じいさんは畑も耕してはいたが、毎年のうち何か月かは山で暮らすのが常だった。
生計のためが半分、残りの半分は性分だろう。
あちこちの山に手作りの小屋を点々と置き、そこを泊まり歩く。
山の中で手に入る食べ物だけで過ごすのも、じいさんにとっては当たり前だった。
春から秋にかけての山は豊かだ。
杉の植林なんぞじゃない、雑木がぎゅっと詰まった山なら、木の実、山菜、茸、鳥獣……。
じいさんは鉄砲を背負っていたが、職業猟師というほどのものじゃない。
兎や山鳥を一、二羽仕留めて自分で食べるくらいで、むしろ炭焼きや薪の切り出しのほうが多かった。
当時は山奥に入りさえすれば、誰のものでもない領域がいくらでもあったという。
そんな中での話だ。
ある晩、じいさんは予定よりも遅れてしまった。
山暮らしの鉄則として、夜間の行動は避けるものだが、その日はどういうわけか行程を見誤ったらしい。
次の拠点の小屋に着くのが遅れ、空はすでに暗くなりかけていた。
雨ならば手頃な場所を見つけて野宿していたろうが、その夜は澄んだ空だった。
小屋までは一時間もかからない距離、松明を灯して進むことにした。
林を抜け、尾根に出たとき、妙な明るさに気づいたという。
見上げると、桃の実のように大きく、赤みを帯びた満月が山の端にかかっていた。
吸い込まれるようにしばし見とれていたが、ふと二十夜を過ぎた日だと気づく。
満月のはずがない。
しかも、まだ月の出る刻限でもない。
胸の奥がざわついた、その時だった。
足元に小石が落ちてきた。
尾根は開けており、誰かが投げたならすぐに見えるはずだ。
しかし次の小石も、その次も、中空から湧くように飛んでくる。
四つ目の石は握り拳ほどの大きさで、耳元をかすめた。
じいさんは身を翻して斜面に伏せ、背負っていた鉄砲を引き抜いた。
狙いを定め、引き金を絞った相手は――空に浮かぶその赤い月だった。
乾いた轟音が尾根に響いた。
その直後、空からも「ガーン」と鉄を打つような音が返ってきた。
視界から月がすっと消える。
森の奥から、ぎゃぎゃぎゃぎゃ……と、何十人もの笑い声が重なったような奇怪な響きが押し寄せた。
背筋が冷たくなったが、じいさんは鉄砲を収め、胸を張ってゆっくりと歩き始めた。
腰に下げた山刀を、あえて見せつけるようにして。
やっと小屋にたどり着き、入り口の筵をめくると、土間に大きな銅鍋が転がっていた。
底は凹み、ぽっかりと穴が開いている。
どう見ても銃弾の痕だった。
その鍋は、以前仲間とこの小屋に泊まったとき、狸汁を煮たものだったという。
あの赤い月は、鍋底を掲げた狸の仕業だったのか。
じいさんは囲炉裏の火を絶やさぬよう夜を明かし、二度とその山では狸を撃たなかったそうだ。
今にして思えば、あの笑い声は、山の奥に溜まった何十年分もの悪戯心が一斉にあふれ出した音だったのかもしれない。
それを耳にした者は、もう二度と山を真っ直ぐ歩けなくなる。
じいさんがあれほど逞しい背を持ちながら、狸の話になると黙り込む理由が、今ならわかる気がする。
[出典:792 :本当にあった怖い名無し:2021/07/04(日) 16:08:00.96 ID:1+woRPaB0.net]