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音だけが近づいてくる rw+3,015-0124

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先週の金曜日、会社の先輩である大村が亡くなった。

マンションの自室で、両耳にボールペンを深く突き刺した状態で発見されたという。警察は事件性を否定し、自殺と判断した。両手はペンを強く握り締めており、争った形跡もなかったそうだ。

同じ課の連中は皆、言葉を失っていた。温厚で、冗談も通じて、誰かと揉めるような男ではなかったからだ。通夜の連絡が回り、課長以下全員が参列することになったが、俺は体調不良を理由に断った。斎場の空気に耐えられる気がしなかった。

大村とは、ただの職場の先輩後輩ではなかった。休日に酒を飲み、愚痴を言い合い、互いの部屋を行き来する程度には近しい関係だった。

三週間前の夜も、そんな何でもない時間だった。

仕事帰りに俺の部屋へ寄り、缶ビールを開け、同僚や上司の悪口を並べる。笑い声が混じる、ありふれた夜だった。冷蔵庫が空になり、大村が買い出しに行こうと言い出した。正直もう十分だったが、彼は妙に酒に執着していた。

二人で近所のスーパーに入った。時間帯のせいか、店内は静かで、蛍光灯の音だけが耳についた。野菜売り場に差し掛かったとき、大村が急に足を止め、俺の袖を掴んだ。

「あれ、見ろよ」

視線の先に、女がいた。腰まで伸びた髪が乱れ、顔を隠している。買い物カゴを腕に提げ、レタスを一玉ずつ手に取っては戻している。そのたびに、かすれた声が漏れていた。

「いひゃっ……いひゃっ……」

笑っているようにも、息を漏らしているようにも聞こえた。抑揚のない、奇妙な音だった。

大村は酒が回っていたのだろう。「何だよ、あれ」と吐き捨てるように言い、女の方へ歩いていった。俺は止めなかった。面倒だったし、深く考えもしなかった。

「なあ、何がそんなにおかしいんだよ」

女は答えなかった。こちらを見もしない。ただ、その音を繰り返すだけだった。大村は何度か声を荒げ、最後には「気味悪いな」と言って背を向けた。

その直後だった。

酒の棚の方から、大村の短い叫び声が聞こえた。振り返ると、女が至近距離に立っていた。いつ移動したのかわからない。顔は見えなかったが、音だけが近かった。

「いひゃっ、いひゃっ」

大村の頬に何かが飛んだ。唾液だった。大村は反射的に女を突き飛ばした。女は床に倒れたが、音は止まらなかった。周囲の客は見て見ぬふりをし、店員も近づかなかった。

俺は棚から酒を掴み、レジへ向かった。何かがズレてしまった感覚があったが、その正体を考えないようにした。

部屋に戻ってからも、大村は落ち着かなかった。会話は途切れがちで、笑ってもどこか上滑りしていた。ゲームを始めると一時的に調子は戻ったが、夜が更けるにつれ、彼は頻繁に耳を押さえるようになった。

それが最初だった。

翌日から、大村は常にイヤフォンをしていた。音楽を流しているらしいが、音漏れするほどの音量だった。声をかけても気づかず、仕事中も外さない。注意されても、謝るだけで改善しなかった。

やがて、独り言が増えた。

「うるさい」「聞こえる」

誰に向けた言葉なのかわからない。時折、耳を塞いで俯いたまま、動かなくなることもあった。

我慢できなくなり、俺は彼をファミレスに連れ出した。コーヒーを前に向かい合い、「最近おかしい」と率直に言った。

大村はしばらく黙っていたが、やがて低い声で話し始めた。

あの夜以来、あの音が頭から離れない。最初は気のせいだと思った。だが、静かな場所ほどはっきり聞こえる。耳を塞いでも、音楽を流しても、消えない。

「笑ってるんじゃない」

そう言ったときの表情を、俺は忘れられない。

「呼ばれてる気がする」

俺は苛立ち、「一緒に行こう」と言った。スーパーに行って、何もいないと確認すれば終わる話だと思った。大村は激しく拒んだが、俺は構わず引きずるように連れ出した。

夜のスーパーは、あの時と同じだった。蛍光灯の音、静かな通路。野菜売り場を覗いたが、誰もいなかった。

大村は突然、耳を塞ぎ、しゃがみ込んだ。

「いる……」

俺は何も聞こえなかった。そう思っていた。

背後で、音がした。

「いひゃっ……」

振り返ると、女が立っていた。いつからいたのかわからない距離で、こちらを向いていた。髪の隙間から覗いた目は、こちらを見ていなかった。焦点が合っていない。

大村が振り返ろうとした瞬間、俺は反射的に彼の肩を掴み、強く押さえつけた。理由はわからない。ただ、見せてはいけない気がした。

女はそのまま通路を歩いていった。音だけを残して。

去り際、こちらに顔を向けた。その口には歯がなかった。

大村を無理やりバスに乗せ、俺は逃げるように帰った。あの時、耳の奥に、何かが残った気がした。

それから大村は会社に来なくなった。

そして、金曜日。

俺は今も、静かな場所が苦手だ。音楽を消すと、部屋が広くなりすぎる。イヤフォンを外すと、耳の奥が妙にざわつく。

大村が何に気づいていたのかは、わからない。

ただ一つ、確かなことがある。

あの音は、笑い声ではなかった。

最初から、誰かを見つけた音だった。

(了)

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